第百三十七話 トルディ・ノート(その十二)
アルト・クレーンプット。
まるでぶらぶら歩きでもするかのような気楽さで現れたのは、まだ五歳でしかない少年でした。
彼は気負った様子もなく、私たちを見ています。
(まさか、アルトくんは状況が分かっていないのでしょうか!? いえ、彼は子供とは思えない知能があります。現状を理解した上で、あの態度なのだとしたら……?)
しかし、目の前にいる、ふたりのエルフは危険な存在です。
幼い少年だとしても、見逃して貰えるかどうか……。
「ほーん。こんなところに、人間の子供かよ。なあ、タルフス。このお客様を、俺たちは、どうもてなせばいいと思う?」
「人払いの結界をくぐり抜けてきたのですから、ただ者じゃあないんでしょうね。或いは、何かの偶然で、たまたまここへ来てしまっただけなのかもしれませんが。どちらにせよ、結論は同じでしょう」
「な……ッ!」
私は思わず声をあげてしまいました。
顔を見合わせたふたりのエルフは、躊躇無く詠唱を開始したのです。
信じがたいことでした。
そして、許せないことでもあります。
子供を手に掛ける。
それだけは、決してやってはならないことです。
私は大急ぎで詠唱を追いかけます。高速言語ならば間に合うはずです。
アルトくんを守ってあげなければなりません!
しかし当のアルトくんは、
「トルディさん、貴方、良い人ですね」
私の術式の意味を理解しているのか、そう云ってかすかに笑いました。
その笑みは落ち着きすぎていて、この場には、あまりにも不似合いでした。
「小僧、運がなかったな。目撃者ってのは、老若男女、区別はねェ」
「……ガラの悪いエルフだな。エルフ族自体には良い印象があるから、こういうのは困るんだけどな」
炎に変換された魔力が、発射の態勢を取っています。
それなのに、アルトくんは慌てた素振りを見せません。
異常なことです。危機感を抱かないと云うのは。
もしや彼は、どこか精神的に壊れているのではあるまいかと、不安になってしまいます。
魔壁を破壊する威力の火球が当たってしまえば、大人でも大怪我は免れません。いえ、おそらく、死んでしまうでしょう。
それが、向けられようとしているのです。
私は急ぎ防壁を展開しようとしましたが、
「邪魔はやめて貰いましょうか!」
「う……ッ!」
もうひとりのエルフが、こちらに魔術を放ってきました。
私はそれを防ぐので手一杯です。
(いけない! アルトくんを守らなくてはならないのに……!)
このままでは間に合いません!
そうこうしているうちに、幼い子供めがけて火球が放たれようとして――。
「――な!?」
フッと。
文字通りに、フッと、火球は消滅してしまいました。
まるで初めから、そんなものなど無かったかのように。エルフの魔術は、かき消えてしまいました。
信じられません。
あり得ないことです。
魔術は防ぐことは出来ます。
妨害することも可能です。
ですが、すっかり消してしまうなど、聞いたことがありません。
「こ、これは一体……ッ!?」
エルフの男は、激しく動揺していました。
当然でしょう。こんなこと、魔術の常識では、あり得ません。
「くッ……!」
男性はもう一度、詠唱を開始しますが。
「で、出ねェ……ッ! 魔力が出ねェェェッ! バカな、こんな……! こんなことが……! 手前ェッ、何をしやがった!?」
「…………」
アルトくんは何も答えませんでした。
それはそうでしょう。手の内を自ら明かすような魔術師はいません。
言葉のかわりに、彼の掌には、音を伴い、明滅する雷光が現れました。
(雷絶……!? 高難易度の雷系魔術を、当たり前のように……!)
彼は魔力の変換に、言の葉を必要とはしません。それが自然であるかのように、詠唱なく魔術を行使します。
無詠唱の魔術の放出は、正面からであっても、不意打ちに近いのです。
我々魔術師は、詠唱が当然と云う認識を持っています。たとえば戦士が剣を振らずに斬撃だけを飛ばしてきたら、多くの人間が対応出来ないはずです。
彼が成すことは、その領域なのでした。
「くッ……! おぉおぉおおぉぉぉおおおおぉぉぉぉッ!」
だから寧ろ、あのエルフの男性が突如として発生した雷絶を躱してのけたのは、褒められるべき事なのだと思います。
ガラが悪く、残忍であろうとも、ある種の実力者であったことは間違いありません。
――しかし。
「ぐッ! がああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
回避した瞬間、エルフの男性は雷絶を喰らい、叫び声をあげて倒れ伏しました。
何故命中したのか不可解だったことでしょうが、彼はそれを認識できたかどうか。
しかし、前に『同じこと』を体験した私には、それがなんなのか、わかりました。
曲がった、のです。
アルトくんの放った雷撃は、男性が回避した瞬間、その方向に向かって軌道が変化しました。
だから、躱したのに喰らってしまう。
(追尾? それとも、別の何かですか!? あんなもの、誰が回避出来るのでしょうか!)
