アンドロイドは想い人の夢を見るか
どこからか小鳥のさえずりが耳に入り、明るさを増した中で、彼の意識は覚醒へと導かれる。穏やかに自身の体温を感じながら、涼やかな林の一部となっているかのように頭は軽い。
目を開け、彼の目にまず映ったのは生い茂った木々の枝にとまっていた二匹の小鳥だった。その歌声が彼の目を覚ましたらしい。じっとしていると、小鳥たちは軽やかに飛んでいってしまった。後に残ったのは生命の躍動を伝える森のざわめき、そして
「あら、シオンさん。ようやくお目覚めになられたのですか?」
からかうような声だった。だが澄んだソプラノはシオンの耳に自然と吸い込まれるように何の後味もなく入っていく。
「アイリスか……今は?」
「西暦二一四五年二月四日金曜日、午前一〇時五三分四二秒です」
わざとらしく機械口調で答えたアイリスに、シオンはそっけなく「そうか」とだけ言った。そして自分が寝ていたハンモックから体を軽々と起こし、どこともなく言う。
「すまないが朝食を頼む」
「かしこまりました。ですが、たまには自分で作られたほうが体にいいですよ?」
「ああ、そうだな……」
気乗りしなさそうな声を出すシオンにあきれたのか、アイリスは事務的な口調になった。
「ARI(拡張現実情報)はどうなさいますか?」
「いや、自分でやるから大丈夫だ」
「そうですか。では朝食が出来上がるまでしばらくお待ちください」
これで通信は終わった。シオンは左手の甲を右手で三度ほど軽く叩き、自然に囲まれた自室にバーチャルディスプレイを浮かび上がらせた。それはシオンの目にしか見えないものだ。彼はそこに手を伸ばし、「ARI」と書かれた項目の中から、「朝食E」という項目をつかみ、ディスプレイの外に引っ張り出した。
すると、壁が丸太に変わり、どこからともなく樫の机が現れ、大きな窓から朝の光が差し込む、どことなく原始的な印象を与えるウッドハウスが彼の部屋になった。
シオンは木の香りのただよう椅子にゆっくりと腰掛ける。
「たまにはこういうのもいいだろう」
椅子は堅そうな見た目をしていたが、実際は人間工学に基づいて作られた柔らかなものだった。
現実の上に情報を付加し、現実と仮想を混合させるARの基礎技術は二一世紀初頭にはほぼ完成し、三〇年も待たずに、知覚増幅装置というメガネやヘッドホンの亜種のような形で、市民レベルにまで世界的に普及していった。そしてその成功を見たARはさらに研究が進められ、二〇四〇年には極めて安全性の高いインプラント手術が構想された。
そのコスト低減も追い風となり、現在ではインプラント手術をせず、知覚増幅装置もつけていない人間はごくわずかである。
これは、ARが真に人間のサポートに役立つと見出だされたことや、その体験のために必要な措置が安価かつ安全であるという科学者の努力の結晶にも起因するのだが、やはりAR普及の一番の理由は、AR普及につれ徐々に本物の現実が味気なくなっていったことだろう。AR時代初期の知覚増幅装置の代表格であるサイバークラトメ社の「仰天ゴーグル」使用者のブログには、かけているときと外したときでは世界が違うという記事が多数見られたそうだ。
シオンはアイリスから運ばれてきた朝食を受け取り、木の映像でコーディングされた机の上に並べた。そして再び左手をトントンと叩き、バーチャルディスプレイを机に置き、そこに映された新聞を読み始めた。いつもの朝の光景である。
「何かネタになりそうなものは……」
立体となって浮かび上がった笑顔の首相を指で紙面に押し付けながら、シオンは呟いた。ライターである彼の日課である。
二〇六七年は後にアンドロイド元年と言われた年である。ゴーグ・グループによって提唱された自己学習プログラムを搭載した量産型アンドロイドは、挑戦的な企業であるLORによって爆発的な普及を見せた。
こうして世界中に旅立ったアンドロイドは、実務面、生活面で大いに人間を助けたのだが、時代の変革期には新たなビジネスが興るものである。
新たなエンターテイメント、「ライチ」の発展だ。それは映画や劇といった従来のエンターテイメントを踏襲しながらも、全くの別物である。
