第百六十九話 しっぱいがーでなー
「ずびば、ずびばぜぇええええええええええええええええええんんんんんんんんん!」
西の離れの客間に、エルフの泣き声がコダマしている。
初めて見るエルフだ。
連れてきたのは、おなじみショルシーナ商会のトップたる、ハイエルフズ。
簡単な遣り取りは『イーちゃん文通』で済むし、何かあってもヤンティーネが言づてや物資の運搬をしているので、このふたりがやって来るのは、異例と云える。
特にショルシーナ商会長は忙しいので、重要事でやって来るとしても、ヘンリエッテさんが担当するはずなのだ。
それなのに、商会長まで我が家に現れるとは……。
「エイベル様、本当に申し訳ありません……!」
大泣きしているエルフの頭を抑えながら、商会長まで平伏している。
ヘンリエッテさんは――いつも通りだな。
柔らかい笑顔で、こちらを見ている。
「びゅあおあおおあ! あえう゛ぃぃえあおおおおおおおおおおおおおお!」
初見のエルフは判別不能な言語を叫びながら額をこすりつけているが、俺には何があったのか、サッパリ分からない。
「エイベル、何があったの? 凄い声だけど……?」
お昼寝中の妹様が起きてしまう、とまでは、流石に云えないが。
エイベルは俺に振り返り、いつも通り、淡々と事実を告げる。
「……ん。この娘が、水瓶を壊した」
「水瓶?」
何だろう、重要なものなのかな?
たぶん、そうなのだろう。
でなければ、こんな光景が繰り広げられるわけがない。
するとヘンリエッテさん。俺をちょいちょいと手招きする。
近寄ると――。
「ふふっ。久しぶりですね、アルくん?」
膝の上に乗せられてしまった。
何かエイベルが無表情のまま固まったんですけど?
ヘンリエッテさん、高祖様の変化に気付いてますよね?
え、それでも、俺を降ろさないんですか?
そうですか。
「あの、事情を訊いても?」
仕方ないので、そのまま副会長氏に話しかける。
エイベルは――ずっとこっちを見ているな。
「そうですね、簡単に云えば、そちらのハイエルフ――ヒセラと云うのですが、彼女が高祖様の水瓶を割ってしまったんですよ」
エイベルの説明まんまだな。
てか、ヘンリエッテさん、何でそんなに、にこやかなんですかね?
「貴重なんですか、その水瓶」
「大変に貴重ですよ? 土精の作ったものですからね。あれ程のものは、ドワーフでも難しいかと。けれど問題なのは、水瓶の中身ですね」
え。
土の精霊が作った品よりも貴重なものが、中に入っていたのか?
まあ、水瓶と云うくらいだから、液体なのかな?
たとえば、エイベルの作ったポーションが入っていたとか。
それなら、この大騒ぎも頷けるのだが。
「いえ。中に入っていたのは、水――です」
「水ですか」
薬液ではなく?
まあ、きっと、それでも貴重なんだろうけれども。
俺の言葉に、商会長がこちらを向いた。
「入っていたのは、聖湖の湖水です」
おお、聖湖。
たま~に会話に出てくる、あの聖湖か。
「アルト様は、聖湖をご存じなのですか?」
「そこにまします、魔術と学問の先生に習っております」
聖湖。
それは、この世界であって、この世界ではない場所。
聖域のひとつに存在する、幻の湖。
その湖水は世界で最も美しいと云われる程に澄んでおり、聖湖とその周辺地域は、この世で最も清浄な土地のひとつに数えられていると云う。
聞いた話では、聖湖を管理しているのは、水の聖霊なのだそうだ。
主な住人は水精と樹精。
そして、妖精種の『コロボックル』。
彼らは人間のように無秩序に暮らしているのではなく、数少ない聖域を維持し、より良いものにするべく、湖の聖霊に仕え、働いているのだとか。
まあ、普通の人間にとっては、完全におとぎ話の世界だわな。
(しかし何だ。そりゃあまた、凄いことをしでかしたんだな、このハイエルフ)
土精の作った水瓶を壊し、聖湖の湖水をぶちまけたってことだからな。
確か『氷雪の園』の総族長、スェフの持つ宝物のひとつが、『聖湖の大結氷』であったはずだ。
大精霊の視点から見ても聖湖の湖水は宝物に該当するのだから、その価値は計り知れない。
「うぇおえおえお、えう゛ぁああああああああああああああああ!」
ヒセラと云う名のハイエルフは、もうずっと泣きっぱなしである。
「エイベルは、その水を何に使っていたの?」
「……アル、いつまでヘンリエッテの膝に座っているつもり?」
えっ、そこ?
