其の弐
コタンはみんなが寝静まった頃に、そっと部屋を抜け出した。
「お嬢様、どちらに行かれるおつもりで?」
まるで計ったかのようなタイミングで声をかけられ、コタンは肩を震わせた。
「あら、どうしてそんなことを聞くのかしら?」
「昼間にお戻りになってから、お嬢様の様子がおかしかったので」
「ご不浄に行くのかもしれないわ」
「それはないでしょう。それでしたら、そんなに着込んで行く必要はありません」
彼の視線はコタンを上から下へと眺めて行く。
この時間に寝間着ではなく、それも動きやすいようにとパンツスタイルなのはあまりにも不自然だった。家庭教師を誤魔化すことができないということに気が付いたコタンは、小さく溜息を吐いた。
「奴隷市場に……」
その瞬間、「今すぐお部屋にお戻りください」と間髪入れずに声が入った。
背中を押され、部屋に入るようにとぐいぐい押される。
「ちょっと、何で」
抵抗しようとするが、大人と子供の差だ。更には、男と女の差もある。あっさりと、部屋に入れられそうになった。
「言っておくけれど、ドアが駄目なら窓から出るだけだからね」
そう言うと、彼の動きはぴたりと止まった。
「先生も知ってはいるとは思うけれど、私はやると言ったらやるんだからね」
これまでの前科に思い当たったのか、彼は額に手を当てて溜息を吐いた。
「何故、そんなものに行こうと思ったのですか。あそこに行くのはまともな人間ではありません」
「そうかもしれない。人間が人間をお金で買うなんて正気なんて思えないよ。けど……」
コタンは知ってしまったのだ。まるで家畜のようにして連れられていく人々を、そしてあの鮮烈な色を。
「止められたって、行くからね」
頭一つ分以上差がある顔を睨みつける。その瞳に強固な意志を感じ取って家庭教師は再び溜息を吐いた。
「何が貴女をそこまで駆り立てるのですか?」
「そんなものはわかんない。けど、行きたいから行く。それだけだわ」
そう、理由なんてものは至ってシンプルだ。ごちゃごちゃと考える必要なんてない。
「あんな無法地帯に行くなんて、何があっても知りませんよ」
「それでも行くわ」
やがて彼は、「わかりました」と言った。
「でしたら、ご一緒します」
「えっ、何で? いやなんじゃないの?」
「いやに決まっているでしょう。できることなら行きたくはありません。しかし、生徒が自ら危ない場所に行こうとしているのを放置するのも大人ではありません。社会勉強です。ですから、なるべく危ない行動だけはしないでくださいね」
諭すような言葉に、彼の気遣いを感じ、コタンは頷いた。
街はしんと静まり返っていた。
夜なのだから当たり前といえばそうなのだが、その背筋がぞっとするような寒気は多分、今夜が普通ではないからなのだろう。
コタンは、家庭教師に渡されたローブのフードを深く被っている。懐にはマキリを差し、片手でそれをぎゅっと握った。
静かな空間に二人分の足音が反響する。そして、片方の足が止まった。コタンもそれに倣う。
彼はドアをノックした。
すると、ちょうど成人男性の目の高さの位置でくり抜かれた覗き穴が開いた。血走った目が家庭教師とコタンを確認する。
家庭教師が何かを口にした。その後に蝶番が外される音がし、「入れ」と小声で促された。
そこは通路のようであったが、真っ暗であった。
「逸れないでください」
声をかけられ、彼のローブを掴みながら歩いた。
暗さの為、距離が掴み辛い。
少し進んだところで、奥の方から声が聞こえてくることに気が付いた。
「地下です。地下でやっているのですから、音が反響しているんです」
その言葉の通りであった。
松明が定感覚で灯され、その大きな空間を照らしている。
熱が籠っていた。
どこにこれだけの人が居たのであろうと思う程の人間が席に座っている。まるで、オペラの席のようであった。
周囲を見回せば、皆一様に仮面を着けている。服装はどちらかというと、裕福な層の者が多いようだ。
「お嬢様、これを」
蝶を模った仮面を渡され、それを装着した。彼も、既に何の特徴のない仮面を装着していた。
「できるだけ前の方が良いわ」
その言葉に彼は頷き、最前列の空いていたスペースに腰を落ち着けた。
目の前で起こっていることが何だか現実のようには思えなかった。