ライチでは俳優や役者にアンドロイドを代用し、同時期に発展した三次元映像表示技術にのせて配信する。それまでの映画などと違い、ライチでは役者であるアンドロイドが創り手の生み出した仮想空間内でデータとして演技する。もちろん仮想空間はリアルに作ろうと思えば現実と区別できなくなるほどのものを作ることもでき、優秀なコンテンツを安価で提供できた。その結果、シオンのようなプロデューサー、監督、脚本家、カメラ、音響、効果等を全て一人、あるいは少数のグループで行うライターが社会に現れたのだ。
「……そろそろ朝食を片付けてもよろしいですか?」
のぞき込むようにスクリーンを見ていたシオンがはっと顔をあげると、クスクスと笑うアイリスと目があった。
「シオンさんってほんと考え出すと周りが見えなくなりますね」
「……そうだな。いつもすまない、アイリス」
「構いませんよ。もう慣れましたから」
そう言って主演女優は笑った。
シオンがライターになるという若者らしい夢を抱き、毎日を生きていた頃、アイリスは現れた。当時の彼女は時代遅れのARIに包まれており、自然音声機構も搭載されておらず、社会からはみ出したアンドロイドとして生きていた。
その姿にまるで生気などなく、半永久的に稼動するアンドロイドの生体電池によって街を彷徨っているだけの存在だったのだ。
そんな状態だった浮浪アンドロイドをシオンは世界一の女優にしてやろうと考えた。そこには自分の書いたシナリオによって役者が動く姿を早く見たかったという浅い考えしかなかったのだが、結果としてアイリスはシオンの製作したライチ全てに主演し、ある一定のファンを得るまでに至っている。
「外へ出てくる」
三十分ほど眺めていた新聞の映ったスクリーンを消し、シオンはおもむろに立ち上がった。だが紙面の内容はほとんど覚えておらず、彼の頭の中は次回作のことで埋め尽くされていた。
「そうだ、アイリス」
コートのポケットに突っ込んだ手を出し、けだるそうに生体認証ドアを開けながらシオンは言った。
「次は多分恋愛ものだ。今日、オルランディ先生と会って大筋が練りあがったらすぐに制作するから、ちょっと考えておいてくれ」
「……えーと、何をですか?」
シオンに拾われた時よりも数倍賢くなった人工脳でも理解できなかったようで、アイリスは遠慮がちに聞き返した。
「ん、そうだな……人間の恋とか愛について、アイリスなりの解釈を見出してほしい。うん、これだ」
「恋や愛……ですか」
アイリスはいまいち納得できないという表情をしたが、シオンはそれを肯定と受け取ったのか、生体認証ドアを通り、外に出た。
そして思い出したように
「それと、アイリスは夢を見るのか?」
「夢?」
「あ、いや、別にいいんだ。とにかく、さっきのことは考えておいてほしい」
とだけ言い残し、シオンは寒空の下へ繰り出していった。
◆
技術が発達しようとも天候だけはまだ操れておらず、空間地図の役割を果たすARIを見ながら待ち合わせ場所の喫茶店「イアバンダ」へ向けて歩くシオンの息も白かった。
もっとも、彼にとっては道案内など不要な、何回も通ったことのある道だったのだが。
ディアナ・オルランディは幼いころから将来を嘱望され、その才能を見事に花開かせた現代きっての若手ライターである。その家系図を紐解くと、父親が『一重百膳』『五日間蛙』等の奇作かつ名作を生み出したジロウ、母親は現代リアルホラー『視えざる時間』で一躍業界トップに立ったカサンドラなのだから、ディアナの成功はある意味では当然とも取れる。
実際に彼女自身も、英才教育を施され、遺伝子に刻まれたクリエイターの片鱗をまざまざと周囲に見せつけながら、順調にキャリアを積んできている。そしてそれは彼女の絶対的な自信につながり、インタビューや取材でもディアナの歯に衣着せない強気な発言は注目を集めていた。
「ハーイ、シオン」
店内に入ると質素ではあるが落ち着いた雰囲気の内装が展開していた。もちろんそれはARなので、自分の好きなものに変えることもできるが、シオンらは「イアバンダ」のARを気に入っていたのだ。
「こんにちは。オルランディ先生」
シオンは軽く一礼してディアナの向かいに座った。店員がメニューを置き、こちらも一礼して離れる。人間と同じ容姿で同じ動作をこなせるアンドロイドを店員に使っていないというのも「イアバンダ」の売りの一つなのだ。暖かみが違うと言う人は意外と多いのだが、ライチを通してアンドロイドと常に関わっているシオンにはいまいちわからなかった。
