第四百三十話 ミアお姉ちゃんのお願い
神聖歴1206年の九月。
今月は、いよいよ『氷雪の園』へ向かう予定だ。
尤も、セロのときのような『長居』は出来ない。
すぐに帰ってくることにはなるだろうが。
一応、『無断外泊』の予定なので、商会が影武者を立ててくれる。
と云っても子役がいるわけでなく、ティーネやフェネルさんがこちらに詰めて、俺たちが『いる』ように見せかけてくれるだけなのだが。
他、使用人代表として、ミアもこの『偽装工作』に荷担してくれる。
ティーネもフェネルさんも、それからミアも、俺たちの大氷原行きに同行したがったが、こればかりは仕方がない。
前回向こうに行った時も、エアバイクの定員問題があったしね。
というか、今回は母さんもいるのに、どうするんだろう?
考えていると、ゾクゾクとする寒気と共に、気色の悪い気配が俺の背中に届いた。
「ハッ!? この邪気は……!?」
振り返れば、奴がいる。
物陰からジッと、粘り着くような視線で俺を見つめる、ヤツがいるのだ。
「くふ……っ! くふふふふふ……っ! 真剣なお顔で考え込むアルトきゅんも、良いものですねー」
出たな変質者。
俺と目のあったミアは隠れ潜むのを止め、ぬるぬるとした動きで俺の隣に座った。
その顔には、極上の笑みが張り付いている。
「な、何の、用だ……」
俺は最大限の警戒をする。
この怪物を相手に、警戒しすぎるということは無いはずだ。
「アルトきゅぅん、そんなに怯えないで下さいよぅ。仲の良いお姉さんと美幼年がむつまじく語り合う……。それは、この星開闢以来の在るべき姿なんですねー」
初めて聞いたわ、そんな珍説。
「くふ……っ! くふふふふふ……っ!」
くそう、何という上機嫌。
しかし俺は、その理由を知っている。
「はぁ~……っ! アルトきゅんへの『お願い』、何にしましょうかねー?」
そう。
これこそが、ミアが浮かれている理由なのだ。
我がクレーンプット家の『外泊』にあたって、ミアには協力を要請した。
無理をして貰うわけだから、当然、『対価』が必要となる。
――それが、『お姉ちゃんお願い権』なのである。
商談が成立して以来、もうミアは連日浮かれっぱなしだ。
俺は悪魔と契約すると云うことがどういうものなのか、その恐ろしさを少し分かった気がして胃が痛い。
『経験は最高の教師である。ただし、授業料が高すぎる』とは、誰の言葉だったろうか。
「くふふ……。アルトきゅんが、ついにこのミアお姉ちゃんのものに……!」
待て!
別に身体も魂も売った覚えはねぇ!
「上目遣いで、指を咥えながら見上げて貰う――いやいや、それだけだと勿体ないですねー! 一人称を『ボク』に変更して貰うのも悪くないですねー! 或いは、あられもない姿を写真におさめると云うのも有りですねぇぇっ! あぁっ、しかし、半ズボンをはいて貰うというのも……!」
俺の両脚は大地を踏みしめる為にあるのであって、変態の目を楽しませる為にあるんじゃないんだァッ!
あぁ、鳥肌が立ってきたぞ……。
「――と、冗談はさておきですねー」
スッと表情を切り替える駄メイド様。
お前誰だ、ってレベルで、ミアが澄んだ顔をしている。
これ、一級変質者じゃなくて、美少女メイドだ!
「実は、アルトきゅんへの『お願い』は、もう決まっているんですよー」
「うん? それは?」
何だろう……。
今のミアからは、穢れた波動を感じない……。
木こりの泉に落っことして、『綺麗なミアちゃん』にでもなったかのように。
(このミアの『お願い』なら、叶えてあげても平気そうな気がするぞ……)
駄メイド――であるはずの少女は、居住まいを正して云う。
「……アルトきゅんには、イフォンネに会ってあげて欲しいんですねー」
「イフォンネさんに?」
ミアのいっこ下の親友。
権勢のある子爵家令嬢にして、七級魔術免許持ちの、ツインテールのメイドさん。
隣に座る女の子からは、『ただ会って欲しい』という以上の想いを感じるが……。
「ミアは、それで良いの? せっかくの『お願い』なんだよ?」
「はい。だからこそ、イフォンネの為に使いたいんですねー。あの娘は、私の大切なお友だちですから」
云いきるミアの目は、どこまでも優しかった。
意図は読めないが、俺は一も二もなく頷いた。
※※※
そして、明くる日。
「わぁっ! わぁ……っ! ミアちゃん、ミアちゃん、やっぱりアルトくん、可愛いよぉ!」
来訪したイフォンネちゃんが、俺を膝の上に乗せてはしゃいでいる。
現在の彼女は一三歳のはずだが、この娘は結構な童顔なので、未だに小学生に見える。
(俺の扱いは、まるでぬいぐるみだな……)
俺をだっこしたまま、頭を撫でたり頬をつついたり。
仔猫や仔犬に接するそれにも近いか。
しかし、この幼いメイドさん、本当にただ単純に、はしゃいでいるだけのように見える。
ミアの口ぶりだと、何か悩みか相談でもありそうな気がしたのだが。
「それでミアちゃん。今日はどうしたの? 急にこっちに来て欲しいだなんて」
俺を抱きしめつつ、イフォンネちゃんが訊いた。
呼び出したのもミアのほうで、イフォンネちゃんも何も状況が分かっていないみたいだ。
一体これは、どういうことなのだろうか?
