第三百五十五話 泥がくる(その二十)
「ぐ、うぅぅぅぅ……」
痛みに呻き声を上げ、恐怖に引きつった顔をしていても、ディットの瞳には強烈な決意のようなものが見えた。
何かやる気だ。
俺はそう思った。
「ひ、ひひ……!」
男は笑った。
それはこんな状況であるにもかかわらず、どこか『余裕』や『優位性』を感じさせる笑みだった。
「何がおかしいのよ?」
「俺が授かったのが、寄生種だけだと思うのか……?」
云うと同時に、ディットは奥歯を強く噛んだようだった。
一瞬、毒による自害かとも思ったが、彼の表情から、それが違うということが分かる。
「あ、あんた、何をしたのよ……!?」
「云ったろう? 授かったって。俺は力を貰ったんだ……! 誰にも負けないような力を!」
男の顔が、ぐにゃりと歪む。
有り得ないことだった。
まるでスライムか、俺の作る粘水のように、『人として不可能』な蠢き方をしている。
ディットの身体が、そのまま網をすり抜ける。
自由になった男はしかし、それでも逃げ出すようなことはしない。
今の自分に、絶対の自信があるかのようだ。
「この力は、まだ試作段階のものなんだよ……。だから、あまり使いたくはなかったが、こうなっては仕方がない……! お前たち、もうおしまいだよ……! ひ、ひひひ……!」
「何がおしまいよ! エルフふたりを相手にするあんたのほうが、とっくにおしまいなのよ!」
アレッタは素早く詠唱をすると、岩の槍を発射した。
狙ったのが足なのは、彼女なりの手加減なのだろうな。
しかしディットは回避しようとしなかった。
ニヤニヤと笑いながら、その場に立ち尽くしている。
アレッタの魔術が足を貫通する。
だが、血は出ない。
それどころか、怪我をした様子もない。
岩の槍は、確かに突き刺さっているというのに。
「ど、どうなってるのよ……」
アレッタの顔が引きつっている。
ディットはそのまま、構わずに前進する。岩の槍は、男の身体をすり抜けた。
(まるで『液体人間』にでもなったみたいだ……)
これも錬金生物学の成果だとでも云うのだろうか。
傍に立つエルフの先生は、無表情のまま、淡々と呟く。
「……泥」
「ほぉう? 一目で気付いたか。そう。泥だよ」
ディットの身体が、ぐにゃりと歪んだ。
それで俺は、エイベルの言葉を理解する。
「泥人間……!」
どうやらこの男は、泥の身体を手に入れたらしい。
確かにそれなら、岩の槍も拘束する網も、すり抜けてしまうことだろう。
しかし、人を別種の存在に変えてしまう技術など、そうそうあるとは思えない。
こう云った超技術は、セロや氷穴で見たものの『ご同類』なのではないか。
ディットに力とやらを与えた人物は、あれらの騒動を起こした者と同一か、その仲間なのではないだろうか?
「…………」
エイベルは、ジッと目の前の男を見つめている。
俺が考えたことくらい、この人ならば、とっくに思い付いているんだろうが。
「この……っ!」
一方アレッタは、二度、三度と魔術による攻撃を試みているようだ。
だが、成果はあがらない。
彼女の放つ魔力では、泥を破壊することが出来なかった。
「ははははは……! エルフの魔術ですらものともしない! 俺は凄い身体を手に入れたぞ!」
自らの優位性を確認し、ディットは高笑いをした。
そして、アレッタに対して手をかざす。
彼女が慌てて飛び退くと、足下にあった岩に大量の泥がかかった。
どうやらあの男は、泥を発射することも出来るらしい。
「な、何よそんなの、こけおどしじゃない!」
「ふふふ……」
男が笑う。
同時に、泥にまみれた岩が、蝋細工のように溶けた。
それは泥の一部となり、ディットの身体に吸収されていく。
「な、何よそれ……!」
「見ての通りだ。『食える』ってことさ……っ! 食ったものは、そのまま俺の身体の一部になる……! ははは! 素晴らしい! 素晴らしい能力だ! 呑みこんでやるぞ、全てをなぁッ!」
余程に高揚しているのか、哄笑がとまらない。
「はじめは寄生種で苦しませて殺すつもりだった! それが難しい場合は、泥の津波で根こそぎ始末する予定だった。だが、どっちも間違いだと今なら分かる! 最初からこうして、俺が呑みこんでしまえば良かったんだ! 直接手を下す方が、気が霽れるじゃないか! しかも俺の為の栄養になってな!」
ディットは俺たちを見ながら云う。
「まず手始めに、お前たちを喰らってやる! そして、リューリングも、ゴーシュもセルカットも、全部喰ってやる! 治療薬なんて余計なものを作ったあの神官もだ! 逃がさない! 全部全部、全ェェ~~ん部ぅ! 俺が呑みこんでやるんだぁぁぁあぁあぁッ!」
その目は既に、俺たちを『対等の敵』とは看做してはいなかった。
テーブルの上のご馳走を見るかのような目。
自分こそが一方的な捕食者であり、食物連鎖の上に立つことを信じ切っている目をしていたのだ。
合間合間に繰り出されるアレッタの攻撃をものともしないから、余計にそう思ったのだろう。
「ひ、ひひ……! そこのエルフの魔術師さんよぉ……!? あんたは、俺を攻撃してこないのか? 尤も、この身体には、まともにダメージなんて入らないけどな! たとえエルフ族の魔術師だとしても……!」
ディットは、エイベルにどのような態度を期待したのだろうか?
