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【競演】心のありか

作者: ましの

第九回競演に参加させて頂きました。

お題は「薔薇」です。


注:突っ込みどころ満載です。

【見つけて】

 どこからか歌が聞こえてくる。

 薄墨色に混じった茜が刻々と色を濃くしていく。ふわりと漂う歌声は伸びやかに、けれどどこか悲しげに空に溶けては星になった。

 涼やかな風の中にかすかなバラの香りに気づいて、私は振り返る。

 そこには、透けるほど白い肌にいっそう際立つ紅の髪に、暗闇の中で光を孕んで輝く碧の瞳。その女性は、薄いモスリンの白いワンピースを着てそっと歌を口ずさんでいる。

【見つけて わたしの心を】

 待って!

 呼びかけようとするが、いくら叫んでも声は形を成さない。

 走り寄ろうとする私を彼女は拒むように背を向けた。

 ただ、彼女の紬だすメロディーだけが風に運ばれて私の耳に届く。

 彼女との邂逅はいつもここで終わる。

 これは夢だ。


 私は夢を見ていた。



     *  *  *



 人の気配に意識が覚醒して、私ははっと目を開ける。

 紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。

「なあに? また寝てたの? ゆかりってCAD仕事すると必ず居眠りするよね」

 寝ぼけた思考でうなずくと、幼なじみのマチがカラカラと笑って紅茶の入ったマグカップを差し出した。

「CADは仕方ない。眠くなる。学生の頃から苦手だったし。ミシン踏んでた方がマシ」

「とか言いながら永く勤めたアパレルメーカー退職して独立しちゃうんだもんね。立派だわ。専業主婦のあたしからは想像も出来ない」

「私からしたら家庭を平穏無事に回してるあんたの方がよっぽど凄い」

「それで? またあの夢見てたの?」

「まあね」

「彼女はなんて?」

「相変わらず歌ってるだけ。【わたしの心を見つけて】って」

「毎度、縁の夢に出てきて歌わなきゃいけないなんて難儀よね。どうせなら音楽プロデューサーの前で歌えばいいのに。時代遅れの仕立屋に買われたのが彼女の運の尽きだったのかも」

「時代遅れとはあんまりだな」

「それにしてもこれは一般的に言うところの運命というやつなのかしらね」

「ねえ、ちょっと聞いてる?」

 私の言葉を無視してマチは熱心に語りはじめる。

「ショーケースの中の彼女を見て、縁はビビッと来ちゃったわけだもんね。一時流行ったじゃない。電流が流れるようなって」

「よくある話でしょ」肩をすくめた。

 そうだ。そんなことはよくある話。ショッピングですらインスピレーションを優先なのに、テイラーが生地選びにインスピレーションを優先しないわけがない。

「でもなんだって、反物なの? しかも、これ下絵のままなんでしょ? アンサンブル用だって言ってたから、メーターは多いみたいだけど」

 怪訝そうに首をひねるマチに私は眉を顰めた。

「何? 祥平から聞いたの? あのおしゃべりが」

「有名な友禅作家の作品らしいじゃない」

「一応ね。私は専門外だから聞いたことなかったけど、その道じゃ名前の通った作家だったみたい。でもまあ、これは下絵の状態で未完成だったから買い手がつかなかったみたい。家族もいなかったから引き取り手もなかったらしいし。呉服屋さんを何件か回って祥平の店にたどり着いたんだって」