司会が声を上げ、それに応じるようにして手を挙げて次々に数値を行っていく。本当に市場のようであった。前に見た、朝市の競に良く似ている。
しかし、ここでやり取りされているのは人間なのだ。決して、人道的な行いではない。
「お嬢様は、お目当てでもあるので?」
こそっと耳打ちされ、コタンはぎくりと身を強張らせた。
「何で?」
「いえ、けど、そんな感じがしました。そうでなければ、そもそもここに来ようとは思わないでしょう?」
見透かされた物言いに、コタンは頷いた。すると彼は、「そうですか」と応じる。
「どんな方なのですか?」
「えっ?」
「特徴ですよ。昼間、奴隷行列で見たのでしょう?」
「それは、まぁ……」
彼の姿は瞼にありありと思い浮かぶ。それだけ強烈な印象であった。
「年は十代半ば。褐色の肌と銀の髪に赤い目の少年」
それを聞いた彼はからかうこともなく、顎に手を当てて思案した。
「成程。そうなると、金銭的な問題が浮上してきますね」
「どういうこと?」
「多分、彼、ここでの高額商品です」
その断定的な言い方に、コタンは首を傾げた。
「褐色の肌の人種は、実は値段が低いんです。しかし赤い瞳となると、とある少数民族しか持ちえない瞳でもあります。その一族は過去に人間狩りをされ、今では希少とされています。つまり、レアな人間には高値がつけられるのですよ。それは動物でも何でも同じことですね」
そこで人間を動物と同列に並べられ、コタンは頭を殴られたような気分に陥った。
「一応それなりの金は持ってきましたが、今は手持ちが足りませんね。その人種だと、一般市民の生涯年収以上の価値が付く場合があります。寧ろ、最初に提示されるのがその金額である可能性があります」
冷静な言葉に、何も言えなくなった。「お嬢様」と呼ばれた。
「それでもここに残りますか? まだ見ていますか? もしかしたら、他にお目に留まるものもあるかもしれませんし」
探るような視線に、コタンは詰めていた息を吐き出した。
「残るわ。社会勉強なのでしょう? 最後まで居るわ」
そう言うと、彼は「そうですか」と頷いた。
「お嬢様にお任せします。けど、競売は長いのです。途中でお帰りになりたくなったら、お声をかけてください」
コタンは応えなかった。
視線は目の前、それも一メートルと離れていない舞台の上で手かせと足に鎖をつけられた人に向いている。みんな何処か諦めたような顔をしていて、その目は死んでいた。
それからどれ程経っただろうか。
次から次へと人々が流れて行き、コタンは遂にその色を見つけた。
会場にどよめきが走った。
横で「彼ですか?」と問われ、頷いた。
「この競売の目玉商品の一つで御座います」
司会は高らかに宣言していく。
「ご覧ください、この髪、この目」
膝を着き、動けない少年の髪を引っ張り、無理やり顔を上げさせる。精悍な顔立ちに赤い瞳が爛々と輝き、憎しみを湛えていた。
「皆様ご存じの通り、希少種で御座います。この色合いの人間がどれほど少ないかは、皆様お解かり頂けるでしょうか」
噛み締められた歯がぎりっと、軋んだ音を立てたのが聞こえたような気がした。
今にも喉笛を噛み切りそうなその様は、獣である。彼は誰にも屈しない気高さを持っていた。
コタンは席から立ち上がった。
横で「お嬢様?」と訝しげな声をかけられたが、それを無視し、舞台のすぐ傍まで駆け寄る。
段差がある為に向こうの方が高いが、それでも膝を着いている彼と目が合った。
あぁ、この色なのだとコタンは思った。
気が付いたら、というよりもほぼ無意識の内にコタンは彼に声をかけていた。
「何故、こんな所にいるの?」
尋ねられた少年は、何を言っているのだと言わんばかりの視線をコタンに投げかけた。だが、それを無視してコタンは続ける。
「だって、貴方はもっと気高い筈でしょ。少なくとも、こんな所で鎖に繋がれて晒され、値段をつけられるような生き物ではないでしょう」
「どういう意味だ」
彼の声は、喉に何かが張り付いているような、掠れて、妙にしわがれた声であった。聞いていると、声帯に傷がついているのだということがすぐに解った。
「貴方は誇り高い筈だわ。それが、この様なの? どう? 貴方は何処に己の誇りを捨てて来たの?」
「俺は……」
「商品が余計なお喋りをするな」
