第四百二十五話 草笛を吹いた日
イザベラ・エーディット・エル・ベイレフェルトは、ブランコが大好きだった。
いや、過去形ではなく、今も好きだ。
けれども、何故だか味気ない。
(今日も、いない……)
住人のいない『おとぎの国』を、イザベラはそっと眺める。
この風景は、こんなにも寒々としていただろうか。
もっと暖かさに満ちた、日だまりのように見えたのに。
イザベラと違う世界に住む、西の離れの人々は、遠くセロへと里帰り中なのであった。
彼女は忙しい。
侯爵家の令嬢として日々、勉強に追われている。
彼女は決して愚かではなく、寧ろ四歳という年齢を考えれば聡明ではあったけれども、その幼さでは天性の知力を十全に発揮できない。
初歩の初歩の学問。
読み書きですら、まだ大変であったのだ。
けれども自分の娘が優秀であることに固執する母・アウフスタは、勉強の遅れを許さなかった。
「イザベラ! こんなことも出来ないの!? 愚かな娘など、私の娘ではありませんよッ!」
そのように怒鳴られ、罰を与えられることが多かった。
何人かの家庭教師は、「まだ子どもなのだから」とアウフスタ夫人に取りなしたが、そのことで夫人の怒りを買い、解雇されている。
残ったのは、夫人の『方針』を良しとする者か、或いは無関心を貫く者かの、どちらかだけ。
彼女にとって、勉強とは恐怖と嫌悪の時間へとなりつつあった。
だから。
そう、だから余計に、すぐ隣にある『別世界』に強く憧れたのだ。
(まだ帰って来ない……)
『彼』と遊ぶ機会は殆ど無い。
けれども、遠くから『家族』を見つめているだけで。
仲の良い一家を見ているだけで。
イザベラの心は軽くなり、生きる活力を得ることが出来たのだ。
「早く……。早く帰ってきなさいよ、ばか……」
その言葉を聞いた者は、どこにもいない。
※※※
七月も終わろうかという頃、隣の家に、やっとあの家族が戻ってきた。
その日から隣家は、色彩の付いた絵画のように、活気を取り戻した。
笑い声が聞こえる。
互いに気遣う言葉が耳に届く。
閑散としていた離れは、あっという間に『おとぎの国』へと早変わりした。
『彼』は、今日もブランコを点検していた。
『家族』の為に何かをするとき、『彼』はいつもひとりだ。
誰もいない時間に、誰かの為に、そっと行動をしている。
イザベラは垣根をくぐり、『おとぎの国』へと足を踏み入れた。
「やあ。久しぶり」
「ふ、ふん……」
柔らかい笑顔が、自分に向けられる。
頼りない顔。
でも、深みのある顔。
実家では決して向けてくる者のいない、不思議な笑顔。
「きょ、今日もブランコを見てるのね……」
「うん。何かあったら、大変だからね。遊具の手入れは、しっかりとやっておきたいんだ」
「良いわね、暇そうで! 私はとっても忙しいのよ!?」
イザベラの言葉に、『彼』は目を伏せて笑った。
それは矢張り、とても深い表情で。
「そうだね。暇なのは良いことだ。……忙しいと云うのは、基本的に『無理がある』ってことだからね」
「何よ! 私をバカにしているの!?」
「違うよ。『暇を見つけた方が良い』と云っているんだ」
真っ直ぐに自分だけに向けられる瞳には、あざけりはない。
イザベラはそれを直視できずに、目を逸らした。
「疲れているなら、無理はしない方が良い。ましてやキミは、女の子なんだからね」
「し、仕方ないでしょう!? 私には、勉強があるのよ!」
「うん。勉強は大変だね。覚えなきゃいけないことも、いっぱいあるし。でも――」
ひょい、と、『彼』はイザベラの頭に手を伸ばす。
突然のことに、思わず身体が竦んでしまった。
「ちょっとしたことでも、案外、息抜きになるものだよ」
『彼』の手には、葉っぱが一枚。
それは垣根を抜けるときに付いてしまったものなのだった。
(な、撫でられるわけじゃ、なかった、のね……)
ちょっぴり、どきどき。
そんな彼女の心の動きを知ってか知らずか、『彼』は手にした葉っぱを口元に寄せた。
プー、と少し間の抜けた音がする。
けれどもイザベラは、その『音』に驚いた。
「な、何よ、それは!? ま、魔術!? 魔術なの……!?」
「ちょっと違うかな? 上手い人のは、確かに魔術じみているとは思うけどね」
間の抜けた音が続く。
しかしそれが連続すれば、明確な『音楽』。
どうして葉っぱからそんな『音』がするのか、イザベラには分からなかった。
「――! ――!」
目をキラキラとさせている少女に、『彼』は微笑んで語りかけた。