「そこで運命の出会いじゃないの! まさかテイラーの手に渡るなんてその作家さんも思ってみなかったでしょうね」

「とは言っても、もう亡くなっている人だし。関係ないんじゃない?」

「で、あたしとしては一つ謎があるのよ」

「なにが?」

「この布、どう見てもユリの構図にしか見えないのに。どうして『レディ・ローズ』なんて名前をつけたわけ?」

 マチの問いに私は思わず苦笑した。

「インスピレーションとしか言えないわ」

「だとしたら、センスなさ過ぎ!」

 確かにそうかもしれない。

 私は手元に置いた反物をちらりと見やった。

 絹の白生地に青花あおばなと呼ばれる下絵用の染料で薄い線を描いている。その線が描くのは、確かにユリだ。けれど、私には最初色鮮やかなバラに見えた。

 それはきっと彼女の姿を垣間見てしまったからなのかもしれない。

 燃えるような赤い髪の女性。彼女の持つ雰囲気がバラそのものだからだ。

 私は白い生地に指を走らせた。

「ここ。どうして柄が不自然に空いてるの?」

 そっと問いかけてみるが、『レディ・ローズ』は黙ったままだ。

 仕方がない。私が布の声を聞けるのは今では夢の中だけだ。

 だんまりを決め込んだ『レディ・ローズ』を片目に再びCAD仕事に戻った。

 運がよければまた彼女に会えるかもしれない。



「うっざいんだけど! さっさと購買部に戻れ!」

 静まりかえったロビーに声が響いたが、閑散とした館内では気にする必要はない。

 私は母校の大学に付属している小さな博物館の受付にいた。国内でも珍しい服飾博物館だが、表通りからはわかりにくい立地ということもあって利用者は学生がほとんどだ。

 展示替えがある度に必ず訪れるのだが、それは客としてではなかった。臨時の学芸員として働いているのだ。あいにく仕立屋だけでは生活していくことがままならないせいで、見るに見かねた恩師がこの職を紹介してくれた。今は週三日のパートタイムだ。安定して給金が入ってくるということへのありがたみが身にしみて分かる。

「いいじゃん、橘~。たまには昼飯くらい」

「たまには? 私のシフトの時はほぼ毎日来てるよね、あんた」

 ギロリと睨みつけると、目の前の男は茶目っ気たっぷりの笑顔を見せた。

「デート誘ってるわけじゃないんだからそんなに目くじら立てなくてもいいだろ」

 長身にスラリとしたモデル体型。長い腕をテーブルの上に立てて涼しげな視線を送ってくる。

 男の名は藤本祥平。

 学生の頃から出入りしている生地問屋の跡取り息子にして、我が同窓生。学内の購買部に入る生地屋の店主をしている。

 普段はチャラチャラとしていて気に入らないことこの上ないが、この男がひとたび延反台の前に立てば人が変わったように表情を変える。生地に向ける真剣な眼差しに、一体何人の女の子が虜になったことだろう。だが、彼のその眼差しは決して人に向かうことはない。少なくとも私の知る限りは。

「よし。じゃあ、話を変えよう」

 祥平は一人でうなずくと、神妙な面持ちで顔を寄せてくる。私は近づいてくる頭を避けるように手で払った。

「俺の誘いを全く受けない真面目な橘にはとっておきのことを教えてやる」

「なに」

「前にうちで買っていった反物の作者知ってるか?」

「はあ?」

「百合岡真一郎。今やってる企画展に作品が出てる」

「それが?」

 特別な驚きもなく聞き返すと、祥平は肩すかしを食らったようで面食らっている。

「あっれー? おかしいな。毎夜あの反物が祟って夢に出るって聞いたんだけど?」

「はあ? 誰がそんなこと言ったのよ。って、マチしかいないか。言っておくけど、祟ってるんじゃなくて、何かを伝えようとしてるだけ」

「そういうのを祟ってるって言うんじゃね? まあとにかく、一度色が入ってるのをよく見てみたらどうだ? 印象が変わるかもしれないぞ。ということで行こう。一緒に行こう。今すぐ行こう」

「後で一人で観に行くからいい」

「冷たいなあ。ほんの数メートル先だろ? 昼飯おごるから!」

「もっと嫌だ。だいたい今は仕事中」

「ケチだなあ。なにも減るもんじゃないだろ?」

「減る! 精神が摩耗する!」

 言い合っていると通用口のドアが勢いよく開いた。

「お待たせしました!橘さん、交代します。お昼に行ってください」

 タイミングよく入ってきた同僚の声に、祥平がにやりと笑みをこぼした。

「ほら行こう!」

 まさか私の知らないところで共謀してないだろうな。


 今日から企画展だというのに、相変わらず館内には数人の学生がぽつぽつといるだけだ。

「あれだよ」

 さすがに生地問屋の息子なだけある。一目見ただけで、百合岡の作品を見つけていた。私には数点並ぶ着物の細かな違いに見分けもつかない。展示替えを手伝っていたというのにこの体たらくではいくら臨時と言っても学芸員失格だ。