少年が蹴飛ばされた。しかし、耐えたようで「ぐっ」と息が漏れた音が耳に捉えた。
「お嬢ちゃん?」
司会の顔がコタンに寄せられる。
「お嬢ちゃん、無闇にステージに近寄っちゃ駄目だよ。何があるかは解らないからねぇ。何をされたって文句は言えないんだよ?」
舐るような視線に、寒気がした。
「さぁ、気を取り直してこの商品の競売を始めましょう」
再び少年の値段付けが始まった中、「お嬢様、何をなさっているのですか」と焦った様子で肩を掴まれた。ぐっと力が籠められ、指先が肩に食い込んだ。
「違う、違う!」
次々と駆け引きの声が響く。
お嬢様という声がコタンを苛める。
「違う、違うのよ」
コタンは顔を上げた。そして、きっと少年を睨みつけた。
これまで以上の圧倒的な声量が空間を支配している。しかし、それに負けないほどの大きさの声で、「貴様は、その程度の器なのか!」とコタンは叫んだ。
しんと静まり返った。
一瞬にして、人の声が止んだ。
「この程度の一生で満足できるわけ? 私達は人間だ。人間だったら、その誇りを忘れるな」
外聞も何もない。コタンのこれは、ただの心のままの叫びである。
「お嬢ちゃん、もう忠告はしたからね。そんなに生き急ぎたいのだったら、君もこっち側においでよ」
複数の男達がコタンへと手を伸ばした。すぐ後ろで、「お嬢様、お逃げください」という声が聞こえたが、この次元と別の次元にコタンの意識は存在していた。
「私はアイヌ一族のコタン。即ち人間だ。誰にもそれは侵されやしない」
その瞬間、風が吹き抜けた。
地下であり、風など一切通らない堅牢な造りであるというのに、草原のように爽やかな風であった。それはやがて強風へと変貌する。
今や、誰もが目を開けていることさえ困難な風がコタンを取り巻いていた。それが吹き荒れ、台風のようでさえあった。
コタンは少年を見た。少年もコタンを見た。
「貴方は一生、そんな風に生きるわけ? 私は、だれかに所有されるなんて真っ平だわ」
「お前……」
その呟きは風と共に掻き消えた。
大きな音が鳴り響く。
銃声だ。
空間を引き裂くような、乱暴な音である。
弾はコタンのすぐ横を通過した。
銃口はコタンを向いていたが、風が彼女を守ったのだ。風の渦巻く流れによって、銃弾は横へと逸らされた。
発砲された、そのことが客をパニックへと陥らせる。そして、それは風に乗るよりも早く伝染した。
「どういうことだ。この風は何なんだ」
「こんなのが居るなんて、聞いてないぞ」
「どういうつもりなんだ」
口々に叫び、悲鳴も混じって一気に人々は会場を去る。動けずにいるのは、コタンの周囲の人間達だけだ。ここだけが時が止まったかのようにして、身動き一つせずに互いを牽制し合っている。
「お嬢ちゃんはどうやら不思議な力を持っているようだ。どうだい? その力を生かしたいとは思わないかい?」
「私は、カムイの力を私利私欲の為に使うつもりはない?」
「カムイ? 何だい、それは。そんなことよりも、おじさん達に協力するつもりはないかい? そうしたら、お礼にたくさんのお金や宝石に綺麗な服もお嬢ちゃんの物になるんだよ」
一転して媚を売るような態度の男を前に、コタンは「興味が無いわ」と一蹴した。
「そんな物の為に己を捨てるつもりわないわ」
「己を捨てる?」
少年の呆然としたような呟きに、「そうよ」と頷く。
「人間が生きるということは、ただ息をして命があるだけでは生きているとはいえないわ。そこに、己を形成して満たすものがあってこその私よ。だから、たかだか金銭に換えられるような安い物を持っているつもりはないわ」
コタンの器は幼い時に、既に様々なものに満たされた。その満たされたものが掛け替えのないものであるということはその時分より知っていることだ。
「己の信念を曲げるなかれ、己の誇りを切り売りするなかれ、これが私の譲れない根底だわ」
謳うような、それこそ賛美のような口調に傍から聞いていた男達はぽかんとした。しかし、すぐに我に返ると「ふざけるな」と四方八方からコタンへと銃を向けた。
ひっという小さな悲鳴に、「先生、大丈夫?」と青ざめた家庭教師に声をかけた。
「何とか。けど、お嬢様はともかく、己の身が絶体絶命だということだけはよく理解しております」
「そんなことはないわ」
コタンは首を振った。そして、晴れやかな笑みであった。
