第二百七十五話 瞬きの夜に、キミと(その二十五)
我々は小休止を兼ねて、路地裏へと移動した。
そこは、フローチェ・シェインデルと名乗った女性が戦闘を行った場所からも離れている。
どうやら、街の主要施設が重点的に狙われているという予想は正しかったらしい。
どこへ行っても魔獣たちは存在するが、それでも街の要衝地から離れる程、その数を減じているように思えた。
なので私たちはそれらの場所を避け、迂回するようにして進んでいる。
遠回りになることもあって、適度な休憩は絶対に必要だった。
「では、血の臭いを飛ばすために風の魔術を使っていたのですか」
「はい、左様です。現在、猖獗を極める魔獣たちは種類こそ違えど、どれも鼻が利くタイプだと分かりましたので、風を選択しました。『血の臭いに釣られて増援が湧き続ける』、では、勝つことはもちろん、逃げ出すことも出来ません」
合理的な判断だ。
『強い』ことと『実戦慣れ』していることは往々にして両立しないことがあると聞くが、彼女の場合はどちらも兼ね備えているのだろう。
「シェインデル殿は――」
「フローチェで構いませんよ、バウマン様」
「そうか。では私のことも、フレイで良い。フローチェ殿に、家族なり友人なり、他の同行者はいらっしゃるか? あまり隔たっては救出は無理になるが、近場ならば手を貸しますが」
「お心遣い、感謝致します。ですがセロへは、この娘とふたりだけで参りました。他に守るべき者も、探すべき者もおりません」
それは、不幸中の幸いと云うべきなのだろうか?
家族が引き離されていないのは、素直に良かったと思うし、羨ましい。私も早く、父上やフレアと合流を果たしたい。
「せっかくのお祭りなのに、災難でしたな」
傍に控える騎士が、気の毒そうに語りかけた。
現在、我々がいる路地は左右が建築物で、細い一本の通路になっている。
騎士たちには、その前後を固めて貰っているが、当然、私の傍にも騎士はいる。
「いえ。お祭りはもちろん楽しませていただくつもりではありましたが、私はセロには仕事で来たのです。この街にも、高名な魔学博士がおられますので」
そう云えば彼女は、魔導復古学と魔導考古学を研究していると云っていたな。
彼女の挙げた名前には、私も聞き覚えがあった。
確か、何か大がかりな研究の為の費用を必要としていたはずだ。
父上と伯爵様は援助を約束し、デネンは断ったと云う話だが――。
(セロ復興の為には、莫大な金が掛かるだろう。約束は立ち消えになるのではないか……)
それもこれも、こちらやあちらが生存していたらの話だが。
「その子が、ご息女ですか」
フローチェが抱いている幼児は、彼女の腕の中でちいさな寝息を立てている。
このような状況でも眠っていると云うのは、どういう事なのだろうか?
私の視線に気付いた女魔術師は、娘を気遣うように、帽子越しに頭を撫でる。
「娘は、私が魔術で眠らせたのです。可哀想に、とっても怖かったのでしょう。このような騒動が起きて、泣き叫んでいましたから……」
「そう云うことでしたか……」
眠る娘さんは、まだ本当にちいさい。
よく見れば、うっすらと涙のあともある。
皆が笑顔でいるべき祭りの夜に怖い思いをしたのだ。悲惨というのも愚かだ。
今夜の出来事が、この幼児のトラウマにならなければ良いのだが。
思わず周囲を見回す。
幸いなことに、魔獣の姿は見えない。
この娘――フロリーナと云ったか?
彼女が目をさましたときに、恐怖を抱いて欲しくはない。
そんな風に考えていると、幼児がゆっくりと瞼をあげた。
「……ま、ぅ……?」
寝ぼけているのだろう。
目の前にある母親の服をそっと握るその姿には、恐怖の感情が見えない。
「まーぅ……。みゅー……?」
「おはよう。フロリ」
慈愛に満ちた表情で、母親が眼を細めた。
たったそれだけでも、彼女が我が子を大事に想っていることが察せられる。
「まーぅ。ふぉり、こぁーめ。うきゅ……?」
「うんうん。大丈夫よ。ママが付いているからね?」
「あきゅ……」
本来ならば、道行きを急ぐべきなのだろうが、フロリーナが落ち着くまで、待ってあげるべきだろう。
『護る』というものは、単純に身体の無事だけを意味しないはずだ。
父上は常々、「貴族の仕事とは、民草の笑顔を守ることだ」と仰っている。
それがバウマン子爵家の矜恃だとも。
「まーぅ、ふぉり、あう! あう、きゅー……?」
「うん。ここには、いないの。ごめんね?」
フロリーナは、キョロキョロと当たりを見渡している。
まるで、誰かを捜しているかのように。
「フローチェ殿。同行者は他にいないと云われたが、そうではないのですか?」
我々に遠慮をしていた可能性もある。
直截に訊いてみるのが一番だろう。