ただ、ディアナに対する彼の態度がアイリスに対するそれとは違うことは彼自身もわかっていた。だがそれは結局、目の前に座っている人物に対して抱いている感情の為すものであるとシオンは思っていたのだ。
「なるほど、恋愛ねぇ」
はっと我にかえってシオンはディアナのほうを向く。
シオンが机に表示させたシナリオプロットを見ながらディアナは腕を組んだ。
「恋愛感情とはどのようなものなのか、それは何に対して向けられているのか……テーマは面白いと思うわ」
「いや……そうですね。それは自信あります」
「あら。私もそんなふうに自分の作品に自信を持ってみたいものね」
「先生の作品は僕なんかのよりよっぽど優れていると思いますけど」
ディアナとシオンの仲は、ディアナが、フリーで公開していたシオンの作品のファンになったことから始まった。以来、彼らは気の合う製作仲間としてお互いに本音で語り合えるまでになったのである。その過程でシオンはディアナの本当の姿が、社会的に考えられているそれとは全く違うことを知っていった。つまり、彼女は決して絶対的な自信の持ち主などではなく、シオンと同じように、あるいは背負った期待の大きさによって彼以上に悩みながら作品を作り出していくのだと気づいたのだ。その頃を境に二人の意見交換も活発になり、今では、『第二の時代』発表後、もっとも注目される新鋭若手ライターとされる彼女と、無名に近いシオンが簡単に会談できるまでになっている。もちろん、ARIを使って周囲の人にディアナ・オルランディだと気づかれないようにはしているのだが。
「でもここは少し冗長ね。それに説教くさい部分もあるから……」
シオンが恋愛物を作ろうという考えに至ったのには、単純にシナリオがおもしろいと思ったからというのもあるが、それとは別に、アイリスとディアナの存在も大きく影響していた。
すなわち、彼がディアナと相対して湧き上がる感情は、アイリスと二人だと決して体験できないだろうという確信である。彼はアイリスを大切にしており、魅力的なアンドロイドとも思っているが、彼女の魅力はディアナのそれとは決定的に違う。この確信を持って、シオンは作品のタイトルは古典SFをもじり、『アンドロイドは想い人の夢を見るか』に決め、ディアナをたずねたのだ。もっとも、この訪問がシオンにとって幸福な時間となったのは言うまでもない。
◆
同じ頃、アイリスは考えていた。
わざわざシオンは「人間の」恋や愛と言っていた。それが意味することを考え、彼女は悩んでいる。
「……恋、特別の愛情を感じて想い慕うこと。愛、相手をいつくしみ慕う感情……」
もちろんアイリスは自己学習する人工脳を持ち合わせており、言葉の定義から外れたアバウトな考え方も当然できる。人間特有の曖昧な物の見方ができるというのは、アンドロイドの普及に大きく関わった技術でもあった。
「シオンさんは、オルランディ先生に恋している……」
アイリスはシオンの表情から感情を読み取っていた。一秒間に何十枚と相手の写真を撮り、それを完璧に覚えておけるアンドロイドにとっては造作もないことである。長時間シオンと共にいるアイリスならなおのこと、シオンの表情の変化を読み取るのはたやすい。
もっとも、そのような行為は人間の行動をアンドロイドが完全に把握してしまう危険性があるので、人間で言うところの人道に反することだった。アンドロイドのプログラムにも、潜在的に良心に従うよう書かれているのだが、アイリスはすでに自身の物理記憶媒体に大量のシオンの写真をためこみ、自責の念に駆られ消去しようとするのだが、結局それは叶わず、彼女の中に残り続けているのだ。
「私は、もしかしたら……」
シオンを恋愛対象と見ているのだろうか。人間の言う恋愛とはこのようなものなのか。しかしアンドロイドである彼女には答えがわからず、彼女はシオンの自分に向ける表情と、ディアナに会いに行くと言ったときの表情を比べているのだ。
そもそも彼女は自分が人間に惚れられるのかもわかっていない。彼女だけでなく、他のアンドロイドもおそらくわかっていない。そしてそれは、逆もまたわかっていないのだ。