「だって、風が吹いたもの」
その言葉のすぐ後に、男達はすぐに床へと這い蹲った。
蹴りだ。
囚われていた少年の足の鎖は無理やりに引きちぎられ、手枷は片手にぶら下がっている状態だ。血が流れている。だが、それでも少年はお構いなしに男達をなぎ倒していく。
獣のようである。
躍動力があり、しなやかだ。
あっという間に男達を戦闘不能にすると、その獣の如く双眸を司会の男へと向けた。背筋がぞっとするような眼力である。
まさに蛇に睨まれた蛙だ。
男は震えていた。
「この、化け物め」
その言葉の通り、己の論理がまるで通じない存在への恐怖が混じっていた。罵りながらも、それを隠せてはいない。
人はより強大な力――例えば自然のように抗うことのできない強大な存在の前では、かくも無力である。そして今は絶対的強者、つまりは自身よりも上の力を持ったヒエラルキーの上位者を前にして恐れを抱いていた。
「そうか、そうだ。俺は化け物だ。だから化け物に首輪をつけて飼うことなんて、できるわけがないだろう?」
片方の口角を上げた笑いは、やはり獣のようであった。
今や、彼のことを牙の抜かれた獣だと思う者はいないだろう。そこにあるのは、獲物を追い詰める肉食獣が如き存在であった。
「悪いな、いや、悪いとは思わない。貴様達がしてきたことに比べたら、まるで悪いことじゃないだろう?」
言うなり、男の横っ面を殴った。
息を詰めた音がし、男はあっさりと地面へと伏した。
「お見事」
楽しそうにコタンは笑った。風はもう止んでいた。
「あんた、何者だ?」
鋭いまでのその問いに、コタンはやはり楽しそうに笑んだ。
「私はコタン。アイヌのコタン」
「アイヌ?」
「そう、アイヌとは私の一族を示す言葉。そして、その意味は人間。つまり、己は人であるということを弁え、誇りを持った一族であることの表れなの」
「それで、あれなのか?」
「あれ?」
「あの堂々とした呷り文句なのかと思ってな。なかなかの啖呵だった」
「あれは、まぁね……」
思い出すと、赤面ものである。よくもまぁ、敵を作りかねないような状況であんなにも大勢の前で喧嘩を売ったものだ。普通だったら、まず絶対といっても良いほどやることはなかっただろう。あの時は色々とキレていたのだ。
「それに、あれは何だ? あの風はどういうからくりだ?」
先程のあれは人智を超えていた。手品でもない限り、あんなことは絶対に起こりえない。
「そうね。あれはカムイ、つまり神が私に力を貸してくれただけ。だから、あれは私の力じゃないわ」
そう、コタンはただ力を借りただけのだ。だから、己に力があるのだなんて驕るつもりはまるでない。
「それで、貴方は?」
「レオ。お前の言葉を借りるのなら、ただのレオだ。それ以上の何者でもなければ、それ以下の存在になるつもりはない」
断言的なそれに、コタンは「そっかぁ」と締まりのない顔で笑んだ。
「それよりも、貴方のそれ、大丈夫なの?」
手と足を指差すが、彼は首を振った。
「問題ない。既に治っている」
血を拭えば、その下にはまるで何事もなかったかのような皮膚があった。それこそ、傷一つついていない滑らかな肌である。
「どういうこと?」
首を傾げるが、彼は口を噤んでいる。何も言うつもりがないようだ。
不意に、拍手が鳴り響いた。
場違いなまでのそれに、全員の視線が集中する。
「いやー、お見事。まさかこんなことになるとは思わなかったよ。これはまさに、大盤狂わせって感じか?」
軽い口調に、崩れた服装。背はひょろりと高く、顔はその半分以上がゴーグルで隠れ、口元には無精髭がある。全体的にだらしない感じが漂い、それ故に胡散臭さが募る。
「いやいや、別に怪しい者じゃないさ」
「けど、怪しい人だってそれは言うものだわ」
自らを怪しいだなんて自己申告するような、そんな怪しい奴などいやしない。ここで肯定でもしようものなら、その方が驚きだ。
「あちゃーっ。何か、警戒されているっぽいな」
しかし、台詞とは裏腹にそういう感じは心底しない。寧ろ、この状況を愉しんでいるようにも見える。
「その口調からするに、初めから見ていたということか?」
彼はにっと口角を上げた。つまりは、肯定だ。
「まぁね。何時出て行こうかって様子を窺っていたからね」
「どういう意味だ?」
その時、また誰かが入って来た。