アレッタのような驚愕や無駄な抵抗か。
或いは狼狽や恐怖か。
しかし俺の師は、そのいずれでもない反応を示した。
「……警告」
「ん? 何だって?」
「……これ以上、その力を使わない方が良い。取り返しの付かないことになる」
エイベルの言葉に一瞬だけキョトンとしたディットは、それから爆笑した。
「はははははは! 成程。知恵を絞ったな! 冷静を装って、力の行使そのものを回避しようとするなんて!」
どうやら、うちの先生の言葉は、ブラフの一種だと思われたようである。
だから当然、聞く耳など持たないわけで。
「そんなに怖いか、俺の力が……!」
「……それは貴方の力ではないし、何者かに利用されて、人であることもやめた者に、特に恐怖を感じることはない」
「――――ッ!?」
男の顔が、憤怒に染まる。
絶対的優位性を確信していたのに容赦のない言葉を投げかけられて、我を忘れたのだろう。
ディットの手足が泥状になり、木々や岩を呑みこみながら、俺たちを囲んで行く。
食えば食った分だけ身体の一部になると云うのはどうやら本当のようで、泥の量は、明らかに人間のサイズを超えている。
「エルフの魔術師が! この泥の前に、何が出来るという!? お前たちは俺を倒せない! 逃げることも出来ない! ただ呑みこまれるだけだ!」
「……再度警告。それ以上、その力は使うべきではない」
「ははッ! 命乞いなら、もっと必死になってやるべきだ!」
泥が迫る。
背の高い木々を呑みこみ、大きな岩を溶かしたところで、『それ』は起こった。
「う、ぐぐぐぐ……! あ、頭……ッ! 頭が痛いぃぃぃぃ! か、身体……! 身体が上手く動かない……!? 云うことを聞かないいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
ディットは、突然もがき苦しみだした。
苦悶の表情を浮かべながらも、泥は広がっていく。
俺たちに殺到するのではなく、外――。
併呑現象は外周へと広がっていく。
みさかいなく周囲を呑みこみ、ただただ膨張しながら。
男は、すでに人の形をしていなかった。
巨大な泥の塊となって、その一部に、顔のようなものが浮かんでいるだけだった。
「な、何が起こっているのよ……!?」
アレッタが狼狽している。
しかし我が師は、こんな時でも淡々としたままだ。
「……答えは簡単。自分自身が『食われた』」
簡潔な説明だった。
しかし、アレがどうなったかなんて、俺でも分かる。
ただ周囲を食い続け、膨張していくだけのモノに成り下がったと云うことなのだろう。
「ああああああああああああああああ! 痛いいいいいいいいいいいいいい! 消えるうううううううううう! 俺が消えて行くううううううううううううううううううううううう! 助けて! 誰か助けてくれええええええええええええええええええ! 痛い! 痛いよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
それは村への復讐を誓った男の断末魔だった。
ディットであった部分が破裂し、泥の奥へと呑みこまれた。
人であった最後の部分が消滅したからか、泥は一気に膨張し、雪崩のように周囲を浸食し始めた。
「マズいぞ! このままでは、周囲の村も呑みこまれてしまう!」
しかし、こんな量の泥を、どうにか出来るものなのだろうか!?




