第四十話 ステファヌスの事情
(云い争っている――いや、どちらかと云うと、親父殿が責められている感じだ)
ふたりを見つけた時は遠くて聞き取れなかった声も、こちらに近づくにつれ、しっかりと耳に届くようになってきた。
状況的には、離れに来ようとした親父を追いかけてきた正夫人様が旦那を捕まえて、文句を云っているかのように見えるが。
「にーた? だぁれ?」
どちらも知らないフィーが素朴な疑問を口にしてくる。
説明してあげたいが、今はよしておいた方が良いだろう。
俺は、妹様に耳打ちする。
(フィー、今は静かにしておこうか。ここが見つかっちゃうよ?)
(ふぃー、こえ、おさえるの)
よしよし、良い娘だ。頭を撫でてあげよう。
(きゃん! にーたすき! ふぃー、にーただいすき! もっとなでて?)
なでなでなでなで……。
「ふ……ふへへへへ……!」
丁寧かつたっぷりと撫でてあげると、マイエンジェルはうっとりとした様子で俺に頬を擦り付け始めた。
もう目の前の男女には欠片も意識が向いていない。
俺もステファヌスやアウフスタにあまり興味はないが、自衛の都合上、無関心でいるわけにも行かない。
耳をそばだてることにする。
「貴方、その包みは何?」
「こ、これはリュシカのやつにずっと頼まれていた本で……」
問い詰めるかのような口調の女と、まるで云い訳のような返しをする男。
一言で分かる、両者の力関係。
アウフスタ夫人は、我が父が大事そうに持つ包みが気に入らないらしい。睨み付けるかのように、本を見ている。
「……そんなものにお金を使うなら、私かイザベラに贈り物のひとつでもするべきでしょう?」
「お、お前にはこの間、高い宝石を買ってやったばかりだろう。それに、イザベラにだって、本を――」
「そんなことは当たり前の話です。愛する妻や子供に贈り物をするのは、夫として当然です」
「なら、あいつにも――」
「妻子と云ったでしょう! 貴方が『それ』を渡しに行く相手は、何? 云ってごらんなさい?」
「……妾、だ」
「そう。妾。私は確かに妾を隔離して飼うことは許可しましたけどね、無原則に甘やかすことは許していません。妾には妾に相応しい立場というものがあります。貴方があの女を甘やかすことは、私やイザベラに対して不誠実な行いなのだと認識しなさい」
飼う、ときましたか。この人、うちの母さんを人間扱いしていないのかな。
好きな女性に対してそんな言葉を使われたら、俺なら怒ると思うが。
さて、我が尊敬する父上様は、どうなさるのだろうか。
「こ、この本は前から約束してたんだ。滅多に手に入らない幻の一冊だって。だから……」
「そう。幻の一冊なら、あの女も手に入らなくても諦めがつくでしょう。つまり、渡さなくて良い本よね?」
飼う、はスルーで話が続いて行くわけね。
特に気にした様子もないし、日常的に使われている表現なのかもしれない。
「そもそも、アレに本を渡すのは、一ヶ月に一回と云う決まりのはずよ?」
「けど、この本は……」
「貴方もそれを受け入れたでしょう? 私が月に一回だけなら許可すると云った時、わかったよと答えたのは、なんだったのかしら?」
ふうむ。
人の言葉を遮ったり、云い方がキツかったりするが、この人、一応は正論で相手を黙らせるタイプのようだ。ヒステリックに騒ぐ訳ではないらしい。
親父殿が云い返せないのは正論だからか? それとも立場や気の弱さが原因か。
「さあ、戻るわよ」
「待ってくれ! せめて、この本だけは――」
「貴方が約束を破ると云うのなら、あの女とその子供をここに住まわせる、と云う約束も無かったことにしていいわけね?」
「うぅ……」
ステファヌスは悔しそうに黙り込んだ。
(成程。彼女の云う『正論』は、そこに繋がっているのか。あの夫婦間では、約束が大きな意味を持つ、と)
親父殿はもともと母さんと恋仲だったはずだ。
で、後から出てきたアウフスタと結婚した。確かその時の条件が、母さんを離れに住まわせることだったと記憶している。
親父の為体を見ていると、それが精一杯かつ最大限の譲歩だったんだろうなァ……。
まあ、約束を盾に良いように操られているようだが。
しかし、約束を念頭に置くと、セロの街に里帰りした時の無茶さも分かってくるな。
親父が出来たのは馬車を使わせるところまでで、護衛その他の『それ以上』を要求することが出来なかったのだろう。
(ルールに縛られるのではなく、ルールを上手く扱うか、ルールそれ自体を作り出す方向に物事を考えると、こういうのは案外、上手く行くもんなんだが……)
親父の精神状況を見ていると、そんな余裕もなさそうだ。
「貴方は自分の家族のことだけを考えていればいいのです。あの女や、あの女から出来た絞りカスたちに感情を振り向けることは許しません」
「絞りカスだなんて、そんな云い方――」
「まさか貴方、あの兄妹とも会っているんじゃないでしょうね?」
「あ、会ってない。ちゃんと……約束は守っている……」
俺たちに会わないのも、約束のうちだったようだ。
ホント、良いようにされているんだな。
(ん~~……。てことは、俺があまり会いに来ない親父殿に好感情を持てないのも、この夫人の誘導で、想定内の現象なのかもしれない)
いや、あくまで俺はオマケで、疎遠にさせようとする相手がいるとすれば、それは母さんか。
「そう。なら、結構です。貴方の子供はイザベラと、この子だけなんですからね」
そう良いながらお腹を撫でるアウフスタ夫人。
(何だ? 第二子が出来たのか?)
正夫人はスレンダーで、お腹が膨らんだ様子もない。発言が真実なら、懐妊は発覚したばかりなのだろう。なら、産まれるとしたら来年か。
あまり仲が良さそうにも見えないけれど、することはしてるんだなァ、親父殿……。
「さあ、戻るわよ。イザベラをいつまでも使用人任せにはしておけないわ。なにせあの娘には、素晴らしい魔術の才能があるのだから。しっかり見ていてあげないとね」
「…………」
未練がましく手持ちの荷物と西の離れを見つめていたステファヌスは、やがて諦めるように夫人から伸ばされた手を取った。
母さんに本を渡すことは断念するらしい。
(そうか。見たことのない異母妹も、魔力があるのか。夫人の口ぶりだと、魔導士ではなく、魔術師になれるような存在なのかな?)
まあ、単なる親バカという線もあるが。
そうして俺は、遠ざかって行く男女の姿を見送った。
「に、にーたぁ……。にぃ、たぁ~~……」
気がつくと、妹様が息も絶え絶えになっている。
「あ! ずっと撫でっぱなしだった!」
俺に撫でられ続けたマイシスターは、はぁはぁと赤い顔で蠕動している。
単なるなでなでと云っても、長時間の使用は危険なようだ。
「はひゅひゅ~~ん……。ふぃー……。ふぃー、にーたになでなでずっとされて、へんになっちゃったのぉ……」
「悪かった悪かった。もう少し休んだら、うちに戻ろう」
結局、休憩はその後10分程続いた。




