第三百六十四話 『父』との邂逅
「や、やあ……」
男は、ぎこちない笑顔で片手をあげた。
『どんな顔をすれば良いか分からない』とは、こういう時に使う表現なのだろうか?
腕の中の妹様は、話しかけてきた人物に興味がないのか、俺に頬ずりしている。
俺は目の前の男――ステファヌスが『何者か』が分かっているが、それでもまともに会ったことがない。
まさか『お父さん』と呼ぶわけにもいかないだろう。
黙って見つめていると、向こうが先に言葉を紡いだ。
「私が誰か、分かるかな?」
うちの母さんを放置している人、というのが俺の見解だが、進んでケンカを売る必要も無いだろう。
なので、本館の方を指さした。
「あっちに住んでる人」
「ああ、そうだね……。私は確かに、向こう側でくらしているね。その通りだ。ははは……」
とステファヌスは笑っているが、俺は『住む世界が違う』と云ったつもりだったのだ。
たぶん、伝わっていないだろうけれども。
「私はステファヌスと云う。キミたちとは、少なからぬ関係があるんだけどね」
父親、と正式に名乗ってくれる訳ではないようだ。
まあ、今更「パパだよ」と云われても、それはそれで困ってしまうが。
「で、そのステファヌスさんが、俺たちに何か用なんですか?」
この後は、フィーのお昼寝タイムなのだ。
マイエンジェルの成長の為にも、眠る時間はとても大切。しっかりと睡眠を取らせてあげたいので、長話でないことを祈るばかり。
「ステファヌスさん、か……。私が誰だか、分かっていないみたいだね。まあ、無理もないことだけれども……」
男は苦笑し、それから改めて『子供たち』を見る。
「キミたちは、もの凄い天才兄妹だと聞いているよ」
と、微妙に誇らしそうな顔をする。
まあ、四人の子供のうち、三人が確定で魔力持ちと来れば、『種馬』としての自信も芽生えるのかもしれないが。
すると腕の中の妹様が即座に反応を示した。
「ふぃーのにーた、天才! 凄く頭良い! 格好良い! 素敵! ふぃーのこと、とっても大事にしてくれる! ふぃー、にーた好き!」
「そうか……。家族仲が良いのは、素晴らしいことだね」
遠い目をするステファヌス氏。
単純に俺たちの兄妹仲を思っているのか、それとも『本妻』との家族関係を考えているのか。
「最近、イザベラがキミたちのことを話すことが多くてね」
フィーに遅れること二ヶ月で生まれた三番目の子供にして、最初の子供。
イザベラ嬢と出会ったのは一回だけだ。
いや、庭で遊ぶ俺たちを何度も見に来ているのは、もちろん知ってはいるけどね。
(だが、『実の娘』が話題に出すくらいで、気まぐれに会いに来たとも思えないんだよなァ……)
何事かの『目的』ないし、『理由』があると思っている。或いは、『口実』か。
果たしてステファヌスは、一呼吸置いた後に、こう切り出した。
「家族が一緒に暮らせるって、良いことだとは思わないかい?」
「ふぃーたち、ずっと一緒に暮らしてる! 毎日楽しい! ふぃー、幸せ!」
「それは知っているよ。けれど、キミたちには父親がいないだろう?」
「にーたがいれば、別にいらない!」
「…………」
計算でも悪意でもなく、素の一言にステファヌス氏はたじろいだ。
しかし、俺は彼の言葉で察するところがあった。
(親父殿、もしやカスペル老人に何か云われてやってきたんじゃあるまいな……?)
俺たちに対して『家族一緒に』なんて言葉は、アウフスタ夫人からは絶対に出てこないセリフだろう。
もちろん、彼女に引きずり回されているステファヌス氏からも。
となれば、ベイレフェルト侯爵家の当主。トゲっちと親父殿の上に君臨する男。
あの怜悧なギャングの親玉のような人物が、何かを策動しているのではないかと考えた。
(カスペル老、俺たちを何かに利用するつもりか? それとも別の意図があるのか……)
あの老人に、仲の良い家族風景を眺めて喜ぶ趣味があるとは、とても思えない。
もしも本当に俺の拙い想像が当たっているなら、そこには何事かの理由があるはずだ。
もちろん、ベイレフェルト侯爵の意図なんぞ何もなく、ただ単にステファヌス氏が、自身の『希望』を口にしただけという可能性もあるのだが。
フィーに一刀両断されたステファヌスは、今度は俺に視線をぶつけた。
「キミはどう思う? 一家にとって、父親は必要だと思わないかい?」
「それには前提がありますね」
「と云うと?」
「単純な話です。父親というのは一家の大黒柱な訳ですから、たとえば大切な家族を飢えさせるとか、ろくな護衛も用意しないで旅に出すなんてのは論外でしょう? ボロボロの柱では、家を支えることは出来ません。寧ろ潰れる危険性がありますので、遠ざける方が安全でしょう」
「…………」
彼は絶句している。
俺を見る瞳には、明らかな動揺があった。
どうやら、俺が『ステファヌスという男』が何者なのか気付いていることに思い至ったようだ。
「……ああ、キミは天才だったな、そう云えば」
親父殿は頭を掻いた。
そしてもう一度、俺を見つめる。
「私はリュシカのことを大切に思っているし、その子供たちとも関係を深めたいと思っている。その思いに、一切の偽りはない」