 祥平の指さした着物は一際目立つものだった。金の地に鮮やかな赤や桃のバラが大胆に描かれている。

「このバラの構図が百合岡の特長なんだ」

「へえ。百合岡っていうくらいだからユリの柄が多いんだと思ってた。そもそもあの下絵しか知らないし」

 そう言うと祥平が同意するようにうなずいた。

「そこが謎なんだよな。百合岡真一郎の作品はバラの構図しか残っていない。ユリなんて親父ですら見たことがなかったらしい」

「珍しいんだ」

「珍しいどころの話じゃない。もしもあの反物が完成していたら時価百万はくだらない。いや百万じゃ足りないな」

 祥平の話を聞きながら、意識は逸れていた。

【見つけて】

『レディ・ローズ』の歌声が耳の奥で鳴り響く。

 何? 何が起こってる?

 現実に夢が侵食してくる。

 視界がちかちかと瞬き、ガラスケースの向こうに夕暮れの空が広がった。

 いつもの夢と同じかすかなバラの香りが漂い、私は反射的に振り返っていた。

 そこにいたのは、

「『ローズ』!」

 たまらずに叫ぶ。

 その言葉にびくりと肩を震わせたのは、近くにたたずんでいた女子学生だった。

 緩やかにうねる赤い髪と暗がりで密かに輝く緑の瞳。

 彼女は驚いたように私を見つめた。



 木漏れ日を受けて絹地はなめらかに輝いた。開け放った窓から流れ込む風が涼やかに生地の表面を撫でていく。作業部屋を白く埋め尽くす白生地の向こうに、『レディ・ローズ』の鮮やかな髪の色が垣間見えるような気がした。

 次第に空が茜色に染まっていくように感じる。ふわりと体が持ち上がり、意識が浮遊していく。夢とも現実ともつかないあやふやな世界の切れ端が、体にまとわりついて離れない。心地のよい、麻薬のような空間。気づけば、彼女の紡いでいたメロディーを口ずさんでいた。

「やけにご機嫌じゃない」

 唐突に割り込んできた声に、私ははっとして顔を上げた。

 途端に体がこわばり、身を切るような鋭い感覚とともに現実が構築される。目をしばたたかせて一瞬体に走った痛みを振り払う。

「また盛大に散らかしてるわね」

 いつの間に入ってきたのか、マチがあきれたようにドアの脇に立っている。

「なんだ。来たの?」

「なんだとはなによ。放っておいたらどこかに行っちゃってたでしょうに」

「どこかって? 現実逃避してられるだけの時間はないし、蓄えもない」

 話をそらすように何気ない風を装ってあっけらかんと言ったつもりだったのに、マチは追い打ちをかけるように言い募った。

「口ばっかり。そんなこと言ってるけど、実際のところは自分ですら分からない。聞こえないはずの声ばっかり聞いていたから夢と現実の区別がつかなくなるんじゃないの?」

 いつもは朗らかなマチが珍しく刺々しい声を出している。

 私は渋い顔で黙り込んだ。そんな風に言われるとなにも言い返せない。

 布の声が聞こえるなどということは普通じゃあり得ない。それくらい分かっている。熟練の職人が経験を重ねて得ていくものを、私は幼いことから当たり前のように知っていた。生地の特性、相性、デザイン性そういったものを、経験ではなく布自身に聞いていたからだ。彼らは私にそっと教えてくれた。どうしたらきれいなドレープが出るのかを。どうしたら最適なパターンを引けるのかを。けれどそれは私にしか聞こえない囁きだった。