俺も気になってミアを見た。
駄メイドは、真剣な瞳を親友に向けている。
「イフォンネ、実家の方で婚約の話が出て来ているというのは、本当ですか?」
「――っ」
俺を撫でくり回す手が止まった。
微笑を浮かべるその表情には、僅かながら翳りが見える。
「……まだ、本決まりじゃないけど、『候補』を絞る段階までは来たみたい。ミアちゃん、よくその話を知ってるね? お父様も、まだ周りには秘密にしている段階なのに」
「うちのお父さんが、このあいだ王都に来た時に、イフォンネのお父様にも会っているんですねー。うちのお父さんとイフォンネのお父様は友人ですから、そんな内緒話もするんですねー」
ミアはチラリとこちらを見た。
これは俺に対する説明でもあるのかな?
(イフォンネちゃんには、色々とお世話になっているから、俺で出来ることなら力になってあげたいが――)
一方で貴族間の結婚と云うものは、多分に政治的意味合いを含む。俺が口を出してはいけない問題な気がする。
もちろん、『我が家』に係わってくるなら、全力でそれを粉砕する所存だが。
「イフォンネは、結婚をしたいのですか?」
「……そういうのは、まだ分からないよ。でも、私も貴族の家に生まれているんだもの。『責務』は果たさないといけないよね」
「私はそうは思いませんねー。美幼年以外と結婚するなんて、真っ平御免ですねー」
貴方それ、ガチで云ってますよね?
ミアは再び、チラリと俺を見る。何かを説明するつもりらしい。
「私がお父さんから聞いたイフォンネの『結婚候補』なんですが――」
幾人かの名前や特徴を挙げる。
ものの見事にオッサンばかりだな。
ついでに、簡単な言動や、過去の事績も述べてくれる。
地位や財力はあれど、あまり良い印象を抱けない相手たちだった。
もちろん、この短評にはミアの偏見も入っているんだろうけど、あのメルローズ財団やケーレマンス伯爵家ゆかりの者達も候補にいるとあっては、俺としても祝福しづらい。
イフォンネちゃんは云う。
「私の家――ゼーマン子爵家はベイレフェルト侯爵家の庇護と協力があって大きくなったわけだから、侯爵様の意向も聞かないと決められないと思う。だから、今の候補は、本当にまだ選考の前段階だよ……」
「イフォンネのお父様が、候補を迷う理由は、他にもありますよねー?」
「え、と……。う、うん……」
ミアの云う通り、イフォンネちゃんの価値は、ゼーマン子爵家令嬢という『立場』だけではない。
それは、彼女が優れた魔術の素養を持つということだ。
うちの母さんのように、魔力を持たない人間から魔力を持った子供が生まれるケースは、極めて稀なのである。
通常は魔力持ちの親から、魔力持ちの跡継ぎが出来るのだから。
家に権勢があり、本人に魔力の素養があるイフォンネちゃんは、絶好の『お買い得品』と云うことにあるわけで、ゼーマン子爵としても、安売りは出来ないだろう。
ミアは一歩進み出て云う。
「私は慈愛の女神・リヴェーラン様を信奉しているので云いますが、矢張り人は、愛にこそ生きるべきだと思いますねー。したくもない結婚なんて、愛に背く良くない行いですねー」
「で、でも私、好きな人なんていないよ? その、は、初恋も、まだ、だし……」
「なら、なおのことですねー。恋を知って、それでもなお家を選ぶというのであれば、それは本人の選択だと尊重も出来ますが、『何も知らない』で嫁ぐなんて、愛に対する裏切りだと私は思いますねー」
ミアの考え方は異端なのだと俺は思う。
こういう世界での貴族の結婚とは、『個人』ではなく、『家同士』が行うものだろうから。
或いはそれは、彼女が信仰する神の影響か。
それとも、ヴェーニンク男爵家が貧家であって、その考え方が『家同士』があまり関係のない庶民のそれに近いからなのか。
「美幼年と結婚できない世の中なんて、クソっ喰らえですねぇぇぇぇっ!」
個人の欲望が原動力でしたか。
「いずれにせよイフォンネは、家の決定を待つだけでなく、自分でも色々と考えてみるべきだと私は思いますねー。仮に結果が変わらなくても、自分の中に『納得』があるかどうかは、その後の人生に影響すると思うんですよ」
「でもミアちゃん。考えるって、一体どうやって……?」
「自分に向き合う時間を作ることでしょうかねー。時間があれば色々と考えられますし、素敵な出会いもあるかもしれませんねー」
それはその通りかもしれないが、時間を作ると云ったって、婚約は間近に迫っているわけで。
そんな上手い方法があるものなのだろうか?
俺と同じ疑問を、イフォンネちゃんも感じたらしい。怪訝そうに親友を見つめている。
それに対しミアは、くふふと笑って俺を見た。
「答えの扉を開く鍵は、アルトきゅんが握っているんですねー」
「えぇ……っ!? 俺ぇ……!?」
思わず、声をあげてしまった。
ツインテールのメイドさんは、キョトンとした顔で俺を抱きしめなおした。