「草笛、やってみる?」
「く、くさぶ、え……?」
「うん。葉っぱを笛にするから、草笛」
『彼』は葉っぱを彼女に渡す。
合間で浄化の魔術で洗浄をしていることに、イザベラは気付かない。
「こ、こうかしら……?」
フスーっと、間抜けな空気音が響いた。
失敗。
ただ、それだけ。
けれども失敗すると怒られるイザベラは、反射的に身を竦めてしまった。
「唇を当てる位置が違うかな?」
「――えっ?」
「うん? どうかした?」
「あ、い、いいえ」
『彼』の反応は、至極真っ当。
だけど、イザベラには意外に思えてしまう。
戸惑う少女に、『彼』は吹き方のレクチャーをした。
「こ、こう……?」
プェー、と、調子外れの音がする。
けれどもそれは、紛れもない草笛で。
「で、出来た! 出来たわっ!」
「うん。出来たね。初めてなのに上手だね。凄いよ」
「え、えへへ……!」
イザベラは笑い、それからハッとして顔を逸らす。
「ふ、ふん……っ! こ、こんなこと下らないわ……! た、ただ音が鳴るだけじゃない!」
「音楽は素晴らしいものだと思うけどねぇ」
『彼』は笑いながら、草笛を奏でた。
それは、なんとも楽しそうで。
イザベラも思わず、葉っぱを手に取った。
たわいのない遣り取りであるのに、何故だか心がぽかぽかとした。
※※※
「お母様……っ!」
帰宅後、イザベラは母・アウフスタのもとへと走った。
草笛という『娯楽』を、実母にも知って欲しかったのである。
「何です、大きな声で、はしたない!」
「ぅ……」
『母』の機嫌が悪いことは、一目で見て取れた。
けれども彼女は懸命に笑顔を作って、自分の家族に近づいた。
「お、お母様、私、凄い発見をしたんです……! こうやって葉っぱを口に当てると――」
『発見』と云う言葉を使ったのは、隣家の人間との交流を知られるわけにはいかないからである。
しかしそんな部分を気にするまでもなく、アウフスタ夫人は顔色を変えた。
「イザベラッ!」
バチン、という音が響いた。
宙に浮かんだ一葉と、熱と痛みを持った頬の感触で、少女は自分が平手打ちを喰らったのだと知った。
「お、お母――」
「汚い葉っぱを家の中に持ち込むなんて何事ですか!? しかもそれを、口に付けようとするなんて! 虫でもいたらどうするのです!? 我が家が汚れてしまうでしょうッ!?」
「ひ……っ!」
「葉っぱなんかを持ってくるということは、勉強もせずに外を出歩いていたということなのよね!? そんなことで、十月の試験を合格出来ると思っているのですかッ!?」
再び、頬を張り飛ばされた。
そこにあるのは、煮えたぎるような怒りと、そして憎悪だった。
イザベラは知らない。
彼女が笑顔で草笛を吹いていた頃、その母が実父であるカスペル侯爵に、
「どうやらお前よりも、離れの妾のほうが『母』として上であるらしいな」
と、淡々と指摘されていたことを。
アウフスタ夫人はそれを最大級の侮辱であると考えた。
自分の身に問題があるのではなく、イザベラが遊びほうけているから、そう判断されたのだと思ったのである。
「私が! この私がッ! あんな女に劣る点があるわけ無いでしょうッ!? イザベラ! 貴方のせいですよッ! 貴方がきちんと勉強をしていれば、私がお父様に『あんな目』で見られることなんてなかったのですよ! 謝れッ! この私に、謝りなさいッ!」
二度三度と、平手を喰らった。
イザベラは泣きながら謝り続けた。
※※※
夕刻。
そして彼女は、『おとぎの国』の近くの大きな木の下に佇んでいた。
『反省』が足りないと判断されたイザベラは、しばらく屋敷の外で頭を冷やすようにと命令されたのである。
遊びほうけていた上に汚らしい葉っぱを持ち込んだ罰として、夕食抜きも厳命された。
「ひっく……! ぐす……っ!」
イザベラは泣いていた。
頬が痛いのか、心が痛いのか、それすらも分からずに。
ガサリ、と云う音がした。
彼女は慌てて目元をぬぐう。
泣いている姿を誰かに見られることは、したくなかったのだ。
「……気の、せい……?」
音は確かに、垣根の向こう側から聞こえた気がしたのだが。
或いは風でも吹いたのだろうか。
いずれにせよ、周囲に人影は何もない。
(私、どうしてここに立っているんだろう……?)
家の外なら、扉の前でも良いはずなのに。
『あちら』が見えるこの場所に、何故か足が向いていた。
自分がこうしている間も、『向こう』は笑顔なのだろうか?
