第百二十一話 母さん、風邪を引く
「くちゅんっ!」
西の離れの二階に、可愛らしいくしゃみが響く。
出所はマイマザー。
現在の状態は風邪。
効果音を付けるとしたら、さしづめ、どよ~ん、だろうか。
「うううぅぅ~~。寒いわ~。怠いわ~。ツラいわ~。くちゅんっ!」
まあ、喋る余裕くらいはあるようなので、そこは一安心。
今現在、母さんがいるのは二階の客間。フィーの誕生日を祝った部屋だ。
ここは普段は使用しないので、母さんは自分の病室に指定した。
「アルちゃん、今のお母さんに近づいちゃ駄目よ~? うつっちゃうから。ううぅぅ~~。自分で云っていて、悲しいセリフ……。愛する息子に近づけないなんてぇ~」
つまりは、俺やフィーを気遣っての移転であるらしい。
まあ確かに、俺は兎も角、マイシスターを危険にさらすわけにもいかない。心情的には、看病してあげたいのだが。
「大丈夫ですよ、アルトきゅん! お義母様のお世話は、このミアお姉ちゃんにお任せですー!」
うん。『お義母様』ってのは何かな?
あと世話をしてくれるのはありがたいけど、風邪をうつされて、自分が話のオチにならないようにな。
「はぁぁ……。アルちゃんを抱きしめたい。フィーちゃんをなでなでしたい。エイベルに頬ずりしたいわ~……!」
日課だもんなァ、それ。
最近はエイベルも抵抗を諦めた感がある。
虚ろな目をして、されるがままになっている姿を、よく見かける。
くちゅん、くちゅん、ずず~。
病室となった客間からは、そんな音が響き続ける。
「にーた、にーた。おかーさん、ぐあいわるい?」
俺と一緒に廊下から室内を覗き込んでいた妹様が、くいくいと袖を引く。
当家の天使様は元気いっぱいで身体も丈夫だ。
幸いなことに、今まで一度も風邪を引いたことがない。
俺のほうは三歳の時に一度寝込んだことがあるくらいだ。
あの時の俺は、エイベルの煎じた薬を飲ませて貰って回復したものだ。
放置路線であるクレーンプット家には、薬なんか置いていない。
……いや、一般庶民の家もそうだな。
常備薬があると云うのは地球の常識だ。その辺、気を付けねばいけないのかもしれない。
俺は妹様の頭を撫でる。
「フィーは健康で良かったよ」
「ふぃー、にーたといれば、いつでもげんき! にーたが、ふぃーのかつりょく! ふぃー、にーたがすきッ! だっこ!」
活力とか意味知っているのかな?
まあ、無邪気に抱きついてくるんだから、本能で理解しているのだろう。
「ほら、フィー。だっこだぞ~?」
「ふへへ……ッ! ふぃー、にーたのだっこすきッ! だきごこちすきッ! なでて!」
しがみついてきたマイシスターを抱き上げて頭を撫でていると、廊下の向こうからエイベル先生がやってきた。
手には小瓶を持っている。
「……アル、リュシカは中にいる?」
「うん。……あのさ、エイベル。その中身って、アレだよね?」
「……ん。アルが風邪を引いた時に作った薬」
エイベル謹製のポーションの効果は凄まじい。
俺の病気も、あっという間に治ったのを憶えている。
しかし、あれは不味い。
とてつもなく不味い。
たぶん、フィーに飲ませたら泣くと思う。
母さんは大丈夫なのかな? そう思いながら様子を見ると……。
「ひ、ひィッ……! エイベル、それは、まさか~……ッ!」
普通に怯えていた。
あの様子だと、飲んだ経験があるのだろうな。
「……ん。風邪は早期に治すに限る。暴れてはいけない」
いつもとは逆の光景だ。
いやがる母さんに、エイベルがにじり寄っているじゃあないか。
「あ、アルちゃん! ママをたすけてッ!」
「……アル。リュシカを押さえる。手を貸して」
うん。
俺がどちらに加勢するかなんて、説明するまでもないことだよね。
「へっへっへっへっへ……! 奥さァァァん。覚悟して貰いやすぜェェェ?」
「……ん。無駄な抵抗はやめる。リュシカの為にならない」
「い、いやぁああっ! たすけてー!」
くくっ! 騒いでも無駄だ!
俺は手をわきわきしながらマザーに近づいた。
「ふぃーも! ふぃーも、にーたてつだう! ふぃー、おかーさんとりおさえる! ふぃー、にーたのやくにたちたい! ふぃー、にーたがすき!」
「んー? そうかー。フィーは優しいなぁ。でも風邪がうつると困るから、母さんを押さえるのは、なしの方向で頼む」
風邪は空気感染をするのであまり意味がないかもしれないが、飛沫感染と接触感染もするから、近づかせないのは全くの無駄ではないだろう。
「危ないから部屋から出てな」と云っても、きっと納得せずに泣いてしまうだろうからな。
「じゃあ、ふぃーは、にーたにだきつく! にーたに、げんきわけてあげる!」
云うが早いか、コアラのように俺の背中に引っ付く妹様。これならまだ良いか。
しかし、姫。落っこちないで下されよ?
