第三百七十二話 魂の還る森
神聖歴1206年の五月。
俺は、とある森の中にいた。
そこは静謐なる大森林。
神秘の青と幽邃の緑に彩られたその森は、エルフ族の所持する森林の中でも、特別な意味を持つ場所なのだという。
そんな所に、エイベルと共にいる。
こここそが恩師が俺を連れて行くと云った場所なのである。
「綺麗な場所だね」
「……ん」
「でも、どこか寂しい場所だ」
「……ん」
エイベルは、俺の手をそっと握って来た。
伝わってきた感情は、親愛。
そして、寂寥だろうか。
この森に人はいない。
それは人間族がいないと云う意味ではなく、エルフ族もいないと云うことだ。
森の入り口に番はいるけれど、誰もこの中には踏み込まない。踏み込ませない。
「……ここには、リュシカも来たことがない」
エイベルは親友の名を挙げ、そして親友の息子を見た。
その言葉に、どれだけの重みがあるのだろうか。
俺の手を握ったままのエイベルは、迷うことなく深い森の中を進んでいく。
やがて、森の雰囲気が変わった。
そこはより荘厳で、より重々しく。
まるで鎮守の森に迷い込んだかのような霊妙さがあった。
「ここは……」
それは明らかな特別。
円形の広い空間には、他の木は何もない。
ただ六本の大樹だけが、静かにそこに佇んでいる。
握られた手に、力が入る。
表情のないはずのエイベルは、涙を流さぬままに泣いているようで。
俺は静かに、その手を握りかえした。
「……ここは、墓所」
「お墓?」
「……ん。エルフの中には、廟と呼ぶ者もいるけれども」
「廟? それじゃ、この樹って……」
数が六本。
その意味を知った。
「……ここにいるのは、私の兄妹たち。尤も、身体を回収できなかった者達もいるけれども」
エイベルは、一番大きな木を指さした。
「……あれは私たちの長兄。最初のエルフ。兄、バルディエルのもの」
「エイベルの、お兄さん……?」
「……さっきも云った通り、兄の身体はここにはない。この世界ではない場所で戦い、そこで失われた」
「この世界ではない、場所?」
「……聖天使ランダマンティア」
「……!」
師の言葉に、俺は戦慄した。
その天使の名は、遺失している。
けれども俺は、それが何者かを知っている。
直に戦った、このエイベルから聞いているから。
この世界が最初に作られた時代。
即ち、『命の季節』。
まだ人族ではなく、精霊たちが主役だった頃。
そんな世界に、『魂の浄化』を訴える者たちが、突如として現れた。
それは、当時の人間だった。
ヒトの戦闘能力は、精霊たちに遙かに劣る。
なぜならば、基礎魔力量が違うから。
身体の丈夫さも違う。
死の淵から『再生』することの出来たエニネーヴェのように、上位の精霊には、強力な復元能力もある。
失われればそこで終わりの人間族とは、文字通りに次元が違う。
けれども。
そう、けれども。
『聖人』と呼ばれた特殊な人間は、当時の精霊たちを圧倒した。
数で劣り、能力で劣るはずの人間に、精霊たちは数多くが殺されたという。
やがて『聖人』は数を増やし、賛同者を増やし、全ての命を巻き込んだ戦役へと発展したという。
ニルヴァの聖戦。
或いは聖人戦争と呼ばれる凄絶な戦いだった。
その背後にあった者。
『浄化の思想』と『聖人』を作り出した存在。
それがランダマンティア。
『聖人』たちに天使と呼ばれた、翼ある存在。
八人のアーチエルフが全力で戦い、そして多大なる犠牲の上に、やっと退けたという特級の怪物。
エイベルをして、一対一では絶対に勝てぬと云わしめた者。
それが、ランダマンティア。
アーチエルフたちは聖人を殺し、聖天使を退けた。
それでも『浄化の光』は世を覆った。完全に防ぐことは出来なかった。
つまり、最初の世界崩壊である。
聖人との戦いで数を減じていた精霊族は、これにより主役の座から転落し、『次の時代』では生命力と力強さに溢れる『幻想種』の時代がやってくる。
それが、幻精歴だ。
なお人間族はどんなに数を減じても、あっという間に大繁殖したのだという。
どの崩壊の時でも、変わらずに。
それこそが、ヒトが現在に世界の主役である理由なのだろう。
(バルディエルと云う名のエルフは、ランダマンティアとの戦いで命を落としたのだな)
高祖たちの最終決戦は、聖天使の領域で行われたという。
そこが、ここではない『世界』。
だからエイベルの兄たちの身体は、戻ってくることがなかったのだと。
「……バルディエルたちの骸は、どこにもない。けれど、魂はここにある」
それはエイベルやフィーが干渉できる、『実態としての魂』ではないのだろう。
きっと概念としてのもの。
学問ではなく、定義でもない、心の在り方としての形而上的観念。
想起される想いとしての魂。
ここにあるとは、そう云う意味なのだと思う。
そうでなければ、『六本の樹』が揃ってここにある意味が分からない。
(一番若い木は、最も近くに亡くなった身内のものだろうな)
高祖ラミエル。
魔導歴末の戦いで命を落とした旅好きのエルフ。
ヘンリエッテさんや、ミィスの先祖のものだ。
「……私は――」
「うん」
「……私やリュティエルも、死後はここに眠ると思っていた。ううん。リュティエルは、今もそう願っているはず。この森こそが、私たちの『魂の還る場所』なのだと」
エイベルの手に、力が込められた。
そこにあるのは、葛藤……だろうか?
