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流れ者  作者: saki
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其の壱

 鏡の前で髪を結わえる。

 夜の色だと称される髪に、この辺りではまず見かけない故郷の刺繍が入った布を首の後ろで無造作に巻きつけた。額には過去、帯として使っていた刺しゅう入りの色褪せた布を巻けば完成だ。

 よし、と鏡の前で呟いた。

 部屋のドアが控えめな音でノックされた。

「お嬢様、朝ですよ」

 ドアを開けたメイドに、「えぇ、起きているわ。おはよう」とコタンは声をかけた。

「おはようございます」

 メイドからも挨拶があったが、コタンの頭に巻かれた布を見つけて「まぁ」と眉を上げた。

「お嬢様、何度も申しますが、その奇抜な格好は止めてくださいませ」

「あら、どこか変かしら?」

 鏡の前で回って見せる。

 スカートの裾が翻った。

 ブラウスにリボンタイを巻、長めのスカートと編み上げブーツを履いた姿はちょっと裕福なお嬢様といった姿だ。何処にも不自然な所はない。

「その頭の布と、髪を結っている布のことですよ」

「似合わないかしら?」

「いえ、お嬢様に似合わないものなどありません。しかし、年頃のお嬢様がそんな奇抜な格好をなさらないでください。もっと綺麗なリボンもありますし、髪留めだってあるというのに、何故好き好んでそんな恰好をなさるのですか」

「年頃って言うけれど、私はまだ十二だわ。それに、私の故郷ではこれが普通なの。確かにここでは浮いているけれど、止めるつもりはないわ」

 きっぱりとした言葉と笑顔で言われ、メイドは肩を落とした。

 このやり取りは毎日のことだ。それでもメイドはここの一人娘であるコタンのことを心配して言っているのだから、コタンとしては悪い気はしない。

 コタンはこの家の養女になった。

 ここに来て七年。今ではすっかりと言葉も堪能になり、所作だって他の者に見劣りしないものを身に着けた。それ以上のことを望まれたって、コタンは自分の身の丈以上のことをするつもりはなかった。

 それはコタンの気質に由来するものだろう。

 幸いなことに、養父と養母は理解のある人だった。ある日突然現れた、言葉も身の回りのことさえも解らない女の子を甘やかすことはあっても、責めることはなかった。叱ることは時にはあったが、それでも彼らは誠実であった。だからこそ、コタンは今ここでこうして生きているのだ。

「お腹が空いたわ。さぁ、食堂へ行きましょう」



「お父様とお母様は?」

 ナイフとフォークで目玉焼きを切り分けながら給仕に尋ねれば、彼は「既にお出かけになっておられます」と答えた。

「あら、こんな朝早くから?」

「はい。旦那様はクラブの方である鷹狩に、奥様は婦人たちの会があるようで、お二人とももうお出かけになりました。数日はお帰りにはならないとおっしゃっておりました」

「こんな朝早くからなんて、大変ね」

 まだ七時を過ぎた頃だ。口ぶりから察するに、屋敷を出たのはまだ夜が明ける前なのだろう。

「貴族って大変ね」

 シミ一つとしてない、真っ白なテーブルクロスが引かれた長いテーブルに着いているのはコタンただ一人だ。最近は社交界のシーズンになった分、二人の忙しさは増している。最後に三人で食事をしたのは何時だろうか、と記憶を辿ることとなる。

「お言葉ですが、お嬢様。お二人は御立派な方々ですよ」

「それは知っているわ」

 コタンだけに止まらず、使用人や領内の人間に対する態度を見ていれば誰だって解る。だからこそ、港町でありながらもここはこんなにも犯罪が少ないのだ。

「それに、お嬢様ももう少しで社交界デビューでしょうから、気を落とさないでください」

 そのことに関しては、あまり乗り気ではないので曖昧な返事を返した。生まれが生まれなだけに、コタンはどちらかというと質素なものを好む。派手なものや振る舞いはあまり好みではないのだ。性分ではないと感じている。

背後で咳払いが聞こえた。

「お嬢様、今日のご予定ですが……」

 斜め後ろに立った執事の声を聞きながら、コタンは黙々と食事を続けた。



 午前中の勉強と昼食を終え、コタンは気晴らしに街へと出かけた。

 家庭教師や使用人がついてくると楽しみが半減する為、こっそりと外へ出る術を身に着けた。今ではもう諦めがついたのか、抜け出すことに関してそこまでぐちぐちと言われることはなくなった。

 潮の香りがする。

 室内でも微かにはするのだが、濃厚なそれを嗅ぐと懐かしいものが込み上げてくる。

 海猫の鳴き声がする。

 雲一つない空は日差しが強いが、その分蒼さが際立って美しい。

 レンガ造りの家が連なる通りを抜けると、市場が開かれている。港町なだけあって、様々な人種の人間が行き交うのを見るだけでも楽しい。

 相変わらずの活気だ。あちこちから威勢のいい声が聞こえてくる。

「おや、嬢ちゃんまた抜け出したのかい?」

「こんにちは」

 馴染みとなった果物屋の屋台の親仁に声をかけられて頭を下げる。それどころか、他の方からも「お嬢ちゃん、寄って行きなよ」と次々と声がかけられる。

 みんな、コタンがこの街の一番高いところにあるお屋敷の娘であるということを知っているのだ。そうでなければ、こんなに上等な服装をした物はなかなかにお目にかかれないからだ。