「ふへへ……! にーたのせなか、あったかい……! フィーのこころがぽかぽかする……!」
「フィーも温かいぞー?」
あとついでに、柔らかい。
柔らかいと云えば、現在、絶賛取り押さえ中のマイマザーのナイスバディも、凄く柔らかい。
正面から押さえているので、抱きつくような形になっている。
「アルちゃん、駄目よ……! 私には、夫が……! くちゅん!」
最早抵抗を諦め、ネタに走ることにしたらしい。
まあ、治療行為だと分かっているのだろうし、あのクソ不味い薬を飲んだことがあるのなら、効果覿面なのは、知っているのだろうしな。
「……ん。リュシカ、飲む」
「はーい。あーん」
幼い甘えん坊のように口を開いて催促。
エイベルはそこに容赦なく身体に良い毒液を流し込んでいく。
てか、相変わらず凄い臭いだ。目と鼻がピリピリする。
こんなの不意打ちで飲まされたら、リバース一直線だろうな。
「うっぐぐ……! ぐげ……ッ!」
母さんから、凄まじい声があがる。
これまでに聞いたことないぞ、こんな酷い呻き声。
だがまあ、気持ちは痛い程によく分かるよ。うん。
「……しっかりと飲んで。戻すことは許されない」
親友の口を塞ぎに掛かるマイティーチャー。
押さえつけた母さんの身体が、ビクンビクンと痙攣している。
側で見ている呑気もののミアですら、その顔を引きつらせている。
うちの母さんの顔が紫色になっていれば、そりゃあね。
何も知らない人がこの光景を見たら、毒殺の現場だと勘違いするんじゃなかろうか?
やがて母さんの顔色は人間のそれへと戻り、白湯を飲んでホッとひといき。
「ううぅぅぅううぅ~~っ! あの薬、飲みたくなかったのに~……。まだ、お口の中がヒリヒリするわ~……」
「……風邪を治すことが先決。これも飲む」
そう云ってエイベルが渡したのは薬ではなく、甘葛のような甘味を持つ植物から抽出した、甘露の一種であった。
エイベル基準で『結構、貴重』な植物を使っているらしく、それを惜しげもなく母さんに飲ませていることからも、心底親友が大切なのだろうと云うことがうかがえる。
「んん~~っ! これ好きッ! 甘ァ~~~~いッ!」
先程まで渋面だった母さんに、一気に笑顔の花が咲く。そして、既に咳もしない。
風邪は瞬時にして癒えたようである。
本当に凄い効果だな、あの毒薬。いや、毒じゃないが。
※※※
と云うわけで、その後の状況。
回復した母さんに抱きついたまま、マイエンジェルがマイマザーと共に、すぴすぴと眠っている。
居座ってサボろうとしたミアは他の使用人に見つかり、引き摺られて行った。
なので、現在は事実上、俺と先生のふたりっきりだ。
「エイベル、ありがとう」
「……?」
「あの薬。凄く貴重なんでしょう?」
「……私が望んでやったこと。アルがお礼を云う必要はない」
風邪を侮ってはいけないし、風邪に似た厄介な病気かもしれない。
そう考えたから、エイベルはあのポーションを用意してくれたのだろう。
この世界だと、ただの風邪でも亡くなる人も多いらしい。
心配をするのは、ある意味では当然ではあるのだろうが。
「奉天草だっけ? あれの原料」
「……今回のものは献地草。奉天草よりはランクが落ちる。けれど、ちゃんと効く」
「どっちにしろ、貴重じゃないか。幻精歴の植物でしょ、どっちも」
つまり、本来は既に、この世に現存しない薬草だ。
「……樹精の園には、昔、株分けをした。生育に成功していれば、たぶん、あちらにもある」
人の世にないことには、かわりないよね、それ。
エイベルは何カ所かに、専用の庭園を持っている。
そこには、既に失われた植物が、いくつもある。
しかし、育てるにも維持するにも方法があって、それを知らなければ仮に入手出来ても、枯らしてしまうだけなのだと。
「……植物を育てるための、専用の魔術も存在する。アルが薬草をきちんと扱えるようになったら、それも教えてあげる」
こういう云い方をするってのは、難しいんだろうな、その魔術。
ちなみに今の俺は、低級のポーションを作ることで手一杯です。
いや、植物の見分けって、難しいのよ?
地球世界だって毒キノコの見分けはプロでも難しいと云われるが、こちらだって大変だ。
見た目が同じで保有魔力量だけが違う草とかも普通にあるし。
エイベルは、自分の薬を世に出さない。
その効果を知られれば、何が何でも手に入れようとする連中が湧いて出るからだ。
原料となる薬草は管理が極めて難しいので、大量に増やすことも無理ともなれば、秘するのは当然かもしれない。
「……もしも悪質な病が流行り、薬草を大量に使わねばならない場合は、私はエルフのためだけに使う」
それは、ある意味で人間の拒絶。
いや、エルフ以外の、と云うべきか。
これはエゴではないと俺は思う。
同族が大切だと云うのはどの種族にもあるが、エイベルの場合は、単なる同胞ではない。
今を生きるエルフたちは皆、彼女の兄弟・姉妹の子供たちなのだ。重みが違う。
だから優先するのは当然で、そして正しいと思う。
俺が彼女の立場であれば、やはり何を置いてもフィーと母さんの分を確保するだろうから。
けれど、他のものからすれば、覿面の効果を有するポーションを諦めるなんてしないだろう。
知られれば、争いになる。
だから俺に出来ることは、ただひとつ。
こう云った方面でも、エイベルを守ってあげることだ。
あまり考えたくはないけれど、『口を封じる』ことも、頭の隅に入れておかねばならないのかもしれない。
夕日の射す一室で大切な先生と寄り添いながら、俺はそんな風に考えていた。