笑いあい、肩を寄せ合って食事をするのだろうか?
くぅくぅと、お腹が鳴った。
そこに。
「あぁー、腹がいっぱいで、もう食えないなァ……。どうしようかなァ、こいつを」
セロに住む劇団員が聞けばズッコケるような、わざとらしい棒読みが響いた。
が、イザベラは、その『声』に気を取られてセリフ回しまで気が回らない。
それは間違いなく、『彼』のものだった。
目を向けると、垣根の向こうに人影がある。
それは『彼』と、まだ若く、とても綺麗な、メイド服を着た少女。
「……っ」
イザベラは反射的に顔を逸らす。
涙に濡れ、ぱんぱんに腫れた顔を見られたくなかったのだ。
「あれー、偶然だなァ。こんなところで、何をしているの?」
もの凄い棒読みが、イザベラに向けられる。
「あ、貴方には、関係ないでしょ……っ」
「うん。まあ関係はないんだけどさ。ここで会ったのも何かの縁だし、もしもそっちが良ければだけど、俺を助けてくれると嬉しいんだよね」
「……? 助ける? どういう、こと?」
「うん。これなんだけど」
その言葉に、メイドの少女が持っているお盆に目をやった。
そこには何かが乗っかっている。
(食べ物だ……!)
ゴクリ、とイザベラは喉を鳴らした。
「この、おにぎりなんだけど」
「おにぎり? そんな変なの、見たことない……」
「あー……。流石に侯爵家では食べないか。美味しいんだけどねェ、おにぎり。兎も角、これなんだけどね。俺もう、お腹いっぱいで食べられないんだ。でも残すと怒られちゃうから、途方に暮れてたんだよね」
「…………」
イザベラは目を伏せ、それから震える声で『彼』に云う。
「ふ、ふぅん。怒られるのは困るわね。……も、もしもどうしてもって頭を下げて頼むなら、その、おにぎ、り? を、私がたべてあげても……良いわよ?」
「本当? 助かるよ。お願いできるかな?」
『彼』はホッとしたように笑った。
その安堵は、何に向けられたものだったか。
「ふん……。し、仕方ないわね……」
イザベラは、おずおずとお盆に載せられているおしぼりに手を伸ばす。
他、水差しと綺麗に洗われたコップがある不自然さにも、おにぎりが作りたてであることにも、彼女は気付かなかった。
「手づかみで食べるなんて、野蛮だわ……」
白い塊を口に含む。
「――っ! お、美味しい……」
「そいつは良かった。たくさんあるから、どんどん食べてね?」
頬を動かす度に痛みがあったけれど、その味と、空腹が満たされることで、気が紛れた。
『彼』は傍らの少女からお盆を受け継ぎ、メイドさんに向かって片目を閉じる。
「それじゃあ、よろしくね?」
「はい、任せて欲しいですねー。イフォンネに頼んでおけば、後のフォローは問題ないはずですねー」
メイドの少女は、トコトコと本館の方へ向かって行く。
「な、何? あの人、どこに行ったの……?」
「ああ、気にしない、気にしない。個人的なお使いを頼んだだけだから。それより、ほっぺが腫れてるみたいだけど?」
「――っ。これは……ちょっと、そこらへんでぶつけただけよ……! こんなの、な、何でもないんだから……っ!」
「そう? なら良いんだ」
云いながら、『彼』はポーチから薬ビンを取り出した。
そして慣れた手つきで、イザベラの頬に塗布する。
あまりにも自然な動きだったので、異性に触れられることに気付くのが遅れた。
「な、何をする、のよ……っ」
「うん。単なるお節介。キミは何でもないって云ったけど、女性の顔のことだからね」
撫でられる頬の感触は、どこまでも優しかった。
無言のままに、自分を真っ当に扱ってくれていることが分かった。
「嘘……? い、痛く、ない……」
信じられないことだった。
ジンジンと痛んでいた頬の痛みが、すっかりと消えている。腫れも引いたようである。
こんな一瞬で治ることがあるのか、子供心にも訝しかった。
「おにぎり、食べてくれて、ありがとう」
『彼』は微笑み、頭を下げる。
イザベラは顔を逸らした。
「か、貸しよ、これは貸し……っ」
「うん。借りておく。いつか返す機会があると良いな」
「…………」
彼女は押し黙る。
不思議と心の痛みも消えていた。
すぐ傍では、草笛の音。
それは『彼』が奏でる、下手くそな演奏であったのだ。
イザベラはおずおずと葉っぱを手にする。
それをそっと、口元に近づけた。
ふたつの音色が、暮れの空に静かに重なった。