「いいえ、フレイ様。この娘の他に、一緒に行動すべき者はおりません。娘が捜しているのは、託児所で仲良くなった子供のようです」
「託児所……ですか」
聞けばフローチェは、件の魔学博士を訪ねる間、愛娘をセロの託児所に一時的に預けたのだと云う。
どうやらそこで、友だちが出来たようなのだ。
私はフロリーナに声を掛けてみた。
「こんにちは」
「――! ぅゅ……」
怖がらせてしまったのか、彼女は母親に抱きついた。
「フロリ、大丈夫よ。怖くないから」
「まーぅ。むきゅ……?」
「ええ。大丈夫」
「きゃぅ……」
母親に云われたからか彼女は、ほんの少しだけ、私を見つめてきた。
瞬間、魔術の発動を感知する。
誰が何を使ったのかなど、考える必要も無い。
フロリーナの身体が、ほんのりと輝いていたのだ。
「これは……光の魔術ですか」
「ええと……。魔術と云って良いものでしょうか。娘は不安になると、たまにこうなるのです」
防御行動の一種と云うことだろうか。
いずれにせよ、無理に近づかない方が良いようだ。
「あう……! ふぉり、あぅ! あーたぃ……」
「うん。そうね。明日になったら、ママが一緒にその子を探してあげるわ」
「まーぅ! きゅきゃーっ!」
先程までの不安そうな顔が、一転して花のように輝いた。
余程に、その友だちに会いたいのだろうな。
(友と云うのは、得難いからな……)
私は『ゾン・ヒゥロイト』に所属しており、慕ってくれる者もいるが、それでもどこかに遠慮を感じる。
おそらくは、身分差のせいだろう。
父上は常々、「良き友を持て」と云われるが、私に、それを得ることが出来るだろうか。
(彼らは、どうだろうか……)
私が一方的に巻き込んでしまった、シャーク・クレーンプット氏の血縁たち。
彼らは一度も、迷惑だとか困るなどとは云わなかった。
それどころか、見ず知らずの私に力を貸してくれた。
もしも私が望めば、『彼』は友人になってくれるだろうか。
私は思わず、フロリーナに呟いてしまった。
「キミは、余程に良い出会いに恵まれたのだな」
「あう! ふぉり、あぅ、きゅーきゃ!」
幼児は初めて、私に笑顔を振り向けた。
その身を包む光の色は、何故か淡い桜色になっていた。
転機が訪れたのは、その瞬間。
まるで一瞬だけ地震でも起きたかのように、ズシン、と大地が震えたのだ。
「フレイ様、あれを……!」
騎士のひとりが、彼方を指さす。
そこに見えたのは、『肉の塊』。
我らがいる地点よりもずっと先に、建物よりも大きな、醜い『肉塊』が見えた。
「な、何だ、あの醜悪な怪物は……!」
あのような魔物は見たことがない。
いや、そもそも、見えてなければおかしいのだ。
我らが移動する最中にあんな巨大な『球体』があれば、イヤでも気付く。
ならばあいつは、どこから来た?
「まさか、アレは、前時代の……ッ!?」
他方、フローチェには巨大な怪物に、心当たりがあるらしい。
青ざめた顔で、そちらを見ている。
「貴方はアレについて、何をご存じなのですか? 我らはこの地を守る者。場合によっては民草に代わって、魔物には立ち向かわねばならない」
しかし圧倒的な戦闘能力を持つはずの女魔術師は、ハッキリと首を振った。
「無理です! あれは、人の手に負えるような存在ではありません! 退避を第一に考えるべきです……!」
あの醜い『球体』の強さはわからない。
だが、彼女がここまで云いきるのだ。
おそらくは、途方もない怪物なのだろう。
私も。
そして歴戦の騎士たちも。
アレを見ているだけで、怖気が走った。
逃げ惑う民たちも、あのような魔物を見れば、心が砕けてしまうのではないか。
(人々を勇気づける事が出来なければ、セロは完全に崩壊してしまう……!)
妙案が何も思い付かない。
私は、無力だ。
「神よ……」
思わず呟いてしまう。
――もうひとつの転機が訪れたのは、その時だった。
瞬きの星空に、美しい文様が浮かび上がったのだ。
「あれは……! 星!? 星のような文様が――!」
それは光。
人々の心を覆った闇を払う光。
星をかたどった光が一点に集まり、ひとつの姿を浮かび上がらせた。
「な、何だ、アレは……ッ!?」
騎士のひとりが叫ぶ。
まるで『肉塊』に対抗するかのように。
夜空に巨大で奇妙な存在が現れた。
それは白。
真っ白で、目と眉だけを備えた、このような状況には似つかわしくない、ふざけた姿。
「め、メジェド……ッ!」
それは私を救ってくれた、あの少年がしていた仮装。
子供がイタズラでシーツを被っただけのような、あまりにも滑稽な形相。
(アルト・クレーンプット! まさかキミが、そこにいるのか……!?)
私の疑問に答える者はない。
夜空に浮かんだ怪人の瞳から光線が放たれ、『肉塊』に降り注いだ。
巨大な破壊音が、星空に轟いた。