「お頭、全員解放しました」
入って来た年若い青年はそう言うと、直立した。背筋が伸び、軍人のように畏まっている。
そして、他にも気配があることに気が付いた。
「その人達は……」
コタンは目を見開いた。
そこには、この市場で売り買いされていた人達が居た。無傷とまではいかないが、それでも彼らの枷は何も無くなっていた。
「見ての通り、オレ達の目的は奴隷の解放さ」
「何故?」
「何故って、それこそ何故だろ。愚問っていうやつだ」
男は両手を広げ、大仰に宣。
「君たちはどうして奴隷なんて存在があるのか、そういう疑問を抱いたことはないのかい? そして、そういう疑念を一度でも持ってしまったらもう駄目さ。そういう考えを持ったのなら、これは認めちゃいけないことなのだということくらいわかるだろう?」
探る様な視線である。
ゴーグル越しだ。しかし、その瞳がコタンとレオの様子を油断なく見ているということを肌で感じる。
「そこの少年は当事者だ。だから、否応なしにも巻き込まれた。しかし御嬢さん、君はどうだい? どうしてそこに居るのかい? どこからどう見ても裕福な階層に居るお嬢様にしか見えないというのに」
「私は……」
コタンは言い淀んだ。
「私は、私がそうしたいと思ったからそうしただけだわ。全てが自らの意思によるものだから、誰にも指図などされていない。ただ、自分の為に自分で行動をしただけだもの」
「成程、実に解りやすい理由だ。どうやら、御嬢さんはその少年のことをかなり気にかけているようだ」
「そんなつもりは……」
「嘘はいけない。だって、そうじゃなければ少年の時になってどうして行動を起こしたのかい? 御嬢さんの力があれば、初めから思うようにできていた筈だ」
想像以上に頭の回転が速いようだ。コタンの一歩上を行く物言いに、コタンは口を噤んだ。
「けどまぁ、オレには御嬢さんのように小さな女の子を苛める趣味はないよ。だって、酷だものね。そのくらいしか人生経験がない御嬢さんに色々と求めることは」
にっと笑むと、「だからこその提案だ」と彼は言う。
「どうだい? オレ達と一緒に行かないかい?」
「どういう意味なの?」
「何、簡単さ。オレ達と一緒に奴隷の解放を目指さないか?」
まるで買い物にでも誘うような軽い言い方にコタンは口を開きかけたが、「お嬢様、いけません」と後ろから肩を掴まれた。
「旦那様と奥様がどんな顔をなさるとお思いなのですか」
それは定型文句ではあるが、コタンにとっては最も痛いところである。
この世界に不慣れなコタンに良くしてくれた。沢山優しくしてくれた、衣食住に身の安全の保障をしてくれた。最近はすれ違い気味ではあるが、それでも親子としての親愛の情は確かに受け取っていた。それだけでコタンの足を止める理由になる。
「おや、それじゃあ御嬢さんは一緒に行かないのかい? 多分、彼は一緒に来るだろう」
「勝手に決めつけるな」
「けど、行くところがないんじゃないかい?」
「それは……」
確かにそうだ。奴隷であった彼らは、これから自らの居場所を確立していかなくてはならない。故郷に帰るつもりの者ならまだ良いが、何らかの理由で帰られない者だっている筈だ。
「取り敢えず、まぁ、これはある意味人生の転機に関わることだ。今すぐ決断しなくても良い。けど、話ぐらいはしてみないかい? それだったら別に問題ないだろう?」
頷きかけた所を、掴まれたままの肩が痛みを訴える。強い力だ。今までに見たことのないような目で彼はコタンに訴えかけていた。
「いけません」
「おいおい、そんなに頭ごなしに否定するなよ。可哀想だろ」
「貴方は関係ない筈です。これはこちらの問題なのですから」
「そうかもしれないが、御嬢さんは既に己の考えを持っているようにオレには見えるんだけどなぁ」
相変わらずの探るような視線である。向けられる対象が自身ではない為に、彼の軽さの裏に見え隠れする異様なまでの警戒心の表れが見て取れる。
「ですから、貴方には関係ない筈です。お嬢様は今後、この街を背負って立つ存在になるのですから。その為には、今から正しい教養が必要なのです」
「正しい? こんな異常なものを目撃してまでもそう言うのか? 呆れたご都合主義だな。あんたは、何が正しくて何が間違っているのか断言できるのか? 世間体なんかじゃなくって、己の物差しできちんと解っているのか?」
