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五、さむぞらとまれびと

 温い水にどっぷりと浸かったようなけだるい気分の中、小さな足音が耳に届くのを何とは無しに聞いていた。

 しゃり、しゃり、と砂利を蹴る音は規則正しく、ゆったりとした調子で続けられる。

 未だ半分夢の中に沈んでいた意識は、その足音の接近と修理したての戸を叩く控え目な響きで、はっ、と覚醒した。


「――もし。雁谷殿、起きておいででしょうか」


 小さく、されど厚い戸を挟んでのものとは思えぬほどにはっきりと届いたその声は聞き覚えのない女性のもの。

 上体を起こし、霞む眼を擦って周りを見回せば、固く閉ざされた雨戸の隙間から一筋の光がうっすらと差し込んでいる。日の出からまだ間もない頃であろう。

 少し離れたところに敷かれたもう一組の布団には、りつが起きる気配も見せずに静かな寝息をたてている。


「少し待ってくれ。寝起きで何の支度も出来ていない」


 眠るりつを起こさぬよう小さな声でそう答え、見苦しくない程度に身を整える。

 服を変え、口を漱ぎ、跳ねた髪を手櫛で押さえ――都で武士としての暮らしをしていた頃ならまず父上殿の叱りは免れぬような乱雑なものではあるが、一先ず体裁は整った。


「済まない。待たせたな」


 草履を履いて戸の外に出ると、そこには頭巾を被り、鮮やかな朱で彩られた着物を身につけた女がいた。

 女は自らの爪先を見つめるかのように俯いているため口元しか見えず、その顔立ちを窺い知ることができない。


「して、このような朝早くから何用だ?」


「少々長い話になりますが――今日は雨上がりで雲一つ無く晴れたよい天気ですし、折角ですから散歩でも致しませんか?」


 来訪の理由を問うと、女はちらりと戸の内を伺うようなそぶりを見せてからそう提案した。

 屋内には就寝中のりつがいる。昨日の雨の中を延々と走り回っていたのなら疲れも溜まっているだろう、話し声で起こしてしまっては気の毒であるしそうすることとした。

 二、三歩後ろを着いてくる女の気配を感じつつ、村へと続いている林道をゆったりとした歩調で進む。

 亀の如き歩みの理由には寝起きで身体が重いというのもあるが、それよりも昨日の雨でぬかるんだ地面によるところが大きい。

 足を踏み出すごとに聞こえてくるぬちゃぬちゃという粘着質な音と、草履越しにも伝わる柔らかな感触が、これ以上速く歩くことを躊躇させる。


「さて。そろそろ話して貰ってもいいだろうか」


 背にした住家が木々に遮られて見えなくなる程の時を挟んでようやく本題に入る。道の所々に残された茶色の水溜まりを避けた。

 女はええ、という短い返事をして、神妙な面持ちで口を開いた。


「しかし、その前に――雁谷殿はこの村、ひいては一帯の山々についての歴史をご存知ですか?」


「この地に来てまだ日が浅い故知る所ではないが、それは今回の話と関係があるのか?」


「はい、とても深い関わりが。ではまず、その辺りから話を始めさせていただきます」


 ふっ、と一陣の風が吹き、朝の冷気に晒された身体がぶるりと震える。

 女はこちらに合わせたゆったりとした歩みでつかず離れずの距離を保ちながら、滔々と話し始めた。




**




 まだ人の姿はなく、鬱蒼とした薄暗がりの満ちる森と様々な獣たちがこの地を支配していた頃。いえ、今は人が支配しているだとかいった訳ではありませんが、とにかく遥か昔のことです。

