第三百九十七話 再臨
ああ――足が痛い。
見慣れないそいつらは、変な兄妹だった。
ふたりが俺とアイナのいる『ももぐみ』に入って来たとき、俺たち以外の皆がざわめいた。
兄も妹も顔が良いから、きっと思うところがあったのだろう。
けれど、俺が最初に抱いた感想は、『気にくわない』だった。
だって、そうだろう?
あいつら、凄く幸せそうな顔をしていたんだ。
綺麗な服を着ていたんだ。
きっと何の苦労もなく、恵まれた生活をしてきたに違いない。
ああ、そうだ。
これはただの妬みだよ。
でも。
でもよ。
五体満足ってのは、それだけも俺には羨ましいことなんだ。
俺は、かけっこが早かった。
走ることだけに限定するならこの託児所で一番の自信があったし、実際に体力バカのブレフの奴にだって、たまにしか負けなかった。
大人になったらかけっこの競技大会にでることが、俺の目標だったんだ。
でも、それは叶わぬ夢となってしまった。
何とかっていう珍しい病気に、よりにもよって俺が罹ってしまったからだ。
あれ以来、俺は走れなくなった。
跳んだり跳ねたりすると、酷く足が痛むようになったからだ。
しかも、傷みは段々と増してきて、最近ではただ歩くだけでも痛みを感じるようになった。
俺はそのうち、歩くことすら出来なくなるのではないか?
大好きなかけっこが出来ないだけじゃない。
移動することそのものが不可能になる。
それは、もの凄い恐怖だった。
でも、弱音を口にすることは出来ない。
何故なら、妹のアイナは、もっと大変だったからだ。
俺と同じ病気に罹ったアイナの目は、痛みを伴いながら徐々に見えなくなって行った。
「痛い……! 痛いよう、お兄ちゃん……」
泣きながらそう云う妹を見て、俺が自分の恐怖を口に出来る訳がない。
でも、それ以上何もしてやれることもなく。
掛けてやれる言葉もなかった。
医者には、早々に治す手立てがないと云われ、諦めるようにとも云われてしまった。
「アイナの目……。もう治らないの?」
泣きそうな顔で見上げられて、「そうだ」なんて云うことが出来るはずがない。
だから、俺は嘘をついた。
「……かみさま?」
「ああ、神様だ! 神様にお祈りすれば、きっとアイナを助けてくれる! きっとアイナを治してくれる!」
「ほんとう……!? ほんとうに、アイナの目、治るの……!?」
「ああ、絶対だ!」
自分がどれだけ残酷なことを云っているのかは分かっていた。
バカな発言だと云う自覚も。
だって神様は何もしてくれないなんて、俺自身が一番よく分かっているから。
祈ることが無駄だなんて、身をもって知っていたから。
毎日毎日、足を治して下さいと祈り続けて、残った結果は『悪化』だけ。
ひとりの時に何度も泣いて、神様を恨んで。
俺はそれを、妹にも味わわせようとしているんだと。
――それから、アイナは毎日お祈りするようになった。
「かみさま。どうかお兄ちゃんとアイナを治して下さい」
俺の名前を……!
アイナは自分だけでなく、俺の足も治そうとしてくれていたのだ。
苦し紛れの嘘と知らないから、毎日懸命に妹はお祈りを続けた。
けれど、この俺が全く報われなかったように。
アイナの右目は、悪化の一途を辿った。
「痛いよう……! 痛いよう……っ! どうしてこんなに痛いの? アイナのお祈り、まだまだ足りないの……!?」
恐怖と痛みに歪む妹に、俺は何もしてやることが出来なかった。
「このままだと来月にはラックくんは杖が必要になるでしょうし、アイナちゃんの目は……」
言葉を濁す医者の言葉は、神様なんかよりもずっと重くて。
俺たちには未来なんて無いことだけは、子供心によく分かった。
ああ――それにしても足が痛い。
※※※
クラスの皆と盛り上がっていたはずの飛び入り兄妹の兄の方が、何故かこちらへとやって来た。
その瞳は真っ直ぐに俺たちに向いている。
何か用でもあるのだろうか。
「やあ」
子どものくせに、妙にくたびれた雰囲気のある男の子は柔らかく笑った。
なんだか、酷く笑い慣れている感じだ。
――胡散臭い。
俺はそれだけで、この兄に反感を抱いた。
「……何の用だよ」
「うん。一緒に遊べないかと思ってね」
「……遊ぶ気なんかない。あっちへ行け」
「つっけんどんだねぇ。……キミはどう?」
俺の拒絶を気にすることなく、くたびれ男――アルトとか云ったか? ――は、中腰になってアイナを見つめた。
「ぅぅ……」
もともと引っ込み思案な上に目を患っているアイナは、一歩下がって俯いてしまう。
「おい! 妹を怖がらせるな!」
「俺はこの娘とも仲良くしたいんでね、怖がらせるつもりは全くないよ。――アイナちゃん、こんにちは」
なんて図太い奴だ。
アルトはアイナに、それでも笑顔で話しかけている。
「……ぅ、こ、こんにちは……」
人の良いアイナは、こんな奴にも怯えながらも返事をしてしまっている。
しかし、妹はすぐに顔を歪めた。
こいつが何かしたんじゃなくて、右目が痛んだのだろう。
「……っ。痛い、痛いよぅ……」
「大丈夫?」
アルトは気安くアイナに触った。
不用意に妹に触れられて俺はカッとなったが、踏み出そうとした足が痛んで、引き剥がすことが出来なかった。
「く、くそ……!」
「そっちも、大丈夫か?」
「う、うるさい……! アイナから離れろ……!」
「ふむ……」
「な、何をする……!?」
アルトはアイナだけでなく、俺にも触れてきた。
遠慮会釈もないのに、軽く撫でるような、壊れ物を扱うかのような、そんな触れ方。
「ああ、うん。本当にただの塊だな。これなら、どうとでもなるか」
「お前、何を云って――」
不思議だった。
それまでの足の痛みが、急に和らいだ気がした。
「あ、あれ……? アイナの目、痛くない……?」
それは妹も同じであったようだ。
先程までの苦悶の表情が嘘のようだ。
「アイナ……っ」
俺は妹に寄ろうとして足を踏み出し、
「……ぐっ!」
再び、痛みに顔を歪めた。
痛みが引いた気がしたのは気のせいだったんだろうか?