家庭教師は言葉に詰まった。悔しそうに唇を噛む。
この男は解っているのだ。常識なんてものは、所詮世間が作り出した平均値でしかないということを。だからそれを越える者は異常ときたされ、異端と見做されて追放される。それ故に、その本当の意味で正否をつけることなんて誰にもできやしないのだ。
「お頭、誘導を完了しました。そろそろお暇した方が……」
声をかけられ、男は「おう」と応じた。そして、「さて」と向き直る。
「どうする?」
街の外れの洞窟である。
なかなかの獣道の為、案外知られてはいない。遠くから見れば、草が入り口を覆い隠すほどに伸びているからだ。
そんな中に彼らのアジトはあった。
大人一人がやっと通れるくらいの上、目の前に居る男の頭が掠れるか掠れないかというぎりぎりの狭い道をランプが照らしている。岩肌に囲まれたそれは、自然が作り出した岩宿だ。
彼方此方に通路が伸び、どこからともなく声が聞こえてくる。しかし、それは微かな賑わいを感じさせていて、洞窟に反して暗いという印象はない。
「ここに住んでいるの?」
少なくとも、数十人という単位で人が居るように感じられた。あの時の元奴隷の数人はここの仲間内に入るらしく、それ以外は各々何処かに旅立ったようだ。そのメンバーたちは既にこちらに連れられたらしい。
「まぁ、あくまでも仮宿の一つさ。アジトは多いことに越したことはない。何があってもすぐに対応ができるからな」
ふーん、と妙に納得した。
隠れるところは少ないよりも多い方が良い。単純だが、実にその通りだ。
「さて、それじゃあ少し、話をしようか」
広い空間である。
先程の通路とは違い、天井も高い。そこにテーブルとイスが置かれ、壁の方には幾つものバスケットが置かれて生活臭がある。
「さっ、かけなよ」
促され、それぞれが椅子に座る。
「何から話そうか? 話題がないのなら、オレから話すけど良い?」
一応確認染みた言葉のかけ方ではあるが、それでもまずは自身が話すのだという感じが見え隠れしている。つまり、先に他の者から話題を振らせるつもりはないのがあっぴろげであり、ばればれだ。
「じゃあ、まずは今後の展望からかな? そっちの方が、この集団の目的が解りやすいだろ?」
やはり、誰にも確認することなく間髪入れずに言葉を紡いでいる。
「最終目標は、王に直談判を決めて奴隷制度を失くすことだ。そして、今はその為の準備期間っていうとことだ。以上」
「それだけ?」
随分と簡単だ。簡潔とさえいえるだろう。
「まぁね。目的は至ってシンプルだろ?」
「確かにそうですが、何時まで準備期間が続くのかまでは言えないのですね」
「言うねぇ」
あの後、コタンのことが心配だからとついてきた家庭教師はやはり頭のことを目の敵のようにしているようだ。
「けどまぁ、あんたの言う通りさ。だが、そう長くはないと思う。各地の方で 続々と準備は進んでいる。早ければ年内にでもクーデターを起こすつもりだ」
「つもり、だなんて曖昧な言葉を使うのですね。大言壮語。結局の所、自信がないのでしょう?」
「真面目な顔をしてお前も言うね。冗談を言うのもほどほどにしろよ」
「どちらが、ですか?」
「お前がとでも言いたいが、その挑発にはのらねぇよ」
彼は腕を組んで椅子に深く座りなおした。
「これでもオレは頭として多くの命を預かっているんだ。軽はずみな真似はしない。決行するのは、確実性が増した時だ」
「成程、馬鹿ではないのですね」
それっきり二人は口を噤み、妙な空気が流れた。
コタンはどうしようかと三人の顔色を窺う。そしてレオと目が合ったが、すぐに逸らされた。
「一つ良いか?」
軽く挙手した彼に、頭は「何だい?」と答えた。
「シン族って何だ?」
その問いにコタンも便乗し、「あっ、私も知りたい」と手を挙げた。
家庭教師の説明により、初めて彼のような人間を指す言葉を知ったのだ。その詳細を知りたいと思ってもそれは不思議なことではない。
「おかしな質問だな。自分の一族のことなのにわからないのか?」
「だから、そのシン族が何なのかがわからないから聞いているんだ」
「じゃあ、あんたはシン族ではないんだな」
「だからそう言っている。少なくとも、俺はシン族なんて一族のつもりはない」