「ご立派です。では具体的に、アウフスタ夫人の嫌がらせから、どうやって母を守って下さるのですか? 或いはベイレフェルト侯爵が『妾を捨てよ』と命令した場合、抗命するだけの気概と対策をお持ちと考えて良いのですね?」
「――え? それは……」
男は云い淀んだ。
ああ、うん。
ダメなやつだ、これ。
ここでハッキリと『何があってもリュシカを守る』と云ってくれたなら、まだ期待が出来たかもしれないのに。
あてに出来ないものをあてにすると、困ることになるのは自分自身だ。
ボロ船や泥船で航海に漕ぎ出すことは出来ない。
時間が掛かるとしても、自分で材料を揃え、堅牢な船を作り上げるべきだろうと再確認出来た。
でないと世間の荒波に飲まれて、家族もろとも沈没してしまう。
ステファヌス氏は俺の視線から逃れるように、もう一度フィーを見た。
「わ、私とキミのお兄さんは、似ていると思わないかい?」
どうやら、外見で親しみを持たせる作戦に出たようだ。
しかしフィーの表情は、明確に曇った。
「全然似てない! にーたの魂、とっても綺麗! 誰のものとも違う! そんな風にヒョロヒョロしてない!」
「は……? な、何を云っているんだ……?」
意味不明とばかりに、親父殿は困り果てる。
この娘が見たのは外見ではなく、言葉通りに魂なのだろう。
そして俺の魂が『誰のものとも違う』と云うのも当然で、身体は兎も角、中身の方は『地球産』だから違って見えるのだろうな。
『綺麗』と云う部分は、話半分に聞いておけばいいだろう。
何せ、メジェド様が格好良いと思えるセンスの持ち主だからな……。
フィーは完全につむじを曲げてしまった。
どうやらステファヌス氏が『俺に似ている』と云ったことが気に障ったらしい。
ほっぺをぷくぷくと膨らませたまま、俺に頬ずりを繰り出してきた。
昨日ぶり、二度目の事である。
理由も分からず『娘』を怒らせてしまった親父殿は、迂遠な云い回しは止め、直截的に訴えることを考えたようだ。
「わ、私は、家族皆で、仲良く暮らしたいと思っているんだ……! ずっと、ずっとそう思ってきたんだ……!」
「ずっと思おうが、今思い付こうが、母さんを守ってくれないなら有害無益なだけです。俺も家族が大切ですので、そこは絶対に譲れません」
一緒に暮らしたいという言葉を、俺は拒絶してしまった。
たぶん、この人が母さんを今でも好きというのは本当だと思う。
家族と暮らしたいと云う言葉も。
でも、だからこそ『守ってくれない』では困る。
俺はフィーも母さんも大事なので、ふたりが酷い目に遭うのは見たくない。
ミアとイフォンネちゃん以外の殆どの使用人は、今でもうちの家族をゴミを見るような目で見つめてくるし、陰口を叩かれることも珍しくない。
俺自身はそういうのはスルー出来るが、大切なふたりが蔑まれるのは絶対にイヤだ。
一緒に暮らす以前に、その辺りすら配慮してくれない、或いは改めさせる能力がないのでは、話にならない。
フィーや母さんにはいつでも笑っていて欲しいと思うし、ずっと幸せでいて欲しいとも思う。
だから『父親』には、そう云う、有形無形の障害を排除する力と気概を持って欲しいと思う。
母さんは今でもステファヌスのことを好きみたいだから、俺の考えや言葉は、もしかしたら間違っているのかもしれないけれども。
親父殿は、絞り出すような声で云った。
「侯爵様が、家族一緒に暮らせる許可をくれるかもしれないんだ……! もしも許可を貰えれば、アウフスタだって文句は云わないはずだ……!」
いや、云うだろう。トゲっちの性格だと。
或いは口に出さなくとも、嫌がらせは増えると思うが。
しかし、重要なのはそこではない。
カスペル老人が『許可をくれるかも』と云う発言の方だ。
(やっぱりステファヌスが『子供』に会いに来られたのは、あの爺さんに理由があったか……)
どう考えても、真心から出た言葉じゃないよな。
親父殿は、澱んだ瞳で俺を見た。
「家族になるって云うのは、難しいものだね……」
「どのような家族を目指すかにもよるでしょう。特に『幸せな』が付くと難しいと思います。でも、それだけの価値があるものでしょう? 少なくとも、俺はそうあって欲しいと思います」
「鳶が鷹だな……」
ステファヌスは自嘲気味に笑うと、少しだけ悲しそうな顔をしてから背を向けた。
「私は、それでも家族皆で暮らしたいと願うよ」
そう云って、背中が遠ざかる。
(家族、か……)
万が一にも彼が立派な男になった場合。
俺はステファヌスを『父』と思えるだろうか?
前世の記憶がある自分こそが、『家族になるのは難しい』と云う現実に直面するのではないか?
ステファヌスがいなくなり、笑顔を取り戻した妹様は、嬉しそうに俺に頬ずりする。
「にーた! この後、ふぃーと一緒にお昼寝する! ふぃー、にーたとダイコンに挟まれて寝る! ふぃー、幸せ!」
彼と家族になれるかどうかは分からない。
けれど、今。
俺の腕の中にある子は、紛れもない家族だ。
この笑顔だけでも、俺が命を掛けて守るべき価値のあるものだろう。
ただそう思っただけの、ある三月の一日。




