第三百八十六話 初段試験(後編)
ディックさん。
彼は矢張り、曲者だ。
俺が突撃することも読んで、それに備えた術式を用意していたのだから。
だから。
そう、だから。
だから、一手遅れることになる。
(いや。この場合、『詠唱無し』と云うのが、いかに有利かと云うべきなんだろうが)
どうして眼前に巨大な口が開いたのか?
それは、ディックさんが俺の突撃を読んでいたからだ。
読んでいたからこそ、巨大なアギトを準備していた。
ならば、俺が準備外の動きをしたらどうなるか。
巨大な口の前。
そこに俺は、氷の板を発生させる。
そして、そこに足を付けた。
「――ッ!? 方向転換かッ!」
最初から、真っ直ぐ突っ込むつもりはない。
相手は曲者。
流石にこんな口が出現することは予想していなかったが、無策で立っていることもないとも思っていた。
「ひとつ!」
板を蹴り、真横に飛ぶ。
「ふたつ!」
別の板を蹴り、ディックさんへと軌道修正。
「くぅ……っ!」
彼が放っている泥玉も、高速言語による『予約行動』。
すぐさまこちらに攻撃を切り替えることなんて、出来るはずがない。
「みっつ!」
更に板を蹴り、加速。同時に、水弾を発射する。
さあ、喰らえ!
新鮮なお水のお届けだ!
水弾がディックさんに迫る。
俺の軌道修正は、流石に予想していなかったはずだ。
しかし、相手は曲者。
驚愕に歪んだままのディックさんは、そのままズルリと倒れ込んだ。
(コケた!? いや、違う!)
これは、自分から倒れたのだ。
足下の泥を利用し、自分で自分の足を滑らせての緊急避難。
俺が『突撃しても何かしてくるだろう』と予測していたように。
彼も、『こちらに攻撃された際の回避行動』を、事前に準備していたのだろう。
泥にまみれながら、『蟻地獄』の渦に乗って高速で逃れていく。
俺が着地したときには既に、彼との距離は最初のそれと変わらないものへとなっていた。
違いはふたつ。
立ち位置が異なること。
そして、彼が泥だらけになったことだ。
「いや~……。凄いね、キミ。まさかアレを躱すとは思わなかったよ。おかげで、とっておきの回避方法を使うハメになっちゃったよ。このままの格好だと、事務局に入れて貰えないから大変なんだよねぇ……」
ぺっぺと口内の泥を吐き出している。
周到な相手というのは、兎角やりづらい。
しかし、有利になった部分もある。
それは、俺を足止めしていた泥玉の連射が止んだことだ。
ここからなら、俺は自分の魔術を展開できるはずだ。
やるべきことは、もう決まっている。
「へぇ……。攻撃ではなく、魔壁を展開したのかい?」
どどんと、大きめの水の塊を発生させる。
しかしこれは、単なる魔壁として使うつもりはない。
もちろん、泥だんごが飛んでくるなら防いでもらうつもりだが。
俺は水の塊に魔力を注ぎ、より大きく育てていく。
その間に、泥だらけマンは高速詠唱を開始した。
「千日手にならなければ良いけどね」
彼はそう笑う。
けれど、無限ループに嵌ることはない。
いみじくも試験官本人が云った通り、俺に自由の目を与えてはいけなかった。
俺に魔術を構築させてはいけなかったのだ。
(見るが良い! 現代日本の知識があるということの有利さを!)
巨大な水の塊から、水流が撃ち出された。
狙うのはディックさんではない。
――床だ。
「これは……! 泥が……!」
彼の攻撃が煩わしいのは、武舞台そのものを泥が覆っていて、行動を制限されるから。
逆に云えば、その障害を排除できれば、こちらが圧倒的に優位に立てる。
彼は曲者だ。
直接攻撃を加えても、なんらかの手段で逃れてしまうかもしれない。
だからまずは、どろんこマンの得手を潰す。
――その名を、高圧水流。
しかし、ウォーターカッターではない。高圧洗浄のほうだ。
風の魔術と水の魔術で圧縮した液体を撃ち出し、強制的に泥を押し流す。
俺が構築した水の塊は単純な魔壁ではなく、貯水タンクでもあったのだ。
彼が魔力で抵抗しようと関係がない。
こちらは、魔力プラス科学知識。
この程度の泥を剥がしていくのは造作もないことだ。
泥玉が発射される。
しかし、うちのタンクに阻まれ、俺には届かない。
(あの杖の魔術師、飛散する泥水も防御するんだな)
横目で見たリングサイドでは、両手に杖をもったヴェールの女性が魔壁を展開し、三人の侯爵を守っていた。
クリーニング代を請求されても困るから、そのまま頑張って欲しいね。
(そして、冷却)
泥を剥がした場所には、新たにアイスブロックを構築し、配置していく。
ここは俺の陣地だ。
泥の再配置など許さない。
彼が俺の自由を奪ったように、今度はこちらが行動を制限し、詰めていく。
「む……っ! う……!」
やっと、ディックさんの顔色が変わった。
氷のブロックが邪魔で、身動き出来ないことに気付いたらしい。
自分が動くことも。泥の結界を張ることも無理だということにも。
「それじゃあ試験官さん、汚れた泥を、これで洗い流して下さいな」
俺はそう告げて、タンクの水を一斉に放出した。
何か抵抗らしきものをしようとしたディックさんは、その手に嵌っている『能力減衰の指輪』を見て苦笑し、そのまま押し流された。
リングアウト。
俺の勝ち。
しかし指輪による制限がなかったら、他に何かやってきたのかもしれなかった。
「そ、そこまで! アルト・クレーンプットの勝利です!」
トルディさんか告げてくれる。
いやはや。やりにくい相手だったな。
「や~……。負けた負けた。参ったね、ホント」
『泥まみれ』から『濡れネズミ』にジョブチェンジしたディックさんが、肩を竦めながら歩いてくる。
そして、俺の身体をマジマジと見つめる。
「俺の攻撃を完全回避して被弾数ゼロだったというだけでなく、わずかな染みすらついていない……。負けたばかりか、汚すことさえ出来ないとは思わなかったよ。完敗だ」
ディックさんは、お手上げのポーズを取る。
しかし、『汚れない』と云うのは泥を見た瞬間に狙ったことだからな、ある意味では当然だ。
(汚い状態だと、この後、フィーをだっこしてあげられなくなっちゃうからな……)
寂しさに耐えて俺を送り出してくれた可愛い可愛い妹様を慰め、褒めてあげられないのは、とてもツラいことだ。
下手をしたら、試験に落ちることよりも。
「アルトくん。おめでとうございます」
そして、トルディさんが、俺に笑顔を向けてくれる。
「あとは筆記の試験結果次第でしょうが、これでアルトくんも、段位魔術師ですね」
「ああ、どうもありがとうございます」
俺が欲しいのは段位ではなく、魔道具技師の資格のほうなんだけどね。
でもトルディさんは社交辞令ではなく、本気で祝福してくれているんだろうな。
(しかし、高圧洗浄機も作ったら需要あるのかしら? カビとか、こびり付いた油とかも綺麗になるしね、アレは)
魔石と云う『動力』を取り扱えるから、作れるものの幅が大きく広がるのはありがたい。
「じゃあ、皆さん、お世話になりました」
俺は平民マジシャンズに頭を下げて立ち去ろうとする。
が――。
「お待ち下さい」
会場にいた騎士のひとりに呼び止められる。
「侯爵様方が、貴方をお呼びです。どうぞ、こちらに来て下さい」
泥んこ攻撃なんかより、もっとイヤな話が飛び込んできた。




