第百六十七話 洗濯日和
神聖歴1205年の三月。
ベイレフェルト侯爵邸が、バタバタと慌ただしい。
理由は簡単。
侯爵家『唯一の正夫人』であるアウフスタが、出産間近なのである。
どこかの妾の子供が生まれる時とは大違いに、邸内全体が浮き足立っている。
そしてその出産と、我がクレーンプット一家が暮らす西の離れは無関係かと云えば、そうでもない。
本館で忙しい分の人員は、この西の離れから補われる。
つまり、人手が減る訳だ。
殆ど使っていない部屋を一時的に封鎖するのは良いとしても、
「あまり洗濯物は出さないで下さいね。貴方達に仕事を増やされたら、たまったものではありませんから。立場を弁え、ジッとしていて下さいよ?」
と、おばちゃん使用人に云われた時は、流石にちょっとムッとしたが。
我が家の妹様は、毎日、どろんこになって遊ぶ。洗濯物は、どうしたって出てしまう。
お風呂にも毎晩入る。
自分の分はともかく、この辺は譲りたくない。
「ああ、それなら、お母さんがやるわよー?」
我が母、リュシカ・クレーンプットは、人手不足による洗濯問題を、自分で動くことで解決することにしたようだ。
この辺は、平民の家庭に生まれたことの利点と云えるだろう。
働くことに抵抗がないし、洗濯の仕方も知っている。
「俺も手伝うよ」
母さんだけに押しつけるわけにもいかない。俺は挙手をした。
とは云え、流石に手作業での洗濯はした経験がない。
日本の洗濯は、洗剤と柔軟剤を入れてボタンを押すだけだったからな。
ただ、この世界にも、便利な部分はある。
それは、魔術があることだ。
水くみも乾燥も、魔術で簡単にできる。
目下練習中の『浄化の魔術』も役に立つはずだ。
「あら? アルちゃんも手伝ってくれるの?」
「今後も、こんな事がないとは云いきれないからね。覚えておくに、しくはないよ」
アウフスタ夫人があの気性で、我が父、ステファヌスがあの調子である限り、追い出される可能性はゼロではない。
いい機会だと考え、普段出来ないことを学ぶとしよう。
「やーん! だからアルちゃん好きー! じゃあじゃあ、お母さんと一緒に、お洗濯をしましょうねー?」
「ふぃーも! ふぃーもやる! 洗濯、ふぃーも覚える!」
元気よく手を挙げる妹様。
洗濯に興味があるのではなく、ひとりになるのがイヤなのだろうな。まあ、それを指摘するような無粋はしないが。
「じゃあ、家族みんなで、お洗濯をしましょうか!」
「おー!」
声を揃えて拳を天に突き出すクレーンプット一家。我が家は皆、仲良しなのだ。
※※※
「あああ、これは楽ね~……! 贅沢だわー!」
母さんが目をキラキラさせて喜んでいる。
手作業で洗濯をする場合は、水くみと、そして水の冷たさが敵となる。
三月は、まだ寒い。
キンキンに冷えた水に手を突っ込むなど、自殺行為だ。
母さんやフィーに、そんなことをさせる訳にはいかない。
そこで役に立ったのが、『お湯の魔剣』。
入浴用に作成した、なまくらウェポンを流用したのだ。
普通、温水で洗濯なんてしないだろうからな。贅沢と云う母さんの感想も頷ける。
「ふへへ……! お湯、気持ちいい! ふぃー、お風呂好き!」
マイエンジェルも、おかげで遊び感覚で洗濯に挑めているようだ。母さんとキャッキャッ、キャッキャッと、はしゃいでいる。
はじめての洗濯を楽しめているようで何よりだ。
「むむ~~っ? なんだか、楽しそうな波動を感じますよ~~?」
そんなことを云いながら洗濯場に入ってきたのは、臨時の助っ人として本館に駆り出されているはずの駄メイドだった。
「何でミアがここにいるのさ? 戦力外通告でも喰らったの?」
「失礼ですねー。私程、有能なメイドさんは、そうそういませんよー?」
どこの異世界の話ですかね、それは。
「忙しいから、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。ミアお姉ちゃんは、東奔西走真っ最中なわけですよー?」
「それで、どうしてここに? ミアも洗濯するのか?」
「だから云ったじゃないですかー。楽しそうな気配にひかれて、ここへやって来ただけですよー」
本当に忙しかったら、そんな暇はないと思うのだが。自分でおかしいと思わんのだろうか。
ミアは俺たち家族を見渡して、つまらなさそうに吐息した。
「しかし、やって来てみれば、なんだか普通に家族で楽しんでいるだけですねー。水に濡れたアルトきゅんの姿を期待していたんですが。……前髪から滴る水滴。肌に張り付いて透ける衣服。ぎゅ、ぎゅふふふ……!」
お湯に触れているのに、寒気がするわ。悪霊退散、悪霊退散!
「変な妄想なら、表へ出て壁にでも向いてやっててくれ。洗濯の邪魔になる」
「酷いですねー。傷つきますねー。せっかく本館へ行ったので、アルトきゅんに頼まれていた白い布を持ってきてあげたんですけどねー」
「えっ、本当!?」
思わず立ち上がってしまった。
ダメもとで、いらないシーツとか手に入らないか相談していたんだよね。あれば色々遊べるし。
「本当ですよー? でも、ミアお姉ちゃん、心ないセリフに傷ついてしまいました。これはもう、布は手に入らないかもしれませんねー」
ぐっ……。
こいつ……!
駄メイドは、これでもかと云わんばかりのドヤ顔をしていた。
まさか脅迫などという、卑劣な手段を取ってくるとは……。
しかし、フィーの為にも、布は欲しい……!
「……何が……望みだ……?」
「ぬふふふふふ……。素直なのは、良いことですねー。では、今後ずっと、私のことは、ミアお姉ちゃん、って呼んで欲しいですねー。あと、アルトきゅんの一人称は、『ボク』にすべきだと思いますねー」
「あ、布は結構です。お帰り下さい」
シーツは欲しいが、そんなもののために悪魔に魂を売り渡す程、俺は落ちぶれてはおらんわい。
「何でですか! そこは屈して下さいよー!」
聞こえん、何も聞こえん。
もうミアはいないものと考えて、俺はマイシスターに振り返った。
「フィー、洗濯が終わったら、シャボン玉を作って遊ぼうか?」
「シャボン玉!? それ、フィー、知らない! 雪だるまみたいの作る!?」
石鹸とかある世界だからな。シャボン玉で遊ぶことも出来る。
輪っかは――工房にそれっぽいのを探しに行くとするか。
しかし、外で遊ぶとなると、また洗濯物が出てしまう気がするな。
「あら、良いわね。お母さんも、久しぶりにシャボン玉で遊びたいわー」
大きい子供が乗っかってきた。話にも、物理的にも。
頭の上に双丘を乗せられると、柔らかくめり込んで、視界の一切が塞がれてしまう。
我が母ながら、本当にでかいな……。
「おかーさん、ズルい! ふぃーも! ふぃーも、にーたに抱きつく!」
妹様が駆け出す気配がし、次いで、どんがらがっしゃーんとタライやらなにやらが、ひっくり返った音が響いた。
「みぎゃーーーーーっ! 目に、目に石けん水が入りましたよー!? 助けて欲しいですねー。誰か、私を助けて欲しいですねー!?」
のたうちまわる駄メイドを気遣う人間は、どこにもいない。
こうして、我が家はいつも通り、騒がしくも楽しく過ごした。
二日後。
アウフスタ夫人は、男の子を出産した。




