第百二話 ヘンリエッテさんと過ごした日
神聖歴1204年の11月。
俺にとって、一年で一番、重要な月だ。
何せ今月は、妹様の誕生月!
世界で一番可愛く愛しい、フィーリア・クレーンプットお嬢様が、三歳におなりあそばされるのでございますことよ!
俺は準備に大わらわだ。
フィーはいつも俺にひっついて離れないので、こそこそと準備するのに苦労する。
だが、嫌な忙しさではない。あの子のために頑張れるのは、俺自身、とても嬉しい。
今年はお金があるので、ショルシーナ商会にケーキのカタログを見せてくれるように頼んだ。
するとやって来たのは、副会長のヘンリエッテさんだった。
俺はてっきり、この離れに通いをしているヤンティーネがついでに持って来てくれるものだと思っていたんだが。
実際はエイベルに蜥人の保護の結果を報告するとのことで、天下の副会長様自らがやって来たわけだ。
「ショルシーナさんはいないんだね」
「本人は来たがっていましたけれどね」
俺にカタログを手渡してくれた副会長様が苦笑いしながら云う。
あの会長、エイベルの大ファンだからな。
だが、多忙の身で来られなかったのだと。
ヘンリエッテさんは既に、我らが高祖様へ連絡を終えている。
カタログも受け取ったので、あとは帰るだけのはずだが、俺の話し相手になってくれているのである。
ちなみに妹様はマイマザーの腕の中で爆睡中だ。
「それにしても、俺の相手なんかしてて良いんですか、ヘンリエッテさん。忙しい身の上でしょう?」
「ふふっ。忙しいのは事実ですよ? でも、時間だって取れるように調整するのが、地位あるものの務めでもあります。でないと、不測の事態に対応出来ませんからね」
はい。
すみません、すみません。
余暇を取れるように立ち回れることも、社会人の義務ですよね。
それが出来ずに死んだ間抜けもここにはいるんで、ホント勘弁して下さい。
「ど、どうしたんですか? もの凄く渋い顔になっていますけど……?」
うん。
いつもにこやかなヘンリエッテさんを、初めてドン引きさせたかもしれない。
「いえ。何でもないです……」
そう答える俺の笑顔は、多分、引きつっていたと思う。
なお、エイベルは自室の屋根裏部屋におり、母さんとフィーは寝室にいるので、二階の客間に、俺とヘンリエッテさんはふたりきりだったりする。
来訪にあたって、彼女はエイベルやフィーが大好きな甘いお菓子を持ってきてくれている。
相も変わらず、如才ないことだ。
俺への贈り物もお菓子だ。まあ、子供なんだから、そう考えるよね。
俺は甘い食べ物は嫌いではないが、そこまで好きでもない。
煮こごりや、たこわさの方が嬉しいとは云えない。いや、この世界にそれがあるか、知らないけれども。
あー……久しぶりに、ラーメン食べたいなァ……。
「ふふふっ」
俺の顔を眺めていたヘンリエッテさんが、突然、笑い出した。
「アルト様は、表情豊かですね。見ていて楽しいです」
「え? はぁ……?」
どうやら、百面相をしていたみたいだ。
まあ、ポーカーフェイスとか苦手だしね、俺。
出来ることと云えば、社畜時代にマスターした営業スマイルくらいだし。
「あのー……。ヘンリエッテさん」
「はい、何でしょうか、アルト様?」
「その、俺のこと、様付けて呼ばなくて良いですよ?」
商会に行く時は、確かにお客様だろうけど、こういう場面で様付けというのは、どうにもくすぐったい。
根が庶民なもんで、そういうのは苦手なのだ。
様付けで呼んだり呼ばれたりってのは、確かに日本人時代に散々やったけれども、業務用モードかそうでないかで、感覚が変わるものだ。
少なくとも、普段はそういうのとは、無縁でいたい。
すると気配り上手の副会長様。
すぐにこちらの胸中を理解したらしい。やわらかな笑顔で頷いた。
「では、アルくんで」
「ああ、はい。じゃあ、それで」
「ふふふ。わかりました。アルくん」
ほっぺたをつんつんされてしまった。
この人、子供好きだったりするんだろうか?
「実は前から、アルくんとフィーちゃんのほっぺ、つついてみたいと思っていたんですよ」
それは知らなかった。
俺がエイベルの耳を虎視眈々と狙っているうちに、俺の頬も見つめられていたとは。
いずれは俺も、こんな風に気安くエイベルの耳を触れるようになりたいものだ。
「アルくんは、ほっぺた気安く触られて、いやではないんですか?」
「いえ、全く。ヘンリエッテさんのことは、好きですので」
この人は俺のお気に入りリストに入っているので、いやではない。
駄メイドのミアとかだと近づかれるだけで寒気がするので、生理的に無理だが。
「…………」
ん? 何だろう……?
ヘンリエッテさんが、真顔で俺を見つめている。
「アルくん」
「はい」
「身内以外の女性に、気安く『好きだ』なんて云ってはダメですよ?」
めっ、って云われてしまった。
年上のお姉さん(外見中学生)に「めっ」てされたの、前世含めて初めてではなかろうか?
フィーにはよく「めー!」って云われるけれども。
「それにですね、こちらの方が重要ですが、アルくんが他の女性に『好き』なんて云うと、傷つく人も、出て来てしまいますよ?」
むむむ。
確かにフィーは泣くか、激怒するかもしれない。そこは気を付けるべきだろう。
て云うか、フィーのことで良いんだよね、これ?
「でもさ、ヘンリエッテさん。俺まだ、子供だよ?」
「はい。普通の子供なら、こんな注意は的外れです。でも、アルくんに限っては、絶対に不用意な発言はしない方が良いと思います」
「俺だとダメなの?」
「めっ! です」
何故に?
「ヘンリエッテさんは好きとか云われ慣れてるでしょ? 絶対に、もてそうだもん」
凄い美少女だからなー……。この人。
気配りも出来るし。
すると何故か、遠い目をする副会長様。
「ちょっと前に里帰りしたんですが、その時、いい加減、さっさと結婚しないと、見合いをしてもらうぞ、と、お父さんに怒られました……」
ああ、エルフの世界にもあるのね、そういうの。
「アルくんはですね」
ほっぺたをつままれた。
力が入っていないのか、まるで痛くない。
「きっと、将来、『そっち』関係でやらかすと思います」
そっちって、どっち?
こちらの疑問を無視し、それにですね、とヘンリエッテさんは自嘲気味に苦笑いする。
「私、結構情熱的なんですよ。一度誰かを好きになったら、きっと暴走してしまいます。ですので、あまり惚れたはれたに関心を持たないようにしているんです。なので、誘惑はしないで下さいね?」
などと云われてしまった。
重ねて云うけど、俺はまだ、五歳児だからね?
誘惑云々は、冗談だろうけれども。
しかしまあ、年齢の部分を抜き落として、『不用意な発言には気を付けよう』と云う注意だと考えれば、教訓とすべき言葉ではあるのだろうが。
「ふぇぇええええええええええええええええん! にーたあああああああああああああああああ、どこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
廊下の向こうから、妹様の慟哭が聞こえてくる。
誰よりも、何よりも、優先すべきはこちらだろう。
俺はすぐに立ち上がって、声の主の元へと駆けだした。