 ここから二つ先の山で、新たに鉱脈が発見されたとのことで、大勢の人がやってきました。

 やってきた人々はまず開けた場所を探し出して木々を払い、岩を取り除いて地を均し、そこに拠点となる小さな村を作り出しました。

 それから鉱石を掘り出すために次々と地を掘り返し、また精製のために昼夜を問わず火を焚き続けました。

 その地に眠っていた鉱石は本当に質が高く、その噂を聞き付けた商人や労働者たちが次々と集まって村は自然と大きくなり、採掘の規模もまた拡大されていきました。

 しかし、村が出来てから数年の後、村の活気も最高潮に至ろうかというころにある者たちがそこを訪れました。

 彼等はたった三人ばかり、外見も何の変哲もないように思われましたが、しかし村に訪れる他のものたちとはどこか違う空気を纏っていました。

 人々の奇異の目を意に介すこともせず、彼等は真っ直ぐ鉱山の一切を取り仕切る者の元へと向かいました。

 村長を兼任するその男は突如訪れた身分も知れぬ者達のことを、どうせ面倒事でも運んできたのだろうとして部下たちに追い払わせました。

 しかし、三人はそれを無視して建物の中まで押し入ると、静かに、されど怒りを秘めた口調で言いました。


『お前達の身勝手な振る舞いにより山は弱っている。森の木々は次々と切り倒され、川の水には鉱毒が混じり、絶えず立ち上る煙に空は澱んでいる。

 私達は人間を特別に拒むつもりはない。今まで何も手を出さなかったのがその証拠である。だが、お前達は私達が許容できる範疇を大きく逸脱した。

 故に、私達は自身の生活を守るため、この村に選択を迫る。

 一つは、山を苦しめる行為を今すぐに止め、私達との共存を再度目指す道。

 一つは、私達の要求を蹴り、山にもたらした害の責任を、その身をもって取る道。

 どちらを選ぼうとお前達の勝手だが、その選択には多くの命が関わるということを覚えておけ』


 三人は一方的にそう言い放つと男の返事を待たずに建物を出て、そのまま村を後にしたそうです。

 村長はしばし訳も分からず呆然としましたが、結局は素性も知れぬ者達の言葉、何ら気にすることはないと結論を下してこれまでと変わらぬ生活を続けました。


 それから、ほんの十日程の後。

 あれほど活気のあった村は、もはや廃村の如き様相を晒していました。

 村の中心を走る大通りに人の姿は無く、立ち並ぶ家屋からは苦しげなうめき声が絶えず漏れ聞こえてきました。

 鉱夫のみならず、何らかの形で鉱山に関わってきた者達が次々と体調を崩し始めたのです。

 その事態を見て村長は酷く焦りました。今までも体調を崩した者は少なからずいましたが、このような短期間で大勢が倒れたのは初めてだったのです。

 村長は以前訪れた三人の言葉をふと思い出しましたが、その頃はまだそんなはずはないと考えていました。

 しかし、更に二十、三十と日を過ごすうちに、村長はあの者達の語った話は真実であったと思い知らされることとなりました。

 新しく鉱夫を雇っても三日と持たずに体を壊し、木々を倒したきこりは熱に倒れ、村の商品を仕入れた商人は近い内に必ず不幸が訪れました。

 被害は収まるばかりか更に拡がり、ついには村に立ち寄るだけで何らかの災いを受けるまでになりました。

 呪われた村として噂も広まり、村の加工品の商品価値も大幅に下がってしまい運営はどうしようもなくなり、村長は鉱山の閉鎖を決定し、更には村も放棄することとなりました。

 荷を纏めて村を離れようとした時、ふと村長が振り返ると、そこには三匹の獣の姿がありました。

 山犬に白兎に、巨大な猪――奇妙な取り合わせでしたが、それらは微動だにせず村を去る人々の列を見詰めていたそうです。






**


「そして、今から五十年ほど昔、人は例の鉱山から僅かに離れたこの山に再び集まり、新たに集落を作ったのです」


 女は変わらず静かな調子でそう語り続ける。


「新たにやってきた人々はこの話を心得ていたため、山を害する行為は出来得る限り慎みました。

 木々の伐採は必要な分に留め、無益な殺生は避け、山との調和を乱さぬよう穏やかな生活を心掛けました。

 全ては山の災いを恐れたが故、ひいては――」


 女はそこで一旦言葉を止め、そして――


「山の主を、その超常なる力を、畏れたが故に」


「――――っ!?」


 ぞくり、と、背中に冷たいものが走った。

 振り返ると、女はやや俯いたまま足を止めている。相変わらずその顔を窺うことはできないが、その小さな姿からは強い圧迫感が発せられていた。


「分かりますか? この山の平穏は主の名に依って成り立っているのです。主は絶対の力の象徴として、手を出すことの能わぬ存在でなくてはならないのです」


 意識せずに喉が鳴る。何故、この女はそのような事を言い出したのだろうか。

 穏やかに抜ける風に、ざわ、と擦れた枝葉が音を立てる。


「それが、私と何の関係があるんだ?」


「逆に聞きますが、今の話が本当に自分と関係のないことだと思っているのですか?」


「何を」


 言っている、と続けるよりも先に


「この地の成り立ちも知らぬ余所者の身でありながら」


 言葉と、


「我らが主を、いや、」


 拳と、


「我が父を殺した貴様が、関係ないとでも?」


 殺意、が。

 音もなく、突如襲い掛かってきた。


「っ、な――!」


 女は歩いて数歩の距離を一瞬にして詰め、そのままの勢いで振りかぶった拳を目の前で繰り出そうとしている。

 なんの小細工もない一直線な攻撃。これでも武家に生まれ、一通りの武術を修めた身である。不意を突かれたとはいえ、普段ならいくらでも対応ができたはずであった。

 しかし、雨上がりのぬかるんだ足場と、それを無視するかのような女の想像を絶する加速によりまず回避が封じられた。

 次に女の拳の狙いが体の中心である鳩尾であったために受け流すことも出来なくなり、すなわち受け止める以外の対処法が残されていなかった。

 咄嗟に腕を交差させ、重心を落として体を安定させる。とはいえ所詮は女の細腕、たいしたことはないだろうと高をくくっていたのだが、次の瞬間。


「っ!?」


 交差した腕の骨がみしり、と軋んだ音を上げ、上体が大きく後方へと押し込まれていた。両足が地面と離れる。


「がっ!」


 風景が後方へと吹き飛んでいく。それでもなんとか倒れることなく着地するがそのままの勢いで後退し、硬い木に背をたたき付けたところでようやく踏み止まる。


「ほう、今のを受け切ったか。多少は骨があるようだな」


