第三百五十六話 泥がくる(その二十一)
泥がくる。
全てを併呑するような、悪魔の泥が。
こんなものが広がったら、大惨事というレベルの惨劇では済まない。
「ど、どうするのよ、こんなもの! いくらあたしが優れたエルフでも、量が多すぎて打つ手がないわ!」
アレッタが狼狽している。
しかし、それが普通の反応だろう。
触れれば食われる膨張する泥は、辺り一面に充ち満ちている。
これでは移動もままならない。
俺たちには、『逃げ惑う』という選択肢すらないのだ。
「あ、あんたは、どうしてそんなに落ち着いているのよ!?」
医術者が、うちの先生に矛先を転じた。
確かに焦るエイベルというのは、あまり見かけないが。
「……右往左往しても事態は好転しない。寧ろ冷静さを欠く分、動揺する方が損をすると思う」
「そ、そういう話をしてるんじゃないわよ!」
マイティーチャーの言葉は完全な正論だが、心情的にはアレッタの云い分も分かる。
俺としても、背中ですやすやと眠っているフィーを危険な目には遭わせたくない。
魔壁で防ぐか、粘水のクラゲで飛んで逃げるかすべきだろうな。
その場合、助かるのは我が身だけで、村を見捨てることになってしまうが……。
(ともかく、まずは防御だ)
決断し、魔術を使おうとした矢先、エイベルが首を振った。
「……アルにはあとでやって貰いたいことがある。泥は私が対処するから、魔力や体力は温存しておいて欲しい」
その言葉に、アレッタが反応した。
「対処って……! あんたに何が出来るって云うのよ!? 視界を覆う量なのよ!?」
「……それは今から確かめる」
エイベルは手をかざした。
瞬間、溢れんばかりの泥は不可視の壁にでもぶつかったかのように、その侵攻を止めてしまった。
まるでガラスケースの中で荒れ狂ってでもいるように、こちらとあちらが断絶している。
「え……ッ!? あ、あんた、何をやったの!? どうして泥は、こっちに来ないの……!?」
「……周囲を遮っただけ。まだ、それ以外はやっていない」
「遮ったって――。一体、どうやって!?」
アレッタはエイベルのやったことが理解出来ていないようだが、俺には分かった。
これは空間魔術だ。
泥の周囲の空間を断絶させて、こちらとあちらを切り離した。
だから泥は、こちらに来られない。
俺は慣れ親しんだ大陸公用語で話しかける。
「魔壁で防ぐ訳じゃないんだね」
「……あの泥の性質が必要以上に悪辣だった場合、魔壁も『食われる』可能性がある。切り離しておく方が無難と考えた」
「サラリと、とんでもないことを云うねぇ……」
「……これくらいなら、ヘンリエッテでも出来る。瞠目するには値しない」
謙遜でも何でもなく、心からの発言なのだろう。
彼女にとっては、この魔術も判断も、ごく当たり前のレベルのようだ。
「でもエイ――シーベルが空間魔術を使うのって珍しいよね?」
「……空間に作用する魔術は、切り離すときよりも、元に戻す方が難しい。みだりに使わない方が良い類の魔術ではある」
出来る出来ない。可能不可能とは別に、使用には独自の基準があるようだ。
そう云えば、転位門の取り扱いも、時空震のことを気にしていたものな。
尤もその辺の高度な話は、俺には縁遠い話題ではあるのだろうが。
エイベルは再び手をかざす。
泥の一部が突風で上空に巻き上げられ、空中で切り裂かれていく。
我が師は、それを注意深く見つめていた。
「な、何をやっているのよ……!?」
「…………」
エイベルは答えない。
でも、その視線の意味するところは理解出来る。
たぶん彼女は、悪魔の泥が悪魔の泥でいられる最低限の大きさを測っているのだろう。
どれだけちいさく砕いてしまえば、『ただの泥』になるのかを、見極めているのだ。
果たしてエイベルは、「……大きさは理解した」と呟いた。
同時に、泥の中に無数の竜巻が現れる。
それらは悪魔の泥を巻き上げ、霧状に散らしていく。
恐るべき速さだった。
全てを呑みこみかねない大量の汚泥が、みるみるうちにその堆積を減じていく。
うちの先生の行動を理解出来ていないであろうアレッタも、同族の魔術師によって泥が消去されつつあることは分かったはずだ。
「こ、こんな大魔術を使えるなんて……! あんた一体、何者なのよ……!?」
云いながら、ハッとした顔をするアレッタ。
「も、もしや、あんた……。は、ハイエルフ様――だったりするの……ッ!?」
「……私はエルフ。それ以上でも、それ以下でもない」
「何だ、おどかさないでよ……。そうよねぇ、あんた別に、ハイエルフの方々のような威厳もないしね……」
ホッとしたように息を吐く刀圭家。
エルフ族って妙に『同族の上位者』を敬っているからな……。
もしもエイベルがハイエルフだったら、今までの無礼な態度がのし掛かってくることになるのだろう。
……実際は、ハイエルフどころの存在ではないのだが。
(しかし、俺も何か手伝わなくて良いものだろうか……?)
