第百七十一話 ある老人との邂逅
それは、俺が離れの庭で、薬草の手入れをしている時のことだった。
愛する妹様は、母さんと一緒にハンモックでお昼寝中。
エイベルは不在。
つまり、俺ひとりきりの時間だ。
「お前がアルトか」
唐突に、背後から話しかけられた。
西の離れにいるメンツは大体同じである。
だから、聞いたことのない声に驚いてしまったのだ。
そこに、背の高い老人がいる。
ピンと背筋の伸びた、圧力のある姿。
シルエットだけなら、きっと誰もが老人とは思えないに違いない。
ヒゲを生やしていないからか、若々しい印象がある。
その服装は品がありつつも落ち着いたもので、まさに『自然に着こなす』と云う言葉が相応しい姿だった。
ただし、眼光は鋭い。
油断ならぬ人物なのは、一目で分かる。
この男の俺の第一印象は、年老いたマフィアのドン。
チンピラらしさの一切無い、暗黒社会のボスのような風格がある。
(こいつは……!)
会ったことがないのに一目で誰だか分かり、気分が悪くなった。
俺は雑草を引っこ抜きながら答える。
「人に名前を尋ねる時はどうすればいいか、お母さんに教わらなかったんですか?」
「私の母親か。父親の別の女に毒殺されたから、そんな話はしなかったな」
俺の無礼な態度に怒った様子もない。
淡々と物騒なことを口にした。
「そうですか。ご愁傷様です。でも、それは名乗らなくて良い理由にはなりませんよね?」
「母親のことを引き合いに出したのは、お前だろう。私は、それに答えたにすぎん」
男は俺を見おろし、それから皮肉げに笑った。
どこか人を小馬鹿にしたような笑みだったが、それでも品がある。
「ふん。あの腰抜けの息子とも思えぬ、大した胆力ではないか。性格面では、母親に似たのか」
「ま。どちらに似たいかと云われれば、それは母さんに決まっていますがね。それで、貴方は、どこのどなた様ですか? 知らないなら教えてあげますが、ここは、どこかの偉い侯爵様の敷地らしいですよ?」
「私が誰だか分かっていて、その態度か。良いだろう。諧謔の才覚はあるようだ」
矢張り、怒らない。
たぶん、バカでもない。
俺の態度をものともせず、男は厳かに名乗りを挙げた。
「私はカスペル。カスペル・ロンバウト・エル・ベイレフェルト。この屋敷の、持ち主だ」
「そうですか、ちっとも知りませんでした。では初めまして。アルト・クレーンプットと申します。貴方とは一切血の繋がらない同居人と云った所でしょうか」
「天才と云うのは、本当らしいな。ただし、保身の大切さは知らぬと見える」
「ああ、阿諛追従がお好きな方でしたか。それは大変、失礼しました」
俺が形ばかりに頭を下げると、老人――カスペル侯爵は鼻を鳴らした。
「我がベイレフェルト家にも、跡取りが産まれた。まあ、子供は流行病ひとつでコロリと逝くから、安心は出来んがな」
つまり孫を見に来て、ついでに妾の子供も見ておこうと思ったのか。
異母妹、イザベラが生まれた時は現れなかったから、矢張り男児と云うことが重要だったのだろう。
「お前は、その歳で六級魔術師であるらしいな。軍隊なら、既にいっぱしの戦力だ。生意気な態度は、それ故か」
「冗談でしょう? 俺程度の実力で、調子に乗れる訳がない。そもそも、個は群に勝てません」
母さんを虐めている家の元締めだからな。
好きになれと云うのは、無理がある。
「成程。では、その態度は、私がアウフスタの父親だからか」
カスペル老はニヤリと笑った。
態度の悪いクソガキの動機に思い至ったらしい。
「別に態度を改めろと云うつもりはないが、貴族社会において、アレのやっていることは、まだマシな部類だぞ? 妾やその子供は、さっさと売り払うか処分する。そういう家に比べればな」
「聞くに堪えませんね。ゲロはクソよりマシである。貴方が云っているのは、そういうことですが」
「そうだな。アウフスタは、あまり出来の良い娘ではないな。男を見る目も含めてな」
あまり家族の情愛を大切にするタイプの人間ではないらしい。
気に入らない。
「出来が悪いと云うのなら、きっと親の質が悪かったんでしょう。一度見てみたいなァ、あの夫人の父親を」
「成程。矢張りお前は、家族というものを大事にする性格らしいな。大いに参考にさせて貰おう」
嫌な爺だ。