自律行動するといっても、根底に三原則を組み込まれている彼女らは、基本的に人間の言うことを聞く。もしもシオンがアイリスにずっと恋人でいてくれと言えば恋人となり、セックスフレンドでいてくれと言われれば彼の好みの女性を作り出し、その役目を果たさなければならない。それらはもちろん倫理的に許されないものであり、ARの進化とアンドロイドの発明の際には大きな問題ととらえられた。しかし現在、そのようなことに関連する罰則は大して拘束力を持っておらず、実質アンドロイド黎明期と今ではほとんど変っていない。
アンドロイドをそのように扱う人間の数が極めて少ないのだ。
それはつまり、人間はアンドロイドのことを恋愛対象とせず、性的な興味も抱かないのではないか。その上でアイリスはこう考えていた。ならばその逆もまた同じなのではないのだろうか。
「本当は、どうなの……」
だとすればなぜシオンの写真を消すことができないのだろうか、なぜ良心に反してまでシオンとディアナの関係を知ろうとするのだろうか、そして
「…………」
彼女はエネルギーを節約するためのサスペンド状態の中で、シオンの夢を見ているのだろうか。
結局アイリスはシオンの問いかけに対して曖昧な答えしか返さなかった。
◆
ディアナとの対談でヒントを得た『アンドロイドは想い人の夢を見るか』は、その日の夕方にはアイリスが台本にアクセスできる状態になっていた。
アイリス一人ではライチは作れないので、シオンはディアナから何人か経験の浅いアンドロイドを育成の意味も兼ねて役者として借りていた。
そして早速練習が始まった。シオンはこの作品を「イアバンダ」でライブオンエアする予定だったので、撮り直しも編集もない。アンドロイドは基本的に人間の何倍も体力があるので、シオンが休憩するまで何日も練習は続いた。
アイリスは時々シオンのことを考えて演技に集中できていないのか、いつもよりミスが多かった。シオンも気づいていたが、どうしたと聞いてもなんでもないと答えたので、そのまま完成度を高めていった。
そして当日、「イアバンダ」の協力もあり、それなりの観客が『アンドロイドは想い人の夢を見るか』を心待ちにしていた。その中には、ARで変装してシオンにしか本人とわからないようにしたディアナもまじっていた。
「……細かいところはそんなところか。みな、今日は存分に演技してほしい。今までの練習を思い出して、悔いのないようにな」
シオンはARで装飾された「イアバンダ」のステージへ向かうアイリスに声をかける。
「アイリス、今日も最高の演技を期待している……がんばってくれ」
「……はい。がんばります」
アイリスは緊張しているのか、シオンと目を合わさず、小さな声で答えた。
そしてARではない、本物の幕があがり、ライチは始まった。
◆
劇中、アンドロイドはまるで人間の奴隷のように扱われているのだが、アイリス扮するアンドロイドのソフィアは、とあることで人間の男性エドゥアールの優しさに恋心らしきものを抱き始める。エドゥアールはこちらの世界では珍しく、人間と同等にアンドロイドと接していたのだ。もっとも、彼もまたソフィアに惹かれていたのだが。
しかしエドゥアールは貴族階級の御曹司。対してソフィアはアンドロイドであった。彼ら二人はまったく身分が違うので、互いに会うことは容易ではない。それがお互いの想いを募らせていく。
「エドゥアール、私は暇さえあればあなたのことを考えている。どれだけ忙しくても考えている。私のこの気持ちは一体何か、教えてほしいの、エドゥアール」
それでも他の者の目を盗み、密会を重ねていた彼らだが、ある日、その様子をエドゥアールの家のメイドに見つかってしまう。エドゥアールはソフィアの存在こそ隠せたが、常に監視される状態になってしまう。貴族階級はアンドロイドへの差別意識がより強かったのだ。
「僕の心に開いた穴はたった一つの方法以外では埋めることはできない。今、どこに……ソフィア、あなたに会いたい……」
エドゥアールが思うように動けないと知ったソフィアは、大胆な策に出る。エドゥアールの家のメイドに変装し、直接彼に会おうと考えたのだ。幸いなことに、彼女によく似たメイドが一人働いていた。
「ああっ、お許しください。今ここに罪のない彼女が眠っています。これは私のわがままの犠牲者なのです。しかし、それでも、私は彼の下へ行かなければならないのです!」
再開を果たし、彼らは天にも昇る幸福に満ちあふれる。
「ソフィア……? ソフィアなのか……?」
「エドゥアール……」
