第二百六十五話 瞬きの夜に、キミと(その十五)
その男はひとり。
館の中で、ジッと姿絵を見つめていた。
(もうすぐだ……。もうすぐなんだ……)
笑っているのか悲しんでいるのか。
男の表情は、酷く複雑だった。
「にゃーん……」
男の足下に薄汚い茶トラの仔猫がやってきて、頭を擦り付ける。
「チッ! 俺にまとわりつくなと云っただろうが!」
男はネコを追い払う。
仔猫は慌てて物陰に隠れたが、そっと顔だけ出して、ちいさく鳴いた。
「クソが! 手前ェみたいな、ただの畜生なんて従魔にした憶えなんてないのによ……。いちいち俺につきまといやがって。イラつくぜ……!」
男は頭を押さえながら、壁を蹴った。
全身が軋むように痛む。
気分は最悪だった。
「全くよォ……! 今日は楽しい楽しい、お祭りの日だってのによ……!」
男は、汗を垂らしていた。
それなのに、全身がブルブルと震えている。
熱いのか寒いのか、それすらも分からずに。
酒瓶を取り出し、一気に呷る。
明らかに高級品だと思われる酒だったが、男は不愉快そうにビンを睨み付ける。
「味がしねェ……ッ! バカにしやがって!」
壁に投げつけると、酒瓶が割れた。
茶トラの仔猫が驚いて跳びずさった。
「外はよォ……。きっと俺の催し物で大歓喜なんだろうなァ……。用意した甲斐があったぜ……。へへへ、存分に楽しんでくれよ?」
男は笑っていた。
その目は血走り、澱み、濁っていた。
やがて、玄関ホールのほうから、音が聞こえた。
獣たちの咆吼。
何かを叩き付けるような破壊音。
つまり――戦闘の音。
「ほーん……。もう『ここ』を嗅ぎつけた奴がいるのか。優秀優秀。てことは、街の騎士団じゃねェよな?」
男はゲラゲラと笑う。
機嫌が直ったと思った茶トラが近づこうとして、また追い払われた。
「せっかくここまで来たんだ。出迎えてやらねぇとな?」
震えているのに、しっかりとした足取りで、男は現場へ向かった。
※※※
「くくく……。こいつは珍しい。エルフかよ」
そこにいたのは、槍を振るう美しい女。
鎧を着たエルフ。ヤンティーネだった。
彼女の戦闘能力は圧倒的で、一振りで魔獣たちの首を折り、ひと突きで獣たちを串刺しにした。
「おーおー。強ェ、強ェ……。セロの騎士団じゃないのは確定だな? 知ってたけどよ」
戦闘音を聞きつけてすぐにやって来たと云うのに、ホール内は、既に無数の魔物の死体が山積みになっていた。
そして今も、死体の山が増え続けている。
一対多で戦うと云うのは、想像以上に難しい。
単純に包囲され、一斉に攻撃される場合、基本的に打つ手はない。
だが、あの女はどうだ。
長い槍を自在に振り回し、魔獣たちをまるで寄せ付けない。
間合いに入った者は全て叩き伏せることが出来るのだろう。
まさしく、一騎当千と呼ぶに相応しい。
「貴様が従魔士メンノだな!」
女は、戦いながら男を睨み付けた。
「いやぁ? 違うぜ? 俺はこの屋敷の持ち主で、アッセル伯ダミアンと云う者だ」
男は、にやにやと笑っている。
バレバレの嘘に、エルフの女は眉をひそめた。
「まともに答える気がないと云うことだな?」
「おいおいおいおい。お前は不法侵入者だろう? そんな悪い奴に、素性を明かせるわけがないだろうが。俺は小心者なんだ」
肩を竦めて、やれやれと首を振る。
無言で投擲された短剣を、男は回避した。
「あっぶねーなぁ~……。いきなり人様に刃物を投げるとか、ありえねぇだろ。狂人か、お前は?」
「街中に魔獣を放つ貴様の方が狂人であろう!」
「えぇっ!? 街中に魔獣が!? お、おそろしい……! 今、世間はそんなことになっていたのか……! ずっと屋敷にいたから、知らなかったぜ……。矢張り、引きこもりこそ最強……!」
ホールの奥へ見える扉からは、今も獣型のモンスターが湧き続けている。
会話を続けることは無駄だと判断したエルフの女騎士は、男を排除することに決めた。
何匹目かの魔物を叩き伏せたその瞬間に、エルフの女は跳躍し、一息に男に迫った。
――が。
(躱された!? 凄まじい反射神経だ!)
商会の警備部でも、自分の不意打ちをこれ程、鮮やかに躱す者がいるだろうか?
