第三百七十一話 芝が青いは隣なり
イザベラ・エーディット・エル・ベイレフェルトの日常は、『隣家の悪口』によって彩られている。
曰く、クズの集まり。
曰く、身分卑しい乞食ども。
曰く、作法も知らない野蛮人。
未だ四歳のイザベラには理解出来ない単語も多かったが、幼心にそのどれもが悪口雑言の類であることは分かった。
差別や身分差が当たり前の世界において、『見下しても良い相手』というものは、絶好のサンドバッグになる。
殊に、侯爵の娘自体が積極的にそう振る舞い推奨するのだから、使用人達も喜んで悪意の石を投げつける。
『奴ら』は差別はしても良い。
いや、寧ろされるべきなのだ。
そう云う環境で、イザベラは育った。
何しろ、離れの住人の悪口を云うと、母は喜ぶ。
立派な魔術師にならねばならないと常日頃云われ続けてきたイザベラにとって、母の視線の歓喜の感情を向けて貰えることは、何よりも嬉しいことだった。
開放感を得られることだったのだ。
幼い少女はだから、精力的にクレーンプット家の悪口を云い続けた。
けれども、彼女は隣家の『実態』を知らない。
これでは悪口のタネが出てこない。
皮肉なことに離れの住人を悪し様に云う為の材料が欲しくて、イザベラは隣家に興味を持ち始めたのであった。
そして垣根を越えて覗きこんだ向こう側に――笑顔があった。
それは今までイザベラが見たことのない笑顔。
嘲笑とは違う、太陽のような笑みだった。
その一家は、いつも笑っていた。
家族で寄り添っていた。
親子、兄妹で抱きしめ合う姿を見たイザベラは何故だか、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
自分と変わらない背格好の少女がいる。
彼女は頭を撫でられる度に、とろけそうな笑顔を少年に向けている。
女の子を撫でる男の子も、その瞳はどこまでも柔らかい。
あんな瞳を、自分は向けられたことがあるのだろうか?
「撫でられるのって、気持ちいいのかな……?」
その呟きを聞いた者は、誰もいない。
「お、お母様、私の髪を、撫でて……頂けませんか……?」
家に戻り、アウフスタにそう願うと、夫人は煩わしそうに眉根を寄せた。
「何です、急に! 髪に触れたら、せっかくのセットが崩れるでしょう! 良いですか、イザベラ! 女はみだりに髪に手を触れさせてはいけませんよ!」
何か不機嫌なことでもあったのか、アウフスタの声色は荒い。
いや、安らいだ表情の母など、果たして見たことがあったろうか?
「そんなことよりイザベラ、勉強はしているのですかっ!? 貴方はすぐにでも魔導試験に合格しなければいけないのですよ!? あんな女の子供たちより、私の方が優秀だと証明しなければいけないんですからね!?」
肩を怒らせ、アウフスタは歩き去る。
頭を撫でて貰うどころか、ほんの僅かなふれ合いさえ。
「…………」
イザベラは、ちいさく俯いた。
広い部屋が、妙に寒々しく感じられた。
※※※
それから彼女は、隣家の『家族』をより一層、見に行くようになった。
母や使用人達がバカにする卑しい者達。
離れで暮らす、不思議な一家を。
(また笑ってる……)
笑顔。
笑顔、笑顔、笑顔、笑顔。
時々泣き顔、怒り顔。
でも、笑顔。
何であんなに楽しそうなのだろうと、不思議だった。
不思議と云えば、隣の家には、いつも変わったものがある。
それは三輪車であったりブランコであったり、シャボン玉であったり。
イザベラの見たことのないオモチャや遊具で、いつもはしゃいで遊んでいた。
その在り方も。
関係も。
全てがイザベラの常識とは違って。
この垣根の向こう側はまるで、遠いおとぎの国のように少女には思えたのだ。
――変化があったのは、四月も終わろうかというある日。
いつもいつも銀髪の少女にまとわりつかれているはずの父によく似た少年が、たったひとりでブランコの傍にいたのである。
しかし、遊んでいる訳ではないようだ。