何とも噛みあわない会話だ。方向が一方通行で地平線をいっている。
「そうか。だが、シン族の容姿を端的に上げるのなら少年のようになる。褐色の肌に銀の髪に赤い瞳。それがシン族特有の色だ。そして、その珍しい色合いから奴隷対象として狙われるようになった者達の一つだ」
「成程。それなら、あいつらが俺と間違えていても納得がいく」
「あと、オレも一つ聞きたいのだけど良いか?」
「何を?」
「少年の傷、何だか治りが早くなかったか?」
それはコタンも思ったことだ。蹴られたことと手枷足枷と少なくとも怪我をした要素は三つあった。しかし、彼には何一つとして傷がなかった。それは今見ても、そうであるということがしっかりと見て取れる。
「確かにそうだ。だが、似たような容姿をしているのならシン族にもそういう力があるんじゃないのか?」
「まさか。彼らは珍しい容姿をしているが、ただの人間だ。それに、そっちの御嬢さんのことも気になるねぇ。あの時、風は御嬢さんから噴き出していた」
値踏みするようなそれに、コタンもレオもしっかりと男を見据える。
「それは、私が人間じゃないと言いたいのかしら?」
「いや、御嬢さんは人間だよ。そうじゃなきゃ、他者を気にかけたりなんかしないだろう? けど、オレには二人ともただの人間には絶対に見えないねぇ」
「ただのかどうかはわからないが、俺は獣族と呼ばれる類の種族だ」
「獣族? 聞いたことがないなぁ」
首を傾げる姿を見て、コタンは家庭教師へと視線を移した。しかし、彼も首を横へと振った。
「獣族とは、文字通り獣の血を引いている一族のことだ。だから驚異的な身体能力を有している。それだけだ」
「それは凄い。だから、鎖だって引き千切れたわけだ。それで、御嬢さんは?」
「私は、アイヌ一族。一応は一族の中で巫女をやっていたから、その為に自然と対話をすることができるだけ。ある程度だったら、お願いすれば力貸してくれるわ」
「その一族も初めて聞いた。御嬢さんお付きさんは?」
問われ、彼は首を振った。
「旦那様と奥様に家庭教師をするようにと言われただけの、一介の使用人風情です。今でこそ家庭教師の真似事をしていますが、使用人です。お二人に呼ばれ、初めてお嬢様にお会いしたとき、お嬢様はまるで言葉を理解していらっしゃいませんでした。それどころか、道理はわかっていても常識はまるでわかっていなかったのです。知っていることは養女として引き取られたことと、お嬢様を連れて来た使用人たちも流れ物を拾った時に彼女が一緒に居たとしか聞いてはおりません」
「成程。あんたは流れ物か。いや、あんた達か」
感心したような声であった。
「まぁ、差し詰め、流れ者ってことか」
「流れ者?」
コタンとレオは揃って首を傾げた。
「流れ物というのは、そのままの意味から名づけられている。この世界の他にも世界があると言われていて、そこから時たま他の世界からの物が流れてくるんだよ。来るのは海から。そして流れてきたものは、こっちじゃまずお目にかかれないような珍しいものばかりだ。だから、そこに人が混じっていたところで何ら不思議じゃないわなぁ」
どうだと問われ、先に口を開いたのはレオだった。
「確かに、俺はあの日海で竜巻に巻き込まれた。そして、気が付いたら見知らぬ土地にいた。そのことを表すのだったら、それで間違いはない」
「あれ? でも言葉が……」
コタンはあれだけ苦労をして言葉を覚えた。しかし、彼はアクセントに少し特徴があるものの、しっかりと言葉を話せている。もしかして、似た言語を使っていたということなのだろうか。
そんなコタンの顔色を察したのか、彼は「いや」と否定した。
「教え込まれた。高級奴隷が、飼い主の言葉が解らないでは話にはならない。命令が聞けないからな。だから、値を上げる為に教えられた」
「それで、あんたはそのまま奴隷入りをしたってわけか?」
「あぁ。言葉が解らない以上、それを教えてくれるのならそのまま享受していた方が楽だ。その上、ある意味飢えない程度には食事は与えられたからな。だから、期を見て脱走するつもりだった」
「それはなかなかの判断だったな。冷静だ」
口笛が洞窟内に木魂し、鈍い音になって響く。
「自分の状況が解らない以上、迂闊に動くことや、抵抗するっていうのは案外危険なものだ。それをちゃんと理解しているとは、やるねぇ」