「今日も一人かい? 供もつれずに歩いて怒られやしないのかい?」

 からかうような言葉に、「まぁね」と返す。

「私が頻繁に抜け出すから慣れちゃったみたい。けど、ちゃんと予定の時間には間に合っているから何も言われないわ」

「そうかい。案外真面目なんだな」

「当然よ」

「じゃあ、一人で抜け出すのは止めたらどうだい?」

「それは無理ね。だって、こんなに良い日に外に出ないなんてもったいないわ。誰かと出たら、それこそいちいち何かを言われて楽しめないもの」

「そりゃあ、違いないな」

 豪快な笑いを前に、「でしょ」と同意する。

「まぁ、取り敢えず食っておけ。今日入ったばかりの新鮮なやつだ」

 色艶の良いリンゴを投げられ、それを受け取る。

「ありがとう」

 屋台と屋台の切れ目の壁に背中を落ち着かせると、リンゴを袖で拭いた。そして、丸のままのそれにかぶりついた。

 口内に甘みが広がる。

「美味しい」

「だろう」

 年頃のお嬢様なら絶対にやらない行為だ。だが、コタンはそれを平然とやってのける。それどころか、木登りだって軽々とこなすだろう。それが市場の人には良いらしい。気取らない姿だからこそ、受けが良いのだ。

「そういえばさぁ、何か今日はやけに人が多くない?」

「そう言われればそうだな。多いっていうよりは、色々な人種が混じっているって言う感じか?」

 その言葉の通り、こうして市場に毎日足を運んでいるコタンであるが、今まで見たことのない人種を今日はよく見かける。それどころか、彼らは一様に同じような恰好をしている。

「血の臭いがする」

 そう、誰も気には留めていないようだが、彼らからは血臭が漂っていた。

「何か言ったか?」

「ううん、何も」

 コタンは首を振った。

 しかし、疑惑というものは簡単に消えるわけがない。一度、頭に浮かんだ考えを否定するというのは難しいことだ。

 市場を行き交う人達に油断なく視線を這わせる。

 何処からか、ざわめきが聞こえてきた。

 普段のものとは違う。何処か、きな臭いような戸惑ったものであった。

「おい、ありゃっ……」

 親仁の声につられ、視線の先を見た。そして、コタンははっと息を呑んだ。

 人間だ。

 人間が鎖で繋がれていた。

 それも一人や二人ではない。何十人も、それどころか何百人という人が鎖に繋がれて歩いている。

 手には枷をし、足には重りがつけられている。鎖は前後の者の足と繋がっていて、あまり早くはないペースで進んでいる。

 服もぼろい。寧ろ、ぼろい布を身体に纏っただけのようだと表現する方が近いだろう。

 みんな一様に疲れ切った顔をしていた。

 若い男も女も、老いた者も子供だっている。だが、みんな生気のない顔をしている。今にも倒れそうだ。

 あっと思った時には、コタンの目の前で子供が倒れた。しかし、それを目ざとく見つけた、あの初めて見た人種の男が子供を蹴った。

 子供が吹き飛んだ。

 容赦のない蹴りであった。

 だが、鎖で繋がれているのだから前後の者が倒れない限りは子供も列から離れることはない。

「何やっているんだ、このうすのろが」

 訛りが強くて聞き取り辛かったが、それでもそんな風に罵倒しているようにコタンには聞こえた。

 誰一人として助ける者はいない。

 市場は今や静まり返っていた。異様な空気が流れている。

「奴隷だ」

 呟くような小さな声で親仁が言った。

「奴隷?」

「あぁ。奴隷を先導している奴と、その周囲に居るのは人買いだ。あいつらが人間を集め、それを人間に売るんだ。差し詰め、これは商品紹介っていったところか?」

 それを聞いてコタンは目を見開いた。人間が人間を商品とするなんて、家庭教師の話でちらりと聞いたことはあっても見たことがなかった。だから、本当にあることだとは思わなかったのだ。それどころか、それについては小耳に挟んだ程度の知識しか持っていない。家庭教師はこの話があまり好きではないようで、軽く流されてしまったからだ。

