第二百八十一話 瞬きの夜に、キミと(その三十一)
落ちた。
俺は地面に墜落した。
トビびそうになる意識を押さえ、ギリギリで地面に粘水を展開し、衝撃を殺す。
痛みと疲労のせいで、制御が上手く行かなかった。
フィーとぽわ子ちゃんは何とか包み込めたが、自分の身体を守る量の粘水を、殆ど出す事が出来なかったのだ。
「……ぁっ、ぐ……!」
精一杯、頭を庇う。
地にぶつかった背中が激しく痛んだ。
自分の身体から、肉の焦げる臭いがする。
カノンへの防御は万全ではなかったが、死ぬことだけは免れたようだ。
「ふ、ふたりとも、大丈……夫、か……?」
呼吸が出来ない。
手が震える。
それでもどうにか、妹と友人に怪我が無いことだけは確認出来た。
白いシーツに焦げ目がなかった事に安堵する。
気は失っているようだけれども。
「よ、良かっ……た……。ゴホッ……!」
血の味が、口の中に広がる。
霞む視界に、完全に死んだと思われる『球体』の残骸を見た。
アレを倒すことだけは、どうにか成功したようだ。
(……ポーション……。もう無かったな、そういえば……)
回復する術が、今の俺にはない。
起き上がる気力も、また。
そんな俺の頭上から、パチパチと手を叩く音が聞こえてくる。
「いやぁ~……! 凄ェもんだな、精霊様ってのはよぉ! まさか、まさかだぜ!? 俺の切り札。あのデカブツまで倒せるたぁ、思わなかったぜ! いや、マジにビビッたよ。人外を相手にするってのが、これ程とはなぁ?」
それは、従魔士の男だった。
倒れ伏した俺を前にしてなお、陣を組んだ獣たちに身を守らせている。
このくらいの油断の無さがあれば、最後のカノンを防げたのだろうか。
男は、笑っていた。
俺が虫の息なのだと理解しているのだろう。
「アルト様……ッ!」
フェネルさんが、遠くから駆け寄ってくるのが見える。
しかし、指揮官としても優秀なこの男が、接近など許すはずもない。
「手前ェは、そいつらと遊んでろォッ!」
四方から襲いかかる、ウォーベアの群れ。
フェネルさんは従魔に戦わせるが、自身も獣たちに阻まれ、こちらへ近づくことが出来なかった。
「バカが。俺が無駄に従魔をけしかけてた訳がねぇだろうが! 戦力分析もしてたんだよ! どのくらいなら、押さえることが出来るかってなァ? 手前ェは精霊のガキを始末した後に、なぶり殺しにして、従魔の餌にしてやるから、そこで震えて待っていろ!」
メンノは叫ぶと、俺に視線を向けた。
「散々、俺の邪魔をしてくれたようだが、今どんな気分だ?」
「……良いわけ、な、ないだろう……」
「はっはははははは! そりゃあそうだよなァ!? だがよ、俺はとても気分が良いぜぇ? 犠牲は払ったが、俺の従魔が精霊をも降せると分かったわけだしなぁ!」
本当に高揚しているのだろう。
男は腹を抱えてゲラゲラと笑った。
俺は震える腕を何とか動かし、指を従魔士に向ける。
そして、火球を発射した。
「おぉっとォッ!」
しかし、これあるを予期していたのだろう。
異常な身体能力で、メンノは回避してしまう。
慎重な男に強力な運動性能があると、不意打ちも難しい。
「惜しい惜しい! でもよぉ。俺は思うんだ。ジジイのしょんべんみたいなしょうもない火球じゃなくてよ、デカブツをやった、さっきの光線を放てば良かったじゃぁねぇかってな? アレなら流石の俺も躱せねぇ。なあ、教えてくれよ? 何でアレ。俺に撃たなかったんだぁ? もしかして、お疲れモードで無理なのかなぁあぁあぁ? はっはははははははは……ッ!」
男は笑いながら、俺の顔を覗き込む。
身体が動かないことが、もどかしかった。
せめて何か、云い返してやりたい。
「た、頼みの戦力を失った割りには、よ、余裕じゃないか……」
「おお! 余裕だぜ? 云ったじゃねぇか。これは勝ち戦だってな? お前がとんでもねぇ精霊だってのは分かったがよ。それでも俺には、絶対に勝てねぇんだよ」
ニヤニヤと笑うその顔を、なんとか引きつらせてやりたい。
たとえそれが、ハッタリでも。
「お、俺にまだ、戦う力があるとしても、そんなことが云えるのか……?」
「ほほぉう? 戦う力がね? 俺にゃあ、お前が、既に虫の息に見えるんだがねぇ? これでも戦況の見極めには自信があったんだが、俺の目が曇っちゃったかなぁぁ? ひゃはははははははははは……!」
完全にブラフだと見抜いているのだろう。
男の態度に、揺るぎはなかった。
(最後の一撃さえ、食らわなかったら……!)