「……ラミエルは、私に云った」
自分の死に場所を自分で選び戦うのなら、魂の還る場所も、自分で決めていいのだと。
「……死が長い旅だとするならば、寄り添う相手は選ぶべきだと。家族は大切だけれども、縛られる意味もないと」
エイベルは、俺を見た。
いや、俺を通して、別のものを見たのだろう。
「……だから私は、自分の旅の果てに、どこで眠るかを決めかねている。……私は、『子孫を作る』と云う責務を放棄した。そして今、魂の還る場所さえ、見失っている」
表情はない。
けれど、どこかしょんぼりしている。
だから俺は、ちいさな手を握りかえす。
何度も世界を救ってきた、ちいさくて大きな手を。
「エイベル。『見失うこと』と『選択肢がある』ことは違うよ」
「……?」
「エイベルは選ぶことが出来る。ただ、それだけの話なんだと思う。迷うと云うことは、『他』に寄り添いたい、寄り添っても構わない所があるってことでしょう? なら、迷えばいいさ。存分に迷って、それから決めれば良い。決して失ったわけではないよ」
間違ったことは云っていない……と思う。
けれども、自分の言葉がどこか虚しい。
だって俺は、魂が眠らないことを知っているから。
死後にどこかに残るのではなく、『続き』があることを分かっているから。
(俺という人間の魂は、地球から来た――)
なら、俺の魂は。
アルト・クレーンプットの魂は、どこに還るのだろうか?
本当の意味で魂が迷子なのは、異世界から来た俺の方なんじゃないかとも思う。
或いは眠ることが正しくて、自分のケースが例外という可能性もある。
俺のような状況が『当たり前』なら、世にもっと生まれ変わりを公言するものが多いはずだ。
世界は『前世の知識』で溢れ、どのような過去にいたかが重要視される世の中になっているはずだ。
だからたぶん、俺の経験はレアだったのだろう。
アルト・クレーンプットと云う人生が終わった時に、『次』がある保証なんて、きっとどこにもない。
仮に『次』があったとして、今の大切な家族と一緒だとは思えない。
前世の家族も、友人も、この世界にはいない。
きっと、二度と会うこともない。
ならば、フィーたちとも『永遠の別離』がやって来るのだろう。
「死ぬのって、怖いね」
だから俺は、絞り出すように云う。
「……死なれるのは、もっと怖い」
そして恩師は、事実を口にした。
「……アルにそれを悟って貰えたなら、この森に連れてきた意味もあった」
ああ、そうか。
ここへ来たのは、俺が無茶をしたことに対してが理由だったものな。
命の大切さ。
残される家族。
それを俺自身が理解しなければ、エイベルに連れて来られた甲斐がない。
「……私にとっても、アルとここに来た意味があった」
だからきっと、その言葉はとても大切で。
「やっぱりエイベルは、俺の先生なんだなァ……」
「……ん。私は、アルの先生」
目をこらさなければ分からない程のちいさな微笑が、本当に価値のあるものに見えたのだ。
風に飛ばされた木の葉が枝に引っかかったように。
俺が『ここにいる』のは、一時的なものなのかもしれない。
それでも。
いや、だからこそ。
フィーやエイベルの傍にいる間は、幸せでいて貰いたいと思った。
「……アル」
「うん」
「……私は、アルに出会えて良かった」
「俺もそう思う。だから振り返ったときに、もっと良かったと思えるものにしよう。『今』が霞むくらい、楽しい思い出を作ろうよ」
「……ん。それには、プリンが欠かせない」
食いしん坊さんめぇ。
しかしその言葉で、挫折した『A計画』を思い出したぞ。
そうだよなァ……。
エイベルの耳を触れるようになれば、もっと楽しい未来図が出来上がるんだろうなァ……。
(計画、再始動だ……。この命尽きる前に、自在に触れるようになってみせるぞ!)
高祖たちの聖廟で、俺は新たなる決意を胸に抱いたのだった。
ただそれだけの、大切な日。