 その囁きに耳を傾けているうちに次第に現実に夢が侵食してきた。

 服が勝手にペラペラと喋り出したのだ。それまでは聞こうと思わなければ聞こえなかった声が、あちこちから聞こえるようなった。自分が誰と話しているのか分からなくなって、私の精神は崩壊した。

 そんなとき助けてくれたのが、マチと祥平だった。学内で孤立していく私を最後まで見捨てなかった二人のおかげで、私は今ここにいることが出来るのだと思っている。本当に感謝している。でも、それを口に出して言うのが柄じゃなくて恥ずかしい。だから言わない。

「縁がいなくなったらきっと祥ちゃんだって悲しむわ」

「あんな奴知らん」

「そう言わないでよ。いい加減デートくらいしてあげたら? このままじゃおばあさんになっちゃうよ」

「なに? 今日はわざわざ祥平の肩を持ちに来たってわけ」

「そうでーす。今日は祥ちゃんのお使いできました」

 マチはいつのもの調子に戻ると肩をすくめた。

「個人情報が含まれるので、情報の取り扱いにはご注意を! って」

 そう言ってメモを差し出してくる。

「ありがと」短く礼を言って受け取ると、マチは興味ありげにメモを覗き込んだ。

「自分で個人情報って言っておいてその態度ってひどすぎない?」

 あきれる。

「だってえ。気になるんだもん! っていうか、もう見ちゃったんだけどね」

「じゃあ、いいじゃん」

「よくない! いきさつが分からないと全くの謎じゃない? こういうのって。で、『リリー=ローズ』ってセレブっぽい名前の子は一体誰なの?」

 しっかり見やがって。ため息をついてメモに目を落とす。

『リリー=ローズ・オージェ』そうか。あの子は『ローズ』と言うのか。

 小さな驚きとともに、納得している自分がいた。

『住環境デザイン学科、染色コース在学』

『フランスからの留学生。母親は四年前に死去。シングルマザー。父親の国籍不明。日本に留学経験あり(俺たちの先輩。計算でいくと間違いなく父親は日本人!)』

 最後の私見はいらないが、購買部の生地屋にしてはなかなかの出来だ。

『リリー=ローズ・オージェ』彼女は一体何者なんだろう。

 考え込んでいると、

「あ! やだ!」

 突然マチが奇声を上げた。顔を上げると反物を巻く巻芯が割れている。古くなっていたのだろうか?