俺は、自らの迂闊さを呪った。
「お前さぁ。もしかして、『最後の一撃さえ、食らわなかったら』、なぁんて考えてるんじゃあ、ねぇよなぁ?」
まるで単純な足し算も出来ない大人を見下すかのように。
哀れんだ瞳で、従魔士は吐息した。
「分かってない。分かってねぇんだよ、お前ェはよぉ。云ったよなぁ、俺は? これが勝ち戦だってよ! お前があのカノンを凌いでいたところで、ハナから勝ち目なんて、微塵もなかったんだよ!」
男の自信は、どこから来るのだろうか? それがとても不思議だった。
最後の一撃を防げていれば、俺の身体は当然、健在だ。
フィーと云う供給源が無くなったことは大きな痛手だが、それでも『肉塊』なき魔獣の群れならば、蹴散らすことが出来ただろう。
俺がフィーから魔力を借りていることを、この男は知らないはずだ。
その俺を前にして、どうして『勝てた』と云えるのか。
「ひっひっひ……! 良いぜ? 何なら、教えてやるよ。どうせこの街は、ぜぇ~~んぶ、ブッ壊しちまうつもりだったんだ! 盛大な花火を見せてやるよぉ!」
男はタクトを振るった。
同時に、地面が鳴動する。
地震でないことはすぐに分かった。
何故なら、辺り一面が青白く光っていたからだ。
これは術式。
あの不完全な『門』を起動した時の状態なのだと、俺は理解した。
「ま、まさ、か……」
そこにあったもの。
それは、絶望だった。
地を埋め尽くす程の影。
たった今、散々苦労して倒した、巨大な『球体』。
それが、無数に現れた。
いったい、何匹いるのだろうか。
尋常ではない数だった。
「くっはははははは……ッ! デカブツ百四十四体。俺の手持ちの全戦力さ! 分かるかぁ? こちとら、初めから、この国、全部を落とすつもりだったんだよ! 街ひとつなんてチンケな事は眼中になかったのさ! ムーンレインの全てをブッ壊す! この数! この戦力に! お前は初めから勝てる道理がなかったのさ!」
こんなもの、どうやっても、対処出来るはずがない――。
初めて心が折れそうになった。
腕の中の少女たちを、どうやって守れば良いのかと。
「良いね、良いねェッ! 生意気なクソガキが絶望してくれるってのはよ! 手札を見せた甲斐があったってもんだ。なぁ?」
男は笑った。
しかし、今度はその笑いを止めてやろうと云う気にすらなれない。
動かない身体と、軋んだ心が、泥沼に呑みこまれるようで――。
だから。
ああ、だから、気付くのが遅れた。
数百体はいる四つ足の獣たちが、一瞬にして吹き飛んだことに。
覆い尽くす絶望たちの中に浮かんだ、ちいさな人影に。
それは、絶望すら絶望する最強。
人の世にある者が決して届かぬ、神代の魔術師。
――『破滅』。
その名を冠する、ひとりのエルフが、そこにいた。