「人間なのに、同じ人間を売るの?」

「そうだ。奴隷は合法だ。そして、奴隷になった奴はもう人間じゃない。犬や馬や牛なんかと同じ家畜扱いだ。だから奴らに関しては、家畜と同類であり、人間以下の存在だ」

「何で? 人間は人間でしょ?」

「それが普通の考えだ。だが、そう考えない奴らはたくさんいるんだ」

「それじゃあ、これが公然としたことだというの?」

「あぁ、そうだ。合法だと言っただろう。けど、あんまり大っぴらに行われることじゃない。だから、行われるとしたら競売が始まる」

「競売って?」

「一つの物に対し、欲しい者が値段を言っていくんだよ。それで最終的に最高額を言った者がそれを競り落とせるっていうわけ」

 本当に商品なのだ。それだったら、この市で行われる競とまるで変わりがない。

「けど、人間なんてどうやって集めるわけ?」

「金が無くって売られる奴だっている。希少な種族であれば、狩られる場合だってある。その時その時さ。ただ言えるとしたら、捕まった奴は運が無いな。何せ、奴隷商人に捕まったら、誰だってその商人の持ち物さ」

 コタンは首を傾げた。

「どうして? それだったら何でもない人間が紛れ込んでいるかもしれないじゃない」

 関係ないんだ、と親仁は言う。

「表じゃどうにもできないような奴らの集まりなんだ。身元なんてわかりやしない。それどころか、臭い物には蓋をするっていう状態さ。みんな、自分のことを穿り返されたくないからな。だから、誰も関わろうとはしないんだ。仮に裕福な子供が攫われたとしても、下手に手を出すことはできない。泣く泣く諦めるしかないのさ」

「何、それ。変なの」

「奴隷市場が開かれるのか」

 胸糞悪い、と親仁は吐き捨てた。

「奴隷市場……」

 やけに耳に残る声であった。

 コタンは無感動に目の前の光景を見つめた。

 コタンは運が良く、この街で一番のお屋敷に拾われた。しかし、偶然と幸運がこんなにも重ならなかったら、あの中に居たのかもしれない。あそこに紛れ、もう誰かの所有物にされていたのかもしれない。

 背筋が震えた。

 これは紛れもない恐怖だ。

 だが、それと同時にあそこにいなくて良かったと思う自身が居ることをコタンは理解していた。人間なんて、所詮他人事なのだ。自分に火の粉が降りかからなければ、多少のことは目を瞑る。だから現に、晒し者になっている彼らのことを遠巻きに眺めているだけなのだ。

 その考えを抱いているということが無性に遣る瀬無く、瞳が何処か遠くを見つめる。そして、ふと銀色が目に入った。

 コタンよりも年嵩の少年である。十代半ばであろうか。

 まだ発達途中の肢体は細く、しかししなやかな筋肉に覆われている。

 褐色の肌、白銀の髪、燃えるような赤い瞳。精悍な顔立ちではあるが、何処か動物的な野性味の溢れる鋭い雰囲気をしていた。

 獣のようだとコタンは思った。

 ホロケウ――彼は狼のようであった。

 一瞬、その瞳とコタンの瞳があった。

 息を呑んだ。

 鮮烈なまでのそれに、コタンは目を奪われた。だが、彼は動いているのだ。すぐに視線は逸らされた。

「ねぇ、奴隷って高いの?」

 気が付いたら、コタンはそう尋ねていた。親父はさっきの話の延長だと思ったのか、「そうだな」と相槌を打つ。

「そりゃあ、まぁ、ぴんからきりだな。中には子供の小遣いでだって買えるような場合もある。だが、見目が美しいとか希少とか能力が高くなると値段は高いものさ。誰だって、欲しいからな」

「そうなんだ」

 彼は一体、幾らの値段がつけられるのだろうか。あれだけの器量だ。さぞかし、高値がつくのだろう。

「けど、お嬢ちゃん、そんなことを聞いてどうするんだい」

「えっ、ちょっとね」

「まさか、奴隷市場に行くつもりじゃないだろうね」

 ぎくりとしたコタンに気が付き、「お嬢ちゃんねぇ」と大仰な溜息が吐かれた。

「何、好みの男でも居た? それとも好奇心? どっちにせよ、止めておきな。あそこはまともな神経でいられる所じゃないのだから」

 その具体的な言葉に、コタンは首を傾げた。

「どうしてそんなに詳しいの?」

 ただの興味本位だった。しかし、親仁の顔から感情というものが失せた。

 真っ青である。

 彼は自分の服の胸元を掴んだ。引っ張られた分だけ服と皮膚との間に隙間ができ、コタンの目には不自然に隆起した変色した肉が目に入った。



 屋敷に帰ると、すぐに部屋に閉じこもった。

 周りの声なんて関係ない。

 部屋に鍵をかけてじっと蹲った。

 髪に手を当てて掻き毟り、その拍子に額に巻いた布が解けた。

 刺繍が目に入る。

 そして、コタンははっとした。

 唐突に思い出したのだ。

 自分がアイヌ――即ち、人間であるということに。

 アイヌというのは人間である。コタンの一族は、人間という言葉を自ら誇って生きている一族なのだ。

 それが解ったら、もうごちゃごちゃ考える必要なんてない。

 コタンはコタンでしかないのだ。

 コタンは立ち上がった。

 部屋にある大きな姿見を見ながら、再び額に布を巻き直した。


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