大切な瓶と湖水が、なくなったんでしょう?
仕方ない。降りるか。
「アルくん? 暴れるのは、めっ! です」
降りれん……。
離してくれん……。
エイベルは無表情。
ヘンリエッテさんは笑顔で、それぞれ黙り込んでいるので、ショルシーナ商会長が、俺の質問に答えてくれた。
「エイベル様の聖湖の湖水の使い途は、大きく分けて、ふたつです。ひとつは一部の薬品精製ですが、こちらはご自身の所持される異次元箱から使用しているようなので、今回の被害とは、直接関係ありません。そしてもうひとつが、庭園の草木育成のための水やり用ですね。割れた瓶は、こちらのものになります」
「えっ。貴重な水を、植物に使っているの?」
「貴重な水だから、ですね。たとえば神代の植物などは、通常の水では、どれ程綺麗で魔力を含んでいようと、それだけでは育成が難しいのです。聖湖の湖水にエイベル様が手を加えて、やっと適応します。人間世界の農業や盆栽用語でも、『水やり三年』と云われるくらい、水の取り扱いは難しいのです。そして、それ程の水ですから、単なる水瓶では劣化や変質を防げません。保存には、相応の品が必要となります」
それで、ドワーフ以上の存在。精霊の作った水瓶か。
人間世界なら、伝説級のアイテムになるのかな?
なんか、凄い話を聞いたぞ。
今回失われたものって、途方もない価値なのでは。
「ごうぞざまあああああ、ずびばぜんですううううううううううううううううううううううううううううう!」
商会長の言葉を聞いて、ヒセラは更に大泣きしてしまった。
こういうのって、どうなるんだろう?
罪に問われたりするのだろうか?
「水瓶を破損した者を罪に問う、などという明確な法律はありませんが――」
商会長は、土下座エルフを見つめる。
「失われたものの価値を考えると、手討ちにされても、やむなしかと。少なくとも、ハイエルフの里ならば、間違いなくそうなるでしょう。しかもそれが、エイベル様――我らエルフ族の、高祖様の品ともなれば」
「びえええええええええええええええええええええええええええええええ!」
う~ん、大ごとだ。
その割りには、エイベルが気にしているようには見えないけれども。
と云うか、ずっとこっちを見ているな。
「…………」
エルフの高祖様は、静かに指を振った。
すると窓際にある鉢植え――ミアが「あったほうが華やかですよー。落ち着きますよー」とか云って、勝手に置いたものだ――がスルスルと伸びはじめた。
これはエイベルの行使する特殊魔術、植物操作だろう。
鉢植えからはツタが発生し、ヘンリエッテさんから、俺を奪い取った。
そして自分の傍へ引き寄せると、もう一度、指を振る。
ツタは根本からぷつんと切れて、元の普通の鉢植えへと変化した。
つまり、なんだ。
俺の居場所が変わっただけなんだけどね。
「……故意に壊したのではないなら、怒っても仕方がない。ヒセラの罪を問うつもりもない」
エイベルは何事も無かったかのように土下座エルフに話しかけている。
……俺を移動させた意味がない気がするんだが。
「ヒセラさんって、商会の職員だったりするの?」
「いいえ。彼女は、羨ましくも、エイベル様が直々に雇っているガーデナーです。アルト様もご存じだとは思いますが、エイベル様は貴重な植物をいくつも所持し、育成しています。その世話をするために、エルフの中でも植物の世話に高い適性を持つ者が、幾人か採用されているのです」
ガーデナーってのは、ようは庭師のことだね。
そして商会長、小声で「私にも、植物魔術の適性があれば……」と呟くの、怖いです。
「こ、高祖様ぁっ! この私を、許して下さるのですかぁっ!?」
「……一度くらいなら、仕方がない。瓶の手持ちはまだある。湖水に関しては、春の世話に備えて、また補充する必要があった。初めから、近々、貰いに行くつもり」
ちらりとエイベルは俺を見る。
そう云えば、春になったら一緒に庭園に行くって約束をしたからな。
いつになるんだろう?
来月の五級試験の後とかかな?
(しかし、これでヘンリエッテさんが焦っていない理由がわかったぞ。この人、最初から水瓶の在庫や、水を貰いに行くことを知っていたんだな。それに、エイベルが怒らないことも)
副会長様を見ると、柔らかく微笑まれてしまった。
そして――再びの手招き。
何これ。
俺はどうすればいいの?
「……アル」
エイベルは、ちいさく呟く。
窓際の鉢植えが、再び蠢いていた。