雷光の大きさと輝きの強さから、充分以上の威力があったことが分かります。
あの男性は、暫くは無意識世界の住人となるでしょう。
一瞬でした。
全てが一瞬のこと。
不可解な能力と図抜けた実力で、アルトくんはエルフの襲撃者の片割れを、いとも容易く無力化してのけたのです。
私に火球を放って牽制をしたもうひとりのエルフが体勢を立て直す前に、『ふたり組』というアドバンテージは、瞬く間に消滅したのでした。
「ふ、ふふ……。信じられませんねぇ」
残ったエルフ――確かタルフスと呼ばれた丁寧口調のエルフが、引きつった笑みを浮かべました。
「何ですか、今のは。魔術が消えたことも不可解なら、軌道が変化したことも不可解です。いえ、不可解と云うならば、人払いの結界があるこの場所へやって来られたことが、そもそもからして、おかしいのです。貴方は一体、何者ですか?」
「いや、女の子ふたりを襲うような変質者に、身元を説明するわけないでしょ」
その瞬間、細面のエルフの顔が、怒気一色に染まりました。
アルトくんからの評価は高貴なエルフなんかではなく、『ただの変質者』と云う散々なものでした。
タルフスは怒声をあげ、詠唱を開始します。
怒り狂っていても紡がれる言葉は流暢で、挑発によって魔術を妨害しようというのであれば、それは失敗と呼ぶしかありません。
しかしアルトくんはたぶん、そんなことは狙っていなかったのだと思います。
ただ単に、辛辣な拒絶をしただけで。
幼い少年は手をかざそうとします。
魔術を使おうとしたのだと思いますが、その瞬間、エルフの手元が煌めきました。
(投擲――ッ!)
無数の短刀を、アルトくんめがけて飛ばしたようです。
危ない!
と私は叫びそうになりました。
無詠唱が不意打ちなら、このアクションも間違いなく不意打ちでしょう。
しかし短き刃がちいさな魔術師に届くことはありませんでした。
まるで何かに迎撃でもされたかのように、全ての短刀は空中で弾かれ、力なく墜落したのです。
「な、何ですってッ!?」
タルフスは激しい動揺の色を見せました。
それはそうでしょう。私にも、何が起きたのかはわかりません。理解不能の状況ばかりです。
エルフの襲撃者は、跳躍しようとしました。
相手の手札がわからない以上、距離を取る方が安全だと思ったのでしょう。その判断自体は正しいものだと、私も思います。
けれど、彼の跳んだ距離は、あまりにも短いものでした。数歩分もありません。
「ば、バカな……ッ!」
その狼狽から、おそらくは身体強化の魔術を使っていたのだと推測出来ました。
そして、その自己強化の魔術は、きっと『消えて』しまったのだと。
タルフスは理解出来ぬと云う表情を浮かべ――その顔のまま、気を失っていました。
跳躍し、バカなと声をあげた瞬間に、アルトくんの放った魔術が命中していたためでした。
「つ、強い……ッ! な、何なのかな、あの子は」
トロネさんが、絞り出すかのように呟きました。
それは、私も含め、気を失ったエルフたちとも共通した認識だったことでしょう。
――異次元。
何もかもが理解の外で、彼が成したことの理屈が分かりません。
ただひとつ分かったことは、この幼い少年は、おそらくは『魔術師の天敵』。
対・魔術戦で猛威を振るう、『魔術師殺し』とも云うべき能力を備えていると云うことだけでした。
彼は、周囲を見回していました。
そこには驕りも慢心もなく、警戒の色だけが浮かんでいます。
これだけ一方的に勝利してなお、それを確定したものだと思ってもいないようでした。
「俺、探知系の魔術は、まだまだ苦手で……。目視頼りって、ぶっちゃけヤバいよなァ……」
ちいさく呟き、肩を竦める姿は、とても勝利者には見えないものでした。