俺の発言に怒ることもなく、逆に何を大切にしているのかを、見抜かれた。
「そう睨むな。現状、お前は我が家にとっては利用価値の方が勝る。潰すつもりはない」
「利用? 妾の子供を、利用するつもりですか」
「別に、お前に限らんよ。利用出来るものは、何でも利用する。不要ならば、処分する。それだけの話だ」
「ご立派です。侯爵家の屋台骨は、さぞ頑強堅固なんでしょうね」
「くくく。すぐにそちらに思考が至るか。面白い子供だな」
蛙の面に水とは、まさにこの事か。
悪口など、云われ慣れているのだろう。
カスペル老は鋭い眼光で、俺をマジマジと見つめている。
ただの子供から、興味の対象へと変わってしまったようだ。
「アウフスタは娘のイザベラを天才だと褒め称えていたが、成程、あれは単なる親バカが原因ではないな。すぐ近くにこんな比較対象がいれば、歪まずにはおられんか。母子二代にわたって、あれを悩ませるか」
「勝手に悩んでいる、の間違いではないのですか?」
「そうだな。お前が一方的に、私を敵視するのと似たようなものだろう」
「…………」
俺が黙ると、背筋の伸びた老人は、顎に手を当て、考え始めた。
「さて。そうなると、我が跡取りは、どうするべきか。王都で教育させれば良いと考えていたが、ここにいては、常々、お前と比較されるであろうな。いっそ、我が領地へ連れて行くか」
クソ爺。そのまま地の果てにでも引っ込んでいろよ。
「そう睨むなと云っただろう。役に立つ限り、お前は私の敵ではないと云ったはずだ」
「役立たずはいけませんか」
「当然であろう。役に立たぬ者は、消え去るべきだ」
「そうですか。なら、まずご自身が率先して消え去っては如何ですか?」
「ほう。何故、そう結論付ける?」
矢張り怒らない。それどころか、老人はニヤニヤと笑いながら、俺の暴言の意味を質してくる。
「……役に立つだの、立たないだのは、『人間世界の貴族社会』のような、ゴキブリのクソにも劣るような、ちいさな範囲に適用すべきものではないからです。世界そのものに対して貢献できるかどうかの視座で語るべきでしょう」
「ほほう?」
「翻って見てみれば、ベイレフェルト侯爵家なる貴族が世界の役に立ったと云う話は、聞いたことがありません。宮廷事情やコップの中の嵐に汲々としているだけの無用な存在です。ならば、その首魁こそが役立たずとして消え去るべきでしょう?」
「くく、成程。一理あるな。しかし、その理屈だと、大半の人間は消え去らねばなるまい。お前は役立つ人間の側として、そんな世界で生存出来るつもりかね?」
「命数のない老人よりは、可能性があるのでは?」
「くくく、可能性か。良い逃げ口上だ。いくらでも棚上げに出来るな」
老人は振り返った。
秘書のような、付き人のような、そんな人物がやって来ている。
こんな男でも、きっと忙しいのだろう。
「お前と云う人間を知れたのは、幸運だった。まだ喋れぬ赤子に会うよりも、ずっと有意義な時間だったぞ。――そのまま才を伸ばすが良い。役に立つなら、存分に利用してやろう」
「お断りします。あんたに利用されるなんて、真ッ平です」
「それを決めるのはお前ではない、私だ。私のための駒となるか、無用有害として処分されるか。お前たち家族の行く末は、このふたつの、どちらかしか無いと知れ」
ああ、うん。ダメだ。
俺はこの爺さんを、好きになれそうにない。
先入観でなんとなく嫌っていたが、今日のことで確定した。
(俺は、対応を誤っただろうか)
バカな子供の振りでもしておけば良かっただろうか?
いや、この男なら、きっとそれを見破っただろう。
表面上だけでも友好的な対応を取ったとしても、また。
「いい目だ。忠実でも木偶でしかない部下よりも、自分の力で生きようとする者を、私は評価する」
「いりませんよ、あんたの評価なんて」
「くくく……。また会おう」
老人は最後まで感情を激発させることはなく、余裕の笑みを浮かべたまま去って行った。
(ああ、ちくしょう。嫌な爺さんだ)
もっと愚かで、欲深で、感情の制御が下手くそな男だったら、きっと与しやすかったのに。
アウフスタ夫人に鼻面を取られて引き回されている親父殿では、決して対抗することは出来ないだろう。
援護射撃は期待するだけ無駄だろうな。
ほんの短い時間の遣り取りだったのに、俺は酷く、くたびれていた。