「あ~あ。なにやってんの」

「ごめーん! なんか中でカラカラ音がしてるなって思って振ってたら……」

「ちょ! かして!」

 申し訳なさそうに縮こまるマチの手から勢いよく巻芯を取り上げる。

「わ! 怒ってる!? ごめんね!」

 謝るマチを無視して、空洞になった巻芯の内側に見入った。なにやら文字が書かれている。

「『私たちの……』読めない! カッターは?」

「え、壊しちゃううの?」

「代わりならいくらでもある」

 ペン立てからカッターを取り上げた。


「なにこれ?」

 私の手元を覗き込んで、マチが首をかしげた。

『私たちの子供に贈ろう』

 中に入っていた半紙にはそう書かれていた。



 その学生は企画展が始まってから毎日のように博物館を訪れては、百合岡真一郎の作品を見つめていた。

「友禅が好き? この作品が気に入った?」

 声をかけると、彼女は一瞬戸惑ってからためらいがちにうなずいた。

「はい」

 その答えを聞いて、私は営業用の笑みを浮かべた。

「はじめまして、私は橘縁。ここの学芸員あなた留学生だよね?」

「はい。フランスから来ました。リリー=ローズ・オージェです」

 丁寧な受け答えだが、外国人らしいあっけらかんとしたところが彼女にはなかった。

「素敵な名前だね」

 すると彼女は肩をすくめた。

「両親から名前をもらったの」

「リリーとローズ?」

「そう。リリーとローズ。私はこの名前嫌いだけど」

「どうして?」

「父の名前が入ってるから」

 そこ言葉に私は戸惑った。彼女の家族の話題は繊細な問題なのだろう。何でもないという顔をしているが、醸し出す雰囲気がピリピリしている。

 正直、突っ込んで聞きたかったが下手に踏み込むと警戒されて聞き出せるものも聞き出せなくなる。心引かれながら話題を変えた。

「それで、オージェさんはなんの勉強をしに?」

「染色です。友禅の」

「すごい。まだ若いのに」

「母が友禅染をしていて。小さい頃から見てきたので、興味がわいて。それに、たぶん、わたしのルーツはここにあると思うから」

「ルーツが?」

「わたしの血がここに引き寄せられる」

「ずいぶん詩的な表現をする。日本語上手だね」

「幼い頃から母に仕込まれたので。でもわたしはいまいち好きになれません」

「どうして? 上手いのに」

「たぶん自己否定をしたいだけだから」

「自己否定?」問い返すと彼女は小さく首を振った。

「自分を打ちのめして、やっぱりダメなんだと納得したい。そんな感じです」

「難しい年頃なんだね」

「年頃、の問題なんでしょうか」

「私にも覚えがある。天邪鬼なんだよ。認めるのが怖い」

「認めるのが?」

「そう。真実を知ってしまったら、今の関係が壊れるような気がして」

 私の言葉に彼女は自嘲気味に微笑んだ。

「関係も何も最初からないんですけどね」



「こっちに来るなんて珍しい」

 久しぶりに購買部に顔を出すと、祥平が声をかけてきた。普段は彼の父親が営んでいる本店ばかりを利用するからだ。『レディ・ローズ』もそこで見つけた。

「橘のファッションに対する飽くなき探究心は敬服に値するけど、たまには息抜きに山とか海とか」

「行かない」

 祥平の言葉を遮ってはねつける。あからさまに肩を落とす姿がおかしい。

「そうそう。新情報。小耳に挟んだんだけど、例の生地の制作者、昔この学校で講師をしていたらしい。さらに言うと、リリー=ローズの母親が日本に留学していた時期と重なる」

「ああ。やっぱり」

 それで納得がいった。一人うなずく。

「なに? 知ってた?」

「何となく、そんな気がしてた」

 さて。どうしたものか。

『レディ・ローズ』は一体どんな結末をご所望だろう。『心』を見つけたら、次はどうしたらいいんだろうか。

 考え込んでいると、一つのひらめきが思考を支配した。

 私の様子をちらちらと窺っている祥平に向き直った。

「前言撤回。デート行ってもいいよ」

 弾かれたように顔を上げる。

「なに? マジで? 海行っちゃう? 白ビキニ」

 嬉しそうに笑みを浮かべる彼に向かって、私はニヤリと笑って見せた。

「腕のいい呉服屋でお茶する」

「呉服屋あ?」



 エレベーターを降りた途端、染料の硫黄臭い匂いが鼻についた。

 住環境デザイン学科の実習棟だ。夜の八時を回っているということもあり、学生の姿はほとんど見えない。

 私は企画展のリーフレットが入ったビニール袋を持って、フロアの廊下をゆっくりと歩いた。

 祥平の話では、リリー=ローズは毎日遅くまで学内に残っているということだが……。果たして運良く巡り会うことが出来るだろうか。

 廊下を進んでいくと、染色コースの実習室の明かりが一部屋だけ点いているのが見えた。足音を忍ばせ近づくと、中から声が聞こえた。そっと中を覗き込む。運がいいらしい。リリー=ローズだ。

