序
コタンの一族の名はアイヌという。
アイヌとは即ち人間である。そして、コタンという名は村を意味する。
コタンという名は、山に捨てられていた赤子を拾った長老が付けた。その由来は、彼女自身が人々を温かく受け入れることのできる器であり、また人々と共に生きることができる存在であるということを願ってつけたそうだ。
コタンは村で特殊な位置に存在していた。ずっと年上の大人たちも長老もコタンには敬意を払って接していた。
コタンは巫女であった。
カムイ――つまりは、神に愛された娘であった。
自然と対話するのを得意とする一族の中でも特異の存在であった。彼女の場合は自然と対話するのではなく、自然自身がコタンを守ろうと自らの脅威を振るうのだ。それ故に、コタンはアイヌ一族の中でも特別な位置に居るのであった。
コタンの齢は五つ。
最近のお気に入りは舟遊びであった。
皆コタンに遠慮をし、コタンのことを止める大人などいやしない。
今日もコタンは海辺に船を浮かべ、その上で寝転んでいた。陽気な天候も相まって、うとうとと自身も舟をこぎ始めていた。
そして漸く目が覚めた頃に辺りを見回し、ぽかんと口を開けた。
陸地が何処にも見えなかった。見えるのは水面しかない。
杭に繋いでいた筈の小舟が流されていたのだ。
慌てたのと驚きと不安と焦りとで、コタンの大きな瞳には涙が溢れてきた。
何処か遠くで、神鳴りまで聞こえてきた。
海で天候が荒れるのはよくあることだ。雨雲があったとしても不思議ではない。
いつもならこんな時、精霊たちがどうにかしてくれるものなのだが、今日は不思議とその存在が感じられなかった。
いよいよ心細くなってきた。
その時、コタンの目は信じられないものを見た。
渦である。
凪いだように穏やかな水面に、ぽっかりと黒い大渦が渦巻いているのである。底が見えない程の大渦であった。
こんな小舟など巻き込まれたらどうしようもない。
案の定、コタンの乗った小舟は渦へと引き込まれた。そして、その恐怖から目をぎゅっと瞑った。
いくら待っても何もないということに気が付き、コタンは恐る恐る瞳を開いた。そして、船が海岸に打ち上げられたことを知った。
助かったのか、それとも白昼夢でも見たのかコタンにはわからない。ただ、降りた砂浜の感触が現実であるということを伝えていた。
見覚えのない海岸であった。
植物さえも見たことが無かった。
コタンが住んでいた場所ではあんな真っ赤で大きな花は咲かないし、木々だってあんなに大きく枝を広げたりはしない。これでは雪が降った時、折れてしまう。
ここは一体どこなのだろうかと瞠目する。
ふと、話し声が聞こえた。
聞き覚えのない言葉であった。
それでも声のした方へと行ってみると、そこに居たのは見たことのない人間であった。服装もそうであるが、黄金色の髪や赤銅色の髪や、青天のような目に新緑のような瞳は見たことがなかった。それどころか、背がとてつもなく高い。こんなに背が高い人間は村でも見たことがなかった。
そこに居た二人の男達はコタンに気が付いたのか、何事かを話しかけてきた。しかし、何を言っているのか理解ができない。手を伸ばされ、コタンは一目散に駆けだした。
男達が追ってくる。そのことがコタンを恐怖させた。
しかし、大人と子供だ。あっさりと追いつかれ、肩に手をかけられた。
コタンは腰に下げたマキリを抜いた。
「来ないで!」
必死に叫んだ。
相手は小さな女の子が小刀を抜いたことに驚いた。しかし、その切っ先がみっともなく震えているということに気が付くと、両手を挙げて笑みを浮かべた。
友好的な態度を示そうとしているのである。そのことに気が付いたコタンは、マキリを握ったままではあったが、男達に向けるのを止めた。
男達はほっと胸を撫で下ろした。その後、何かを言ってはいたが、コタンは男達をただ睨みつけるだけだった。
これでは埒が明かないと思ったのだろう。男達はついてくるようにと身振り手振りで言い、それが何となく伝わって来たコタンはその後に続いた。
言っていることは意味が解らなかったが、少なくとも、自身に危害を加えるつもりはないのだということは理解ができた。
男達に続いて歩いて行けば、少し舗装された道がある。そこを少し進んで行けば、見たことのない造りの建物があった。
家のようだ。
アイヌの家は木を使ったものが主流である為、こんな造りの家を見たことは一度たりともなかった。それどころか、石にも似てはいるが、材料そのものにも覚えがなかった。
家だと思わしき建物が幾つも道なりに並んでいるのを見るに、村のようだ。しかし、それにしても建物の数が多い。しかし、目を凝らすほど遠くには田畑も見えた。
男達はまた何かをコタンに言った。しかし、相変わらずそれが何なのか理解できないままに後に続いた。
どれくらい歩いただろうか。
それは大きな建物であった。コタンの村で一番大きな家よりも更に大きい。それどころか、その建物の周りを草花が囲み、池さえもがあった。
これも家なのだろうかと、コタンはぽかんと口を開けた。
入り口なのだろうか。男が吊るされた紐を引くと大きな音が鳴り響いた。聞いたことのないそれに、身体が強張る。
間もなくして、ここまで一緒だった男達よりも明らかに身なりの良さそうな初老の男が入り口らしきところから出てきた。
大仰に一礼がされる。
彼は何かを言った。そして、横の男達はその中へと入るようにと促してきた。
警戒心が沸き起こる。
ここまで何もされなかったらといって、これから何かをされないわけではない。知らない人に着いてきてしまったということを今更ながらに思いだし、身を強張らせた。
そんなコタンの様子に気が付いた男が背中を軽く押してきた。にこりと笑んでいる。
コタンはぐっと堪えた。そして、何事もなかったかといわんばかりの堂々とした態度でその後に続いた。
中に入って履物を脱がない男達に驚いた。もっとも、最初から裸足だったコタンには関係のない話ではあるが。
これまで見たことのない調度品や、壁に飾られた絵や、天井から吊るされた半透明の石のようなものなど、とにかく何が何だか解らないものが室内には多い。
一際豪奢な入り口らしき所で、初老の男がそれを叩いた。何かを言った。そして、そこを開けた。
中に居たのは一組の男女である。
男達は二人に何かを言うと、女の方が驚いたように目を見開いた。それからコタンに向かって何かを言ったのだが、首を傾げるしかなかった。
しかし、何を思ったのか、女はコタンを抱きしめた。
これにはコタンも目を見張った。
行き場の無い手を彷徨わせていると、初めから室内に居た男が頭を撫でてきた。
温かい。
コタンは素直にそう思った。
この二人はコタンに好意を持っている。少なくとも危害を加えることはないのだろう。
それが解ると、何だか気が抜けた。
後から後から涙が零れてくる。拭っても、拭っても執拗なまでに溢れてくるのだ。
コタンは泣いた。
慟哭した。
その温もりに身を任せ、ただ只管泣き続けるのだった。