終
空と水平線の向こうが赤く染まっている。
夕焼けだ。
打ち付ける波の音を聞きながら、頭はぽつりと口を開いた。
「そういえば、オレがどうして奴隷の解放を目指したのかって聞いただろう? 実はあれ、結構単純な話なんだわ」
「そうなの? けど、また今度って言ったんだからちゃんと話してくれなくっちゃ」
「そうだな。俺も気になる」
年若い二人に見つめられ、彼は頬を掻いた。
「見ての通り、この国は奴隷業っていうのも変だけれど、奴隷と呼ばれる階層の者が沢山いる。その中には、城に連れてこられた者も居る。オレがまだ城を出る前、一人の女と出会ったんだ」
懐古するような口調であった。大切なそれを抱きしめるような、とても穏やかな口調であった。
「美しい人だったよ。見た目とかそういうんじゃなくって、心根が美しい人だった」
「それは素晴らしい人だったのね」
あぁと彼は頷いた。
「自分の境遇を嘆くのではなく、とても朗らかに笑う人だった。どんな姿であろうとも、生きているということに感謝をしているようなそんなできた性格をしていた。何せ、お祈りなんかもちゃんとやっていたくらいだったし、良い所のお嬢様だったのかもしれないな。今となっちゃ、どうなのか知る術もないけれど」
その言い方で、彼女がどうなったのか知るのは容易い。何故なら、彼は過去形でそれを語っているのだから。
「オレはその人に恋をした。その時のオレは荒んでいたんだ。身体的には満たされていたけれど、心にはいつも何かが足りなかった。それを埋めてくれたのか彼女だった。彼女もオレのことを好いていると言ってくれたよ。けど、王子と奴隷の恋なんて許されるはずがなかった」
身分違いの恋というのはよくあることだ。しかし、それで上手くいくことは案外少ない。大半が悲恋で終わっている。だからこそ、そういう類のストーリーの小説が巷では出回るのだ。
「彼女は殺されたさ。処刑されたんだ。王子を誑かした悪女だ、国を乗っ取ろうとした魔女だの何だの罵られ、それで火あぶりにされて死んだ。そして、彼女はいつものように綺麗な笑みを浮かべ、何かに祈るようにして灰になった。あそこでオレに向かって恨み言の一つでも言えば良いのに、やはり彼女はそんなことなく死んでいった。ありがとうなんて笑いながら死んでいったんだ。オレが、報われるわけがないだろう。彼女がこの世から消えたことによって、オレの内にはまた空洞ができた」
その意味はコタンにも何となく理解ができた。
心が満たされてこその、生なのだ。肉体的に健康であったとしても、心が病んでしまえば精神が死ぬ。そうすれば、そこにあるのはただの抜け殻だ。
「その時に思ったんだ。同じ人間であるというのに、何故こうも簡単に切り捨てができるのか、と。命とは何なんだと、そういうことを考えるようになった。それで悩みに悩んだ末、オレが出した結論が、奴隷の解放だった。彼女は日の当たる所が似合う人だった。それなのに日の目を見ることなく死んでいった。だったら、もう終わりにしようと思ったんだ。こんな最悪を通り越して、醜悪な制度なんて失くさなくちゃいけないんだ、って。これが、オレがこの道を進んだ理由だ」
彼はふうっと、息を吐き出した。詰めていたものを出そうとしているようであった。
「結局の所、オレは愛に生きることができなかった。本当だったら、彼女と恋をした時点で、彼女を連れ去れば良かったんだ。けど、それができなかった。今まで無条件に与えられていたものを手放すことができなかったんだ。馬鹿だろう? 彼女が死んでから何度も何度も後悔した。毎夜夢に見るんだ。彼女が燃えて行く姿を」
オレはと続ける。
「彼女を弔い続けるさ。オレの最初で最後の最愛の人を」
「けど、そんなにも優れた人格者だったのなら、彼女は貴方の幸せを願うものじゃないのかしら?」
「そうかもしれない。けれど、ここでオレが忘れたりなんかしたら、彼女のことを覚えている者が一人減ることになる。だから、これはオレのエゴなんだ。オレはずっと、彼女のことを覚えていたい。ただ、それだけなんだ」
そっか、とコタンは頷いた。
「自分で納得しているのだったら、私はそれで良いのだと思うよ。だって、自分の人生よ。人生っていうのは自分だけのものだもの。自分で選択したのなら、周りは何も言うことなんてないわ」
