第四十三話 朝の一幕
「じゃあアルちゃん、エイベルを起こしてきて貰える?」
朝。
すやすやと眠るフィーを愛でた後は、エイベルを起こすところから俺の一日が始まる。
母さんと愛妹は似ているところもあるけれど、違うところも、もちろん多い。
それが朝で、母さんは早起きだが、妹様は中々起きてこない。
尤もこれは子供特有のもので、将来的には早起きになるのかもしれないが。
俺はなるたけ規則正しい生活になるように心懸けているので、母さんに次いで起きるのが早い。
これはただ単純に健康に気を遣っていると云うのもあるが、フィーに内緒で何かをやる場合、深夜か早朝しか時間が取れないという事情もあったりする。
その辺の事情を察して、俺が離れても大丈夫なようにマイエンジェルは母さんが抱いていてくれる。
その間に、俺は恩師を起こしに行くのだ。
母さんは自分でエイベルを起こしたがるが、我が師が親友に起こされることを警戒している。
「……リュシカは不必要に触ってくるから……」
と云うのが、その理由。
それで俺がご指名を受けているわけだが、この件に関しては母さんの気持ちが分かるから、少し心苦しい。
今ならば、こっそりと耳に触れるのではないか?
毎朝、俺はその誘惑と戦っているのだから。
しかし、信頼されて用いられている手前、それを踏みにじるような真似は出来ない。
そうして、アーチエルフ様の聖域たる屋根裏部屋へとやって来る。
いつ来ても思う。
いいなァ、この空間。落ち着いていて、本当に良い雰囲気だ。
その素敵空間でエイベルはベッドではなく、布団を敷いて寝ている。
寝顔はまるで人形か死体のように、静かで綺麗だ。
クレーンプット母娘のように、口を開けた可愛くも間の抜けた寝姿ではない。
しかし、眠りはあのふたりよりも深い。
有り体に云えば、この人、ねぼすけさんなのである。
「エイベルー。エイベルー。朝だよー」
軽く肩を揺さぶると、魅惑の耳がぷるぷると揺れる。
(くッ……。触りたい……!)
人間の耳は揺さぶっても揺れないが、耳が長いとその分、振動が伝わるんだな。異世界に産まれなかったら、そんなこと生涯知らなかっただろう。
「……んっ……?」
ゆさゆさとエイベルを揺すっていると、やっと目覚めの声をあげられた。
かすかに瞼が開き、トロンとした瞳で俺を見つめる師匠。
「おはよう、エイベル」
「……ん。たべる」
ダメだ。寝ぼけていらっしゃる。
エイベルは食いしん坊ではないけれど、甘いものには目がないので、きっと、そういう夢でも見ていたのだろう。
ふらふらとおぼつかない動きなのに、シャシャーッと凄い速さで腕が伸びてきて、俺を自らの陣地に引っ張り込んだ。
(うう~ん。抱き枕にされてしまったぞ……)
こういうことは、稀によくある。
エイベルの身体は華奢なのに、抱きしめられると不思議と心地よく柔らかい。これが女の子と云うものなのだろう。あと、凄く良い匂いがする。
しばらく様子を見てみるが、目を開く様子もない。
仕方がない。声を掛けよう。
「おーいエイベルー。目をさましてくれー……」
もしもこんな所を妹様に目撃されたら、激怒事案になってしまう。
フィーの中では、俺がだっこして良いのは自分だけで、俺に抱きついて良いのもフィーだけなのだ。
ちなみに母さんは俺にもフィーにも抱きつくが、どういう訳かスルーされている。
それにしても、エイベルが俺を抱く腕は力強い。
(ぐぅっ……! この細い身体のどこに、こんなパワーが……! とてもふりほどけん……!)
さて、俺はこの状況をどうすべきか?
流石にマイティーチャーの感触を楽しんでいるわけにも行かない。脱出を試みよう。
「フィーの引き剥がしで培った、抱き枕解除術の奥義を見せてくれるわ」
妹様も俺を掴む時だけは、やけにパワフルだからな……。
激流に逆らってはダメだ。そっと腕を撫で、安心感を与えてやる。
すると、捕まえる力が弛んでくるのだ……。
よしよし。こうなればしめたものだ。
あとは急に離れずに、ある程度の密着を保ったままで、離脱の体勢を整えて行く事が重要だ……。
そして身体の自由が完全に利くようになった瞬間に、
「とうっ!」
脱出成功。
妹様すらだまし遂せる兄の技能、思い知ったか!