もはや彼らはそれだけで良かった。エドゥアールはソフィアの手を引いて彼女の耳元にささやく。
「ここから出よう。僕たち二人で、幸せに暮らそう」
しかし駆け落ちした彼らを待っていたのは卑劣な罠だった。箱のようなものを持ったアンドロイド技師とみずぼらしい姿をした男が立ち塞がったのだ。技師は遠隔操作でアンドロイドのプログラムを書き換えるためにエドゥアールの父に雇われたものだっだ。
「エドゥアール、愚かな息子よ。アンドロイドに恋愛感情などない。見ているがいい。お前の愛した人形が、お前のことなど見向きもせず、この卑しき者に熱い愛の言葉を語る姿をな!」
エドゥアールの父の言葉が技師の持つスピーカーから聞こえ、技師が手にした箱で何か操作する。途端にソフィアの様子が一変した。
「エドゥアール……!」
彼女の足が自然とみずぼらしい男へ向かう。その目はもはや焦点を定めていないかのようだった。
「ソフィア……?」
「ふん。どうだ、エドゥアール。これでこやつがただの人形とわかったか!」
「…………」
「言葉も出ないか。人形なんぞに誑かされよって。だが今回だけは許してやろう。これからはバルト家の者としてまっとうに――」
「……ない」
「ん?」
「認めない! ソフィアは人形なんかじゃない! 僕は彼女に惚れたんだ! 僕の愛する人を返せ!」
エドゥアールは叫び、ふらふらと歩くソフィアを押さえ込む。
「ソフィア! 僕だ! エドゥアールだ!」
「……エドゥアール」
「そうだ、僕だ! さあ、ソフィア、行こう。僕の手につかまって」
しかしソフィアは黙って下を向いていた。差し出されたエドゥアールの手を見つめてはいるが、手を出そうとしない。
「どうしたんだい? 大丈夫だよ、君は僕が守ってあげるから。絶対に……さあ」
「夢を見ていたの」
唐突にソフィアは語りだした。
「私とエドゥアールが笑って過ごしている夢。私、夢って初めて見た……きれいだね」
「夢じゃなくて現実になるさ。だから――」
「えぇい! うるさい! アンドロイドは夢など見ない!」
「いえ、見るわ。そう……」
ソフィアだった。毅然と立ち上がり、まっすぐに客席を見ている。
「私たちは想い人の夢を見るのよ!」
「黙れ! おい! その人形にエドゥアールを殴らせろ!」
「へいへい」
技師がまた何かをした。再び苦しそうに顔を歪めるソフィア。その手に握りこぶしが作られる。
「私は……私が……どれだけ……!」
「ん?」
首をかしげたのは観客席にいたシオンだった。アイリスの台詞がおかしいのだ。
「私がどれだけエドゥアールのことを愛しているか、あなたにはわからない! 誰も私たちの邪魔はさせない! エドゥアール! 私を連れてどこか遠くへ! お願い!」
今度はシオンも本気で驚いていた。そのような台詞も二人で逃げるシーンも台本にはないのだ。彼の台本では握りこぶしを固めたソフィアは技師に逆らえず、結局は最後の最後で自分の記憶初期化という方法でエドゥアールのことを忘れるというものだった。そしてそれに絶望したエドゥアールが自殺しようとするとき、エドゥアールのことを何も覚えていないソフィアから一つのメッセージが届く。それは、私たちはまた愛し合えるという短くもエドゥアールを生きながらえさせるものだった。そして幕がおりる予定だったのだ。
「しかしこれは……」
「私は今はっきりとわかったわ! これは愛よ! 私の中に芽生えたものは、模倣ではない、本物の愛だったのよ!」
まるっきり違う話になっていた。他の役のアンドロイド達も一瞬ぽかんとした顔をしたが、彼らもプロだった。
「そうか……そうか! ソフィア! わかった、行こう。僕たちはもう自由だ。何にも縛られず、生きよう!」
二人は満面の笑みを浮かべ、走っていた。その時、アイリスがちらっとシモンのほうを向いたのだが、彼はアイリスの行動について必死に考えていたので気づかなかった。
「くっ……どうなっている! おい! どうにかならないのか!」
エドゥアールの父が怒鳴るが、技師は情けない声で「無理です! コントロールできません!」と言うだけだった。
そして場面が変わり、ソフィアとエドゥアールがお互い手を取り合い、見つめあい、静かに微笑んだ。そこで幕が下りた。
◆
それまでライチに見入っていた人がざわめきだす。
ディアナもその一人だった。彼女はシオンの台本を見ている。それゆえ、不可解だった。