だから良いのだ、とそう言えば頭は憑き物のとれたような顔をした。
清々しい表情であった。
「オレは多分、誰かに肯定されたかったのかもしれない。それで良いのだと言われたかったのかもしれない」
「別に良いんじゃないのか? それが人間だろう?」
「あら、レオの口からそういう言葉が出てくるとは思わなかったわ」
そうか、とレオは首を傾げた。
「だって、否定されるよりだったら肯定されたいし、損をするよりだったら得をしたい。所詮はそんなものじゃないのか? 寧ろ自分本位に生きていない人間なんていやしないと思う。だから、あんたの話の聖女様を穢したいわけじゃないけれど、彼女も十分にエゴイストだったと思うよ」
「どういう意味だ?」
「普通、死ぬときにまでお綺麗でいられるわけがない。余程達観でもしていない限り、足掻くものだ」
「しかし、彼女はそんなことをしなかった。綺麗なままだったんだ」
本当にそうか、とレオは問う。
「恨みとかそういう類の言葉なんかより、「ありがとう」だなんて言ってこれみよがしに死んでいく方が余程性質が悪い。だってそうだろう? そんなことをされたら絶対に忘れられないじゃないか。一生、抱えて生きていくしかないじゃないか」
「それはそうだ。それは、オレの罪だ」
「本当は、彼女は恨み言を言いたかったんじゃないのか? けど、そんなことを口にしたらあんたの愛が冷めてしまうかもしれない。だからこそ、最も印象が残る死に方をした。そして、死んで尚、あんたに付きまとっているんだ」
まるで呪いだ、と言う。
「俺には、火で焼けただれた女が、今にもあんたの首を絞めようとしているようにしか思えないよ」
あははと乾いた笑いが漏れた。
頭は顔を両手で覆った。
「そうなのかもしれない。いや、そうであって欲しい」
「何で?」
「それだけ、彼女もオレに執着していたということだからだ」
「あんたも救われないな」
「あぁ、それで良い。そうじゃなくちゃいけないんだ。オレは彼女の目論見通り、全てを抱えて生きていくよ」
「貴方がそれで良いなら良いけれど、いつか、その重みに潰されてしまうわ」
「そうはならないさ。そうならないように、みっともなくでも踏ん張って生きていくことにするさ」
そう、とコタンは頷いた。
所詮、彼の心は彼によってしか救われないのだ。彼が決断したのなら、コタンはそれを受け入れるつもりであった。
「あんまり頑張りすぎないでね。もしもの時は、ううん、非常時じゃなくても貴方を支えることくらいはするから」
「まぁ、沈みそうになったら引っ張ることくらいはするつもりだ」
二人の言葉に虚を突かれたような顔をし、それから「ありがとう」と破顔した。
「頭は、これからどうするの?」
「オレか?」
そうだな、と何処か遠くを見る。
「まずは国のごたごたをどうにかしなくてはならない。一度城を抜け出したとはいえ、仮にも王子が戻ったことで色々と浮上してきた問題を片づけなくてはならない」
「大変ね」
「そうだな。けど、これはオレの義務だ。あの城に居る間、オレは恩恵を受け続けてきた。だから、今度はそれをちょっとずつ返していかなくてはいけない。つまり、借金返済っていう感じか?」
「随分とありそうな借金ね。返すのに時間がかかりそう」
「オレもそう思うよ」
そして指折り数えていく。
「条例の変更。奴隷の解放。それから奴隷市場の解散。それらの取り締まり方法。やることだらけだ。自分で行動して始めたことだというのに、まだまだ先は長そうだ」
「けそ、それでもやるんでしょう?」
「勿論だ。これは、他でもないオレがやらなければならない。免罪符というわけではないが、それでもオレがやらなければいけないんだ」
「何か、根を詰めていすぎじゃない? 息切れしそう」
「そんなことはないさ。城を出てたくさんの人と触れ合った。そこで、オレは少なからず感謝というものを受けて、城では感じることのできなかった充実感というものを味わったんだ。だから、そんな人達の為に力を尽くそうというのは原動力にはなっても、重荷にはならないさ。それに、オレには支えてくれる仲間もたくさんいることだしな」
その通りだ。彼が城を出なければ、到底得ることのできなかった仲間が彼に居る。それは、これからもずっと彼の支えになってくれることだろう。