 だが、呟きは母国語らしく、内容までは聞き取ることが出来なかった。どうやら立ち聞きはよくないらしい。

 私は小さく息を吐き出すと、偶然を装ってドアをノックする。

「お疲れさま」

 声をかけると、リリー=ローズは驚いて振り返った。

「遅くまで大変だね」

「橘さん、どうしたんですか?」

「企画展のリーフレットの補充をしに」そう言って手に持ったビニール袋を見せた。

「入ってもいい?」

「どうぞ。散らかってますけど」

 彼女は木綿の白生地に下絵を施していた。描いているのは大輪のバラの構図。それを見て、百合岡を真似ているのだと思ったが、何かが引っかかる。

「この構図はオージェさんが考えたの?」

 問いかけると、彼女は躊躇った。

「……いえ、母のものです」

「お母さんの?」

「死んだ母の残したもので、完成させたいと……。でも、下絵がどうしても上手くいかなくて……」

 するとリリー=ローズは悔しそうに顔を歪めた。

「友禅の神様はきっとわたしが嫌いなんです。だから上手く描けない」

 そんなことない。

 言おうとして気がついた。

「不自然に空白がある……」

 私は彼女の描く下絵を見ながら呟いていた。

 まさか……。

「よかったら練習をしてみない?」

「練習を?」

 不思議そうに問い返す彼女に向かって、私はうなずいた。

「下絵のままの布を一反持っているんだけど、専門外だから取り扱いに困ってる。よかったら色を入れてみない? もちろんタダでとは言わない。それなりのお礼はさせてもらうつもり」

「どうしてわたしが?」

「せっかく知り合ったから。人との縁は大切にしないと」

 大げさに肩をすくめる。

「こんな絵なんだけど、出来そう?」

 私は持ち歩いていた『レディ・ローズ』のコピーをジャケットのポケットから取り出した。

 それを見て彼女はハッと息をのんだ。

「これ……」

「もしも受けるつもりがあるなら、今度の休みにここに来てもらえる?」

 そう言って仕立屋の名刺を差し出すと、一方的に会話を切った。



「本当に来るのか?」

 祥平が落ちつきなくスツールに座り直す。

 日曜の昼下がり、どこから聞きつけたのかリリー=ローズが訪ねてくるからと、祥平とマチが私の作業部屋に押しかけてきた。

「たぶんね。月曜から土曜までほとんど実習室にこもりっぱなしだし、来るなら今日しかない」

「そのリリー=ローズって子はどんな子なの?」

 マチが興味心身に聞いてくる。

「きれいな子だよ。本当に。『レディ・ローズ』にそっくり。ようやく彼女の言う『心』を見つけた」

 私の言葉に、二人は戸惑ったように顔を見合わせている。


 予想した通り、リリー=ローズはやって来た。

 私の顔を見るなり、以前渡したコピーを押しつけて詰め寄った。

「この下絵、どこで手に入れたんですか?」

 ひどく思い詰めた表情をしている。

「どうして?」

「母の残した構図と重なります。どうしてこんなことが……」

 混乱しているのか、豊かな髪を片手でかき混ぜている。

 彼女の持ったユリの構図の上に、寄り添うようにして大輪のバラが描かれている。それを見て、マチが小さく声を上げる。

「その下絵は百合岡真一郎の遺作だよ。巡り巡ってわたしの手に移った」

 彼女は百合岡の名前を聞いて息をのんだ。

「百合岡の作品、気に入ってるんでしょ?」

「……」

 口をつぐむ彼女に私は語りかけるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

「友禅の神様があなたを嫌っているんじゃなくて、あなたが友禅に心を開いていないんだと思う。頑なに何かを拒んでる。夜の闇におびえる赤ん坊のように」

 そう言うと彼女は弾かれたように顔を上げた。

「そんなこと!」

「ないって言える? 一体何を怖がっているの?」

「わたしは何も怖がってない!」

 私は首を振った。

「それじゃ、神様はあなたを受け入れない。もっと素直になって。心を開いて」

「どうせ父は私のことが嫌いよ!」

 彼女は私の言葉を振りほどくように叫んだ。

「ずっと知らないふりをしてきたんだから! でも、そんな父を母はずっと愛していた。いつも口ずさんでいた日本の歌の意味を知って私は愕然としたわ。母は父のことしか見ていなかったと分かったから。わたしの中に父の面影を追っていただけなんだもの! そんなの許せない! わたしがどれだけ傷ついたのか、母はもう知ることはない……。悔しい! わたしは一人で取り残されたのに!」