あの終わり方ではご都合主義すぎるし、一本道だ。そんな台本をシオンは書いていなかったし、書くはずがないと思ったのだ。つまりこれはアンドロイドが独断でやったこと、それが彼女の結論だった。だとすればソフィアに扮するアイリスに一体何があったのか。
「アイリスちゃん……まさか……」
そのアイリスを探している人間がいた。シオンである。あれから何度かアイリスに連絡をとっていたが、まったくつながらなかったのだ。それどころか緊急用の位置特定システムも作動していない。
焦ったようにシオンは楽屋へ行ったが、まだ帰っていないとのことだったので待っていたが、一向に現れない。シナリオが変わったのはアイリスの独断だということがわかっただけで、シオンは楽屋を出た。
「アイリス、なぜあんなことを……?」
その時、シオンの左手から小さなバーチャルディスプレイが現れた。ディアナの顔が映っている。電話だ。指で叩いて応答する。
「はい、なんでしょう?」
「アイリスちゃんを探してるの?」
「はい。彼女がどうしてあんなことをしたのかわからないので。それに、連絡も全くつかないし、位置特定システムも機能していないようで……」
「そう、それなら急いだほうがいいかもしれないわね」
ディアナは画面越しだが、真剣な表情で言った。
「え? 何か知っているのですか?」
思わずシオンは聞いた。アンドロイドの場所がわからないのだから緊急事態なのだが、ディアナは妙に落ち着いているように見えたのだ。
「正確にはわからないけど……今アイリスちゃんを止められるのはシオンしかいないんじゃないかしら」
「それはどういう……」
「アイリスちゃん、やたらと客席の方を向いていたわよね。それこそ不自然なくらい。でもそれがシオンを探すためだとしたら、納得がいくわ」
「僕を? どうしてですか?」
「アイリスちゃんが客席を向いて話した台詞を思い出してみて」
シオンはしばらく頭を手で押さえ、やがてはっとしたように顔をあげた。自然と足の動く速さが増す。
「……先生、まさかアイリスは……でもそんなことがありえるのでしょうか?」
「……わからないわ。でも劇中でとったソフィアの行動は、アイリスちゃんがやりたかったことなのかもしれないわね」
「ですがそれなら、どうして僕に言わずに――」
「シオンはアンドロイドのことをどう思っているの?」
「……それは」
アイリスは決してただの商売道具ではない。生気なくさまよっていた彼女との出会いから今日まで、彼女はシオンにとって大切な人だった。それはこれからも同じだろう。人間同士では簡単に生まれうる一つの感情を欠落しているだけで。
「アイリスちゃんは、どこかで叶わない恋だってわかっていたのかもしれないわね」
ディアナは淡々と言った。それも彼女なりの優しさなのだろう。
「それで、アイリスは何をしようとしているのです――」
しかし、その答えをシオンは気づいていた。彼の台本上で、ソフィアが最後にとった行動は、次代に可能性を託すものだったのだ。
「オルランディ先生、アイリスがどこにいるかは……」
「外、じゃないかしら……客席は通らず、人目に触れずに裏口から出ていったのかもしれないわね」
ディアナの自信ありげな表情を見て、シオンはうなずいた。
「わかりました……僕はアイリスに正直に話します。僕の気持ちと、これからも僕を助けてほしいと」
「そう。アイリスちゃん、見つかるといいわね」
電話を切りシオンは走っていった。
ディアナもシオンの顔が消えたディスプレイを閉じ、客席から幕の下りたステージを見ながら話しかける。
「本当にこれで良かったの?」
「はい。ありがとうございました」
まぎれもなく、アイリスの声だった。
「……アイリスちゃんも案外おてんばなのね。シオン、ほんとに焦ってたわよ」
「そうですね。シオンさんには悪いことをすると思います。でも」
アイリスは言葉を切った。そしてゆっくりと言葉を探るように口を動かす。
「最後にシオンさんの気持ちが聞けてよかったです。望みはやっぱり薄そうですけど、逆に吹っ切れました」
ディアナは何も言わなかった。
「……じゃあ、そろそろ」
「元気でね、アイリスちゃん」
「はい、オルランディ先生も……」
そう言って、アイリスは静かに目を閉じた。まるで楽しい夢でも見ているような姿だった。
(了)