確かにそうだ。そこで適切に判断し、覚悟を決めなければ更に不味い状況に陥るということはよくあることである。だが、それを実行できる者はなかなかいない。何故なら、見知らぬということだけでもパニックになる要素であるからだ。だからこそ、それを見極め、行動できるというのは案外勇気が要るものだ。そして、彼はそれを実行できたということである。
だから目が死んでいなかったのだ、とコタンは思った。
彼の言っていることは負け惜しみでも何でもない。それは、彼が実際に行動を見せたことが大きな由来だろう。だが、それがなかったとしても彼の誰にも屈しない精神の前ではそう思わざるを得ないだろう。
「で、御嬢さんはこの街の領主様の娘になったわけだ。運が良いね」
「そうね。まだ、五つの時のことだったし」
「けど、御嬢さんも結構珍しい容姿をしているよね」
「それは、私の顔がのっぺりしているとでも? 平坦だとでも言いたいの?」
コタンの顔立ちは、他の人に比べると隆起が少ない。鼻は低いし、あまりぱっとしないものであった。
「違う、違う。そんな綺麗な黒髪と瞳は珍しいっていうことだよ」
「そうなの?」
「東の国にはよくある容姿だけれど、その東の国は他国とは殆ど交流しないんだよ。その為、御嬢さんのような子はこの国ではかなり珍しいものだ。だから、その色を持っているだけで奴隷狩りの対象さ。きっと、少年とどっこいどっこいの値段がつくだろうね。本当、御嬢さんは運が良い」
その言葉に、コタンはぞっとした。
あの時、もしも彼らがコタンにとって悪い人達であれば、コタンは疾うにレオのような立ち位置にいたことになるのだ。それどころか、彼のように優れたものを持っているわけではないのだから、彼のように思い切った行動もできなかっただろう。
本当に、コタンは運が良かったのだ。度重なった偶然に感謝を捧げなくてはならない。
「それでまぁ、雑談っぽい感じになってしまったが、どうしたいのかは決めたのかい?」
どうするのか、ではどうしたいのかで彼は問うた。それを聞き、コタンは意地悪だなぁと思った。
「俺は、どうしようかということはよくわからない。だが、どうしたいのかということは決めている」
「へぇ、それは?」
「俺は間接的にとはいえ、コタンに助けられた。それに、彼女も俺と同じように他の世界からきているのだろう? それが同じ世界なのかどうかはわからないが、彼女と居ようと思う。だから、彼女についていくつもりだ」
「それは、御嬢さんの判断に任せるということか?」
「あぁ」
「御嬢さんと少年では境遇が違うというのに?」
「あぁ、それでもだ」
頷くのを見て、コタンはどきりとした。
嬉しい。しかし、コタンは何もしていないも同然であった。煽ったのはコタンであるが、ケリをつけたのはレオだ。それに、コタンがあそこで何もしなければ、レオはもっとうまくできたのかもしれない。
「決めるのが私で良いの?」
「あぁ」
「そう。けど、私は何もしていないわ」
「そうかもしれない。けれど、嬉しかった」
それが全てであるというような、断定的な言い方であった。
「この世界に来て、初めて誰かと向き合った気分だった。それに、発破をかけられたのも悪くない。あの物言いは好ましい」
何せ獣だからな、とレオは口角を上げて笑んだ。確かに獣のようだった。たったそれだけで、野性味溢れているように見える。
「それに、俺の一族の言葉に『万事に起こりえること全ては必然である』『直感こそが本能である』『選ばれるのではなく選び取れ』というものがある」
「えっと、どういうこと?」
「一つ目のやつは、偶然などではなく、起こったことは全て起こりえることとして起こったことだ。だから積み重なったものは与えられるべき者に与えられたことだ、ということ。二つ目はそのまんま。これだと思ったことは大抵が正しい。本能というものは、大抵自分に良いように働いているのだ、ということ。三つ目のものは、自分に良いようになれと待つな。己の力で掴み取るように行動せよ、ということ。どれも獣らしい言葉だろう? 俺の所の教訓って大抵がそんなものだよな。何せ、先人が経験したことを言葉として残しているんだから」
快活に彼は言うが、正にその通りである。彼の一族は正しい。
「私は……」
コタンはゆるやかに唇を開いた。