「それで、その後は?」
「その後は、そうだな……」
彼は言葉に詰まった。何かを探しているようにも見える。そして、頬を掻いた。
「正直、考えていなかったな。これまで一直線に走り続けてきて、他のことには脇目も振らなかった。だから、これからとかそういう将来的なことを考えたことがなかったな」
弱ったな、と彼は言う。
「じゃあ、これから見つけていけば良いんだよ。だって、まだまだ先は長いんだもの。貴方がやりたいと思ったことを全部終えて、それでも時間があるんじゃないの?」
「あぁ、そうだな。これからのことは全部終えてからじっくりと考えることにするさ」
それは何処か吹っ切れたような顔に見えた。あの時から取り払われたゴーグルがない為か、とても表情が読みやすくなった。
「二人はこれからどうするんだ?」
今度は頭が尋ねた。
コタンとレオは顔を見合わせた。
「取り敢えず、旅をしてみようと思うの。この世界には、まだまだ流れ者が居る筈だわ。だから、その人達を捜してみようと思うの」
「元の世界に戻りたいのか?」
コタンは、まさかと首を振った。
「私はここに生きている。つまり、ここが私の生きている世界だわ。私を取り巻く環境が違う。けど、それに差分なんてないの。だって、私はこの世界も好きだから」
これは本心であった。前の世界は前の世界で自分の生まれた故郷だ。だから嫌いになるわけがない。それでも、長い時を生きてきたのはこの世界なのだ。この世界はコタンにとって少し残酷な現実もまだあるけれど、それでもコタンの目にはとても美しく見えた。
「そうか、それで、レオは?」
「俺も一緒に行くつもりだ。もっと、世界を見てみようと思う」
二人は顔を見合わせると、笑んだ。それを見て、頭は肩を竦めた。
「そうか、残念だ。二人にいっぺんに振られちまうとはな」
「どういうこと?」
「オレの手伝いをしてもらおうかと思っていたんだ」
「それってつまり、法律とかそういうやつ?」
「そう、そういうごたごたしたやつ」
それを聞いた瞬間、二人は首を振った。
「無理、無理、無理。私、お勉強はあまり得意じゃないの。そういうのはできないわ」
「俺はそれ以下だ。こっちの世界に関しての教養はまるでない。適材適所と言うだろう。それは、あんただから向いているんじゃないのか?」
そう、結局の所、血筋やら経験やらを総合すると、頭がやるしかないのだ。彼じゃなければ、王制を廃止しない限り誰もできないことだ。これは、間違いなく彼じゃないとできないことなのだ。
「他のことなら手伝うから、もし何かあったら呼んでよ」
「その方が良い。そうしてくれ」
必死な姿を見て、頭は吹き出した。
「それで、二人は何時出発するんだ?」
「そうね、取り敢えず、明日の朝一番の船に乗るつもりよ」
「そうか。けど、色々な所に繰り出す前に実家には顔を出せよ」
コタンはぎくりとした。それを見て、頭は「お前なぁ」と溜息を吐いた。
「このままで良いわけがないだろう。ちゃんと向き合えよ」
「それは、まぁ……」
コタンも解ってはいるのだ。あの時はのりと雰囲気であんなことを言ってしまったが、それでも本当に縁を切りたいというわけではない。何故なら、あの二人こそが、コタンに初めてできた家族なのだ。アイヌの村で暮らしている時には持つことのできなかった、父と母なのだ。
「俺もそれが良いと思う。まずは、一度親と向き合うべきだ。血が繋がっていなくても、大切な家族なのだろう? 家族というのは、一緒に居ると心が温まる人達を指すんだ。そこには血縁関係がなくても、安らぎを得られるのだったら、それは家族だ」
諭すような口調に、彼の心境を察そうともするが、彼の家族について何も聞いたことのない為に返す言葉が見つからない。彼にだって家族が居た筈なのに、今、彼はここで一人で立っている。そんなレオからしたら、コタンのこれは贅沢な悩みなのだろう。
「そうだね。まずは家に帰ろうか。旅に出るのはそれからね」
よしと拳を握ると、「レオ」と彼を呼んだ。
「んっ、何だ?」
「もしもの時は、一緒に怒られてね」
にやりと笑めば、彼も「あぁ」と笑った。そして、それを見た頭も「それは良い」と笑った。
夕暮れの海岸に、楽しそうな笑い声が響く。
掛け替えのない人に出会えたというカムイの導きに、コタンは胸の内で感謝をした。