「だから友禅が嫌いなんだ」

「嫌いよ。大っ嫌い!」

「そうやって心を閉ざす。でも、嫌えば嫌うほど気になって仕方がない。嫌いなはずなのに、いつの間にか好きになってる。あなたはそれを否定したくて仕方がなかった。でも否定すればするほど辛くなる。だからあなたはここに来たんでしょう? 生まれ育った国から遠く離れた異国の地に。自分のルーツを探して。それは、この布も一緒。この布は心を探してる。ずっと長い間。色をなくしてひとりぼっちで彷徨ってる。きっとあなたにはそれが分かるはず。なぜなら、この布はあなたにとって特別だから。他の誰でもないあなたにしか出来ないこと」

 リリー=ローズは小さく震えながら泣いていた。押さえ込んでいた感情があふれ出ているんだろう。

「リリー=ローズ」

 私は初めて彼女の名前を呼んだ。

「あなたの色でいいの。この布に心を与えてあげて。あなたにしか出来ないこと」

 そう言って私はテーブルの上の『レディ・ローズ』を取り上げた。


 彼女が帰ったあと、それまで黙って成り行きを見守っていた祥平が口を開いた。

「あれじゃ、百合岡が父親だって言ってるもんじゃないか」

「私も彼女もそんなことは一言も言ってない」

 部屋の中にはリリー=ローズの残したバラの香りが漂っていた。

『レディ・ローズ』後はあなたの『心』に委ねる。

 私はそっと目を閉じた。



 半年かかってリリー=ローズは『レディ・ローズ』を仕上げた。

 久しぶりに会った彼女は、明るい表情をしていた。憑きものが落ちたように晴れやかな顔をしている。

「お礼は一ヶ月くらい待ってくれる?」

 すると、

「いえ。いい経験になりました。それだけで十分です」

 そう言って彼女は去って行った。


「ミシンで縫っちゃえばいいのに」

 マチが意地悪そうに呟く。

「そうもいかない。一針一針心を込めて縫わないと意味がない」

 そう言うと、マチは気に入らないのか口を尖らせて軽く睨みつけてくる。

「本当にそれでいいの?」

 棘のある声に苦笑してうなずく。

 マチはきっと骨折り損だと言いたいんだろう。けれど、私にとっては満足のいく結果だ。

「『レディ・ローズ』が一番喜ぶ結末だと思うけど?」

 私は手を止めて大きくのびををした。



 紫がかった薄墨の地に大輪のバラとユリが寄り添うように描かれている。その着物の中には夢で見たあの夕暮れが再現されていた。

『レディ・ローズ』で仕立てた着物をリリー=ローズに着付ける。祥平に紹介させた呉服屋で教わったばかりの頼りない手つきには、自分でも呆れてしまう。

 それでも、彼女たちは満足してくれたようだ。

 帯を締めた瞬間、夢を垣間見た。

 黄昏の中で、『レディ・ローズ』は嬉しそうに微笑んで、そして消えた。



     *   *   *



 余った布を丁寧に巻芯に巻いて倉庫の中にしまう。

「運命の人があなたを見つけるまでここでおやすみなさい」

 私は『レディ・ローズ』を生地倉庫の一番奥の棚に置いた。目張りのされた日光の一切入らない倉庫で、彼女はいつの日か優しい手にゆり起こされる。

 残布は生地見本帳に丁寧に閉じた。

「っていうか」

 私の儀式を横目で見ていたマチが口を挟む。

「その見本帳の生地ってみんな『運命の人』待ちなんでしょう?」

「まあ、そうなるね」

 うなずくと、マチはあっけらかんとした声でさらりと毒を吐いた。

「だからこの店はいつまで経っても赤字経営なのね」

 私はその言葉に閉口する。

 そんなこと言ったって仕方がないじゃないか。

 彼らにも心があるのだから。

 それを無視することは、私には出来ない。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


なんちゃって服飾ミステリーでした。

少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

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