彼は真剣な瞳で、遊具に触れている。
イザベラは吸い込まれるように、『境界線』を越えて、おとぎの国へと足を踏み入れる。
「な、何をしているのよ……っ」
高圧的な態度で唐突に声を掛けたにも係わらず、男の子は驚くことがなかった。
まるで自分がこちらにいるのを知っていたかのように。
彼は穏やかな顔と声で、イザベラの質問に答えた。
「ああ、うん。ブランコの点検をしているんだよ。万が一があったら大変だからね。傷んでいる箇所はないか? 交換しなければならない部位はないか? 暇を見つけては、調べるようにしているんだ」
点検という言葉も、その意味も知らないイザベラには、全く意味が分からなかった。
けれども矢張り、遊んでいる訳ではないことは理解出来た。
男の子はしばらくすると、イザベラに向き直る。
他者に真っ直ぐに視線を向けられることなど、どのくらいぶりだろうか。
「こんにちは」
彼はそう云って微笑んだ。
父に似た笑顔。
けれども、どこか父にはない深みのある笑顔。
自分が『家』で向けられたことのない、笑顔。
「――――」
イザベラは一瞬、言葉につまった。
けれども、何故そうなったのかは分からない。
プイとそっぽを向き、高飛車に返す。
「あ、貴方なんかに、してあげる挨拶はないわ!」
「挨拶は、大事だよ?」
特に気分を害した様子もなく、男の子は小首を傾げる。
イザベラは彼方を向いたままに云う。
「貴方なんか、大事じゃないの! だからしないの!」
「じゃあ、自分のことは大事かな?」
「自分が大事なんて、当たり前じゃない!」
「なら、挨拶は出来た方が良いね。他の誰でもない、自分の為に。自分の値打ちを、下げない為に」
「何云ってるか分からない!」
「ん~……。つまり」
彼は少し屈んで、イザベラに視線を合わせて。
「挨拶が出来る方が、素敵だよ?」
「…………」
イザベラは口をとがらせ、ややあってから、ちいさな声で、「……こんにちは」と云った。
「はい、こんにちは」
「貴方に云ったんじゃないの! 木よ! そこの木に挨拶したんだから!」
ビシッと、ブランコの下がっている木を指さす少女に、男の子は頷いて見せた。
「成程。確かに俺はブランコばかりに気を取られていて、いつもぶら下げていてくれる木への感謝がなかったな。かつては『島』に対して手紙を書いた高僧もいたと云うが、俺はその境地に至ってはいないらしい」
訳の分からないことを呟いている。
母や使用人たちが、「あの兄妹は揃ってバカ」だと云っていたのをイザベラは思い出す。
ジロリと見つめても、少年は静かに笑うだけ。
「……それで、何で貴方は、今ひとりなの?」
「他の家族は、お昼寝中だからね」
「お昼寝?」
「そう。お昼寝」
「ふ、ふ~ん……」
チラリとブランコを見るイザベラに、少年は苦笑する。
「まあそう云う訳なんで、もしも時間があるなら、俺に構ってくれると嬉しいんだけどね?」
「ひ、ひとりで寂しいって訳ね。普通なら構ってあげる義理なんてないんだけど、どうしてもって云うのなら、遊んであげても、い、良いわよ?」
「うん。どうしても」
「――――っ!」
イザベラの身体が、ちょっぴりふるふる。
「そ、そう。仕方ないわね。なら遊んであげる。でも良いこと、こんなことがお母様に知られたら、私が怒られてしまうわ! だからこのことは、絶対に内緒よ? 私の優しさに感謝なさい!」
ついっと手を伸ばすと、少年は紳士的な動作でそれを取った。
男の子に触れられるなど、弟を除いて初めてのことである。
ビクッとしてしまったのは内緒だ。
「じゃあ、ブランコで遊びますかね?」
「それは後で良いわ! 変わった乗り物があるでしょ!? まずはそれで、遊んであげる! 云っておきますけど、仕方なくですからね!」
「仰せのままに。お嬢様」
イザベラはこの日初めて、同世代の子供と遊んだ。
ただ、それだけ。
それだけでも、彼女にとっては、おとぎの国の出来事であったのだ。