アルトはアイナに話しかけている。
「アイナちゃんは、目が痛いの?」
「う、うん……。アイナ、目が痛くて、だんだん見えなくなってきてるの……。このままだと完全に見えなくなっちゃうって……。だからアイナ、毎日かみさまにお祈りしてるの。お兄ちゃんの足とアイナの目が良くなりますようにって」
「そうか……。キミは偉いな。それに、強くて優しい。お兄さんの足まで気遣ってあげてるんだ」
「だってお兄ちゃん、アイナにとっても優しくしてくれるんだもん……。かけっこ大好きなんだもん……。また走れるようになって欲しいんだもん……」
そうだ。
アイナはとっても良い子なんだ。
だから神様、どうか妹の目だけでも治してくれよ。
俺はこのまま、歩けなくなっても構わないから。
アルトはそんな俺たちを見て、ニッと笑った。
「何がおかしい」
「いや、なに。こんなに想い合ってる兄妹なら、神様だってお願いを聞いてくれるんじゃないかと思ってね」
何を云ってるんだ、こいつ。
そんなことあるわけないじゃないか。
もしも奇跡が起きるなら、俺は兎も角、とっくにアイナは治ってなければおかしいじゃないか!
するとアルトは、一点を指さした。
「セロにはセロの守り神がいるだろう?」
「あん? ――って、なんだ、ありゃあ!? あんなもの、いつの間に現れたんだ……!?」
そこに、奇妙な像が置かれていた。
アレが何なのか、俺は知っている。
いや、この街に住んでいる人間なら誰だって。
それは一年前にセロを救った神。
メジェドとかいう、変な顔の神だ。
(そういえば、去年もあの像は託児所に急に出て来たって云うぞ……!?)
あの時は、皆が奇跡だと騒いでいた。
そして星祭りの夜に、実際に皆を救った。
(まさか、本当に奇跡が起こるのか……!?)
神様が何もしてくれないなんて知っていたはずなのに。
俺は今にも動き出しそうな程見事な像に、圧倒されていた。
(教会や神殿が祀ってる神なんかと違って、あのメジェドとかいう変なのには、『実績』がある……。もしかしたら、もしかしたら――)
俺が躊躇している間に、アイナは変な像の前に移動していた。
そして、指を組んで祈った。
「かみさま、どうかお兄ちゃんを治してあげて下さい……! あと、アイナも治してくれれば嬉しいです」
その言葉に呼応するように。
メジェドの像は、奇妙な光を発した。
「え……!? 何……っ!?」
まばゆい光に、『ももぐみ』の皆が振り返る。
メジェドの光はそんな中で、俺たちに届いた。
「これって、メジェド様の奇跡なんじゃないの?」
どこか棒読みじみた言葉を発しながら、アルト・クレーンプットは俺たちをポンと叩いた。
その、瞬間。
「え――!?」
俺たちの身体から、澱んだ光が抜けていく。
同時に、身体を支えていた足から。
立っているだけで痛んだ足から。
まっさらに痛みが消えていた。
「お、お兄ちゃん……! アイナ……! アイナの目、痛くない……っ! アイナの目、見える……ッ!」
暗く澱んでいたはずの妹の右目が、以前のようにキラキラと輝いていた。
「ほ、本当に奇跡が起こった――!?」
「ラックくん!? アイナちゃん!?」
俺たちの病気のことを知っている先生が、慌てて駆け寄ってくる。
この人にも、妹の目の変化は目に見えてわかるはずだ。
「あ! かみさまの光が……!」
アイナが指さす。
まるで『役目は終わった』と云わんばかりに、メジェドの像は輝きを消した。
天に昇るかのように、光の残滓が空へと消えて行く。
これが本当に奇跡だったのか、そんなことは分からない。
もしかしたら、誰かに騙されているのかもしれない。
けれども、俺の足から痛みが消えたのは事実で。
そして、アイナの瞳に光が戻ったのも、また事実だ。
「お兄ちゃん……!」
「アイナ……ッ!」
俺たちは、抱きしめあった。
確かに『治った』という現実だけが、そこにはあった。
「お兄ちゃん、アイナの目、見える……!」
「ああ、俺も、ほら……!」
ダンダンと足を踏みならす。
痛くない。痛まない。
これなら走れる。これなら、動ける。
「お兄ちゃん! お兄ちゃああああん!」
アイナは泣いていた。
そしてたぶん、俺も。
信じがたいが、認めるしかない。
確かにここに神はいたのだと。
妹の懸命な願いを、聞き届けてくれたのだと。
その日から俺は、だから信仰すべき神様を明確に得たのだった。
足はもう――痛くはない。