エイベルにはさっき、あとでやって貰いたいことがあるとは云われたが……。
「シーベル、俺にも何か、出来ることはあるかな?」
「…………」
訊いてみると、チラリと見られた。
そのまま無表情に一瞬だけ俯いて――。
(おや……)
キュッと、手を握られてしまったぞ。
「効果あるの、これ」
「………………………………パワーアップ」
「おぉっ!?」
竜巻の数とサイズが増したぞ!?
先程よりも数倍の速度で、泥が消えて行く。
これならば完全消滅まですぐだろう。
そう思った矢先に、変化が訪れた。
「ちょっと、あれ……!」
エルフの医術者が指をさす。
そこには段々と縮んでいく泥の姿が。
(いや、ただ縮んでいるんじゃない――)
あれは、『圧縮』だ。
泥が寄り集まって、岩のように硬いモノへと変化しているのだ。
それは防衛本能なのか、はたまた知性があるのか。
いずれにせよ、吹き削られるままではいないようだ。
「……泥の素となった人物の知性を食べた影響……? いずれにせよ、知恵あるものを食べさせない方が良いことは分かった」
エイベルは竜巻を消し、片手にエネルギーを集めていく。
どうやら、別の魔術で一気に片を付けるつもりらしい。
「…………んゅ?」
そこで、背中から可愛らしい声。
おんぶされているマイエンジェルが、目をさましてしまったようだ。
「みゅー……。ふぃー、にーたにだっこして貰ってたはずなのに、おんぶになってる……?」
最初に気にするところは、そこなのね。
「フィー、起きちゃったか……?」
「みゅぅ……。強い魔力感じた。だからふぃー、目をさました」
それは、今エイベルが使おうとしている魔術の影響か。
この娘にとっては強い魔力を感じることは、騒音で目をさますようなものなのか。
つまり、俺がこの娘が寝ているときに使っている魔術では、魔力量がちいさすぎて気にもならないと。
「にーた、だっこ……! ふぃー、おんぶよりだっこが良い……!」
「はいはい……」
仕方ないので、願いを叶える。
それはエイベルと繋いでいた手を離すことを意味するのだが。
「あ、ありゃ……?」
エイベルの掌に集まっていた魔力が霧散してしまった。
「…………」
無表情なのに、どこか寂しげなマイティーチャー。
まさか『パワーダウン』されたのですか?
一方、俺にだっこされた妹様はご満悦だ。
とろけそうな笑顔を俺に向けている。
「ふへへ……! ふぃー、にーたのお顔が見える、だっこが好き……!」
ほっぺにキスされてしまったぞ。
そしてマイエンジェルは、周囲をキョロキョロ。
「にーたたち、何やってた? またメジェド様作る?」
「い、いや、そうじゃなくて、あのでっかい岩を壊そうとね」
「みゅみゅー……。あの岩、何かやな感じする。ふぃー、あれ嫌い! 壊すなら、ふぃーがぼかーんってするの!」
マイシスターがこう云っているのでお師匠様を見ると、何故だか彼女はやる気なさ気に頷いた。
「……フィーがやりたいと云うのなら、それでも良い。この娘の魔力量なら、あれも壊せるはず」
「だってさ、フィー」
「なら、ふぃーやる! あの気持ち悪いの壊して、にーたにキスして貰う!」
いつの間にそんな話に……。
ともあれ、腕の中の妹様は眠そうなまま、岩の破壊を試みることになった。