「今日のエイベルはダメだな。いつもよりも眠りが深い」
たまにそんな日があるが、今日がそれであるようだ。
母さんに代わって貰おう。きっと大喜びで引き受けてくれるに違いない。
俺はその間、フィーに癒して貰うのだ。
眠り続けるエイベルに背を向け、階段へと差し掛かる。
その、瞬間だった。
「うえっ!?」
まるで背後に向かって落ちていくような感覚。
背中側に引っ張られ、吸い込まれるかのような挙動。
俺は一瞬で、エイベルの腕の中に戻っていた。
「は!? え!? 何だこれ!? ど、どうなっているんだよ!?」
起き上がって駆け出す。
「ぬあああっ!」
布団に戻される。
もう一度走る。
「ひぃうッ!」
それでもマイティーチャーの腕の中に。
(な、ななな、何だこれ!? エイベルの魔術か!? それとも別の……?)
逃げられない。
エイベルからは逃げられない。
俺が何度も何度も階段前と布団の中とを行ったり来たりしていると、どったんばったんやりすぎたのか、恩師がようやく目をさます。
「……ん。……ア、ル……?」
「お、おはよう、エイベル」
「……おはよう」
俺の顔が目の前にあるからか、エイベルの顔がほんのりと赤い。
今の俺はしっかりとエイベルに抱きしめられている。
まるで妹様と一緒にベッドに入る時のようだ。
まだ眠そうな顔のままだが、我が師は自分が弟子を抱きかかえていることに気付いたようだ。
「……私が引きずり込んだ?」
「布団に潜り込むだけならまだしも、腕を巻き付けるのは無理だからね」
「……ごめんなさい」
うむ。きちんと状況を確認出来ているのは良いことだ。
目の前に男がいるだけで「キャー」とか騒ぎ出して暴力振るうヒロインみたいな人じゃなくて良かった。
「ところでエイベル、俺を引き寄せるような魔術とか、使えたりするの?」
「………………………………何のこと?」
眠っていたこととはいえ、『そういう術』におぼえはあるようだ。
あれはまるで俺自体に磁力が働いたか、重力でも操られたかのようなものだった。
慌てていてきちんと魔力を観測していないが、極めて魔術的な現象であったのは間違いない。
しかし、エイベルは話すつもりもないようだ。
彼女が無意味に秘匿するとも思えないから、無理な追及はしない方が良いのだろうが……。
「あー、アルちゃん、遅いと思ったらエイベルとイチャイチャしてるー!」
そんな時、背後から響く母さんの声。
イチャイチャと云われてしまったが、まあ、今の俺はエイベルに抱きしめられたままだからな……。
弁解は無駄だろう。
(でも母さんにからかわれるくらいなら構わないが、フィーに目撃されると困るぞ)
もしも妹様に見られていたら、母さんよりも先に声をあげて突進してくるに違いない。
だから発覚はしていないのだろう。
マイティーチャーから離れて振り向くと、フィーは母さんに抱かれたまま眠っていた。
どうやら、まだお目覚めになられていないご様子。
ちょっとホッとした。間男でもあるまいに。
ゆるみきった顔で眠るマイエンジェルの銀髪を撫でると、ちいさく可愛い声をあげて、妹様が目をさまされた。
「んゅ……。にーた……?」
「おはよう、フィー」
「……にぃさ、ま、おはようござい、ます」
俺と目があった瞬間、寝ぼけ眼で満足そうに、にへらと微笑む妹様。
こちらに手を伸ばして俺を求めるので、それを察した母さんが娘を渡してくれる。
「ふへへへへ……。にーた、にーたぁ。すき。ふぃー、にーたすき……」
セリフはいつも通りだが、寝起きだからか声はちいさい。
妹様は一心不乱に俺に頬を擦り付けている。
その間、もう一人のねぼすけ様はと云うと。
「……リュシカに見られた……。恥ずかしい……」
ちいさな声で、そんなことを呟いている。これは気付かないフリをしてあげるべきなのだろう。
結局、引き戻され続けた不可思議現象が何だったのか、質すことは出来なかった。
ただそれだけの、朝の一幕。
 