(人間の動きではない。訓練された獣人の躱し方に似ている……)
彼女の調べた範囲での『従魔士メンノ』は、特に優れた身体能力の持ち主ではなかった。
この場所の護衛として、別人の戦士が控えていたのかと思った程だ。
だが、ティーネはすぐに、男が従魔士だと思い知る。
「くぅ……っ!?」
左右の床をぶち抜いて、熊のような魔獣が現れる。
背後からは四つ足の獣が飛びかかってきており、『この場所』が罠だったのだと理解した。
(軽口は、私をおびき寄せるためか! なかなか頭を使う!)
ヤンティーネは即座に槍を地面に叩き付け、高飛びの要領で身体を移動させ、壁を蹴って三方からの攻撃を回避した。
空中を跳躍する瞬間に、幾本もの短剣を放つ。
四つ足の獣には命中したが、矢張り男には躱され、熊の身体には弾かれた。
(ウォーベアの上位個体か。確かに、熊も嗅覚に優れていたな……!)
着地した瞬間に槍を薙ぎ、獣たちを吹き飛ばす。
ひとまず、体勢を整えることに成功はしたが――。
(それは、あちらも同じと云うことか。モンスターどもの配置が換わっている。きちんと隊列を組んでいるじゃあないか……)
魔獣と契約できるだけの従魔士は三流。
操れて二流。
自在に使いこなせて一流と云うが、『陣形』の重要性を理解して行使しているこの男は、指揮官としても突出しているのだろう。
「今まではよォ……」
魔獣たちの奥にいる男は片頬を釣り上げる。
「漠然とした攻撃命令しか出していなかったんだわ。お前、その格好なら、戦場での槍働きも、経験があるんだろう? なら、ここからは『質』が変わるのは、理解出来るな?」
統率された動き。
連携の取れた波状攻撃。
防御や陽動と云った役割分担。
隊を成した相手と云う者は、それに数倍する烏合の衆を相手にするよりも、遙かに強敵であると云えた。
「お前がどこのエルフで、何しにここへ来たのかは知らねェ……。だが、祭りの邪魔はさせねぇぞ? お楽しみは、これからなんだからなァッ!」
男が腕を振るうと共に、突撃が開始される。
それは今までの単純な『モグラ叩き』なんかではなく、時間制限付きのパズルであると云えた。
獣たちが飛びかかってくるタイミングが変わった。
誘う者。
フェイントを掛ける者。
本当に飛びかかって来る者。
その隙を狙う者。
槍の一振りで倒せた者達が有機的に躍動し、体力と精神力を削っていく。
特に巧みなのはウォーベアの運用で、威圧と咆吼を織り交ぜることで、獣のみに注意が行かないように誘導されてしまう。
人間族にとっては死の象徴とも云えるウォーベアも、ヤンティーネならば軽く屠れる。
しかしそれは、あくまで通常戦闘の場合だ。
『隊』の一員となった熊の対処は、困難を極めた。
一撃が重い相手の攻撃を喰らうわけには、いかないからだ。
「おーおー。頑張るねぇ。ガッシュなんて目じゃねーじゃん。強い強い」
従魔士はパチパチと手を叩く。
今この瞬間にも、増援たちは湧き続けている。
それらは戦闘に参加する者もいたが、ヤンティーネをあざ笑うかのように素通りし、街中へ放たれていく者もいる。
男におちょくられているのは、明白だった。
(魔術さえ、放てればな……)
ヤンティーネは歯がみする。
全てを吹き飛ばす強力な魔術を一撃でも放てれば、隊を崩壊させることも出来るはずだが――。
「くっくっく……。詠唱なんてさせるかよ」
男の指揮する魔獣たちの動きは、的確で陰湿だった。
魔術を構築する間も与えるつもりが無いらしい。
「魔術師なんて詠唱ありきの存在は、乱戦じゃ役にたたねぇ……。前衛に護って貰えないと何も出来ない存在だ。そしてエルフは魔力特化であって、蜥人や獣人のように身体能力特化じゃねぇ……」
ハイエルフである彼女の身体能力は、決して蜥人や獣人にも引けを取らない。
だが、それを十全に発揮させない男の指揮能力も、また脅威だった。
従魔士と統率者。
せめてどちらか一方でも欠けていれば、自分が圧勝出来たものを。
そう考えたヤンティーネに、男は笑ってみせる。
「云っておくがよ。まだ俺自身は、戦闘に参加してもいないんだぜ?」
それがハッタリでないことを、彼女は理解している。
どこかから、仔猫の鳴き声が聞こえた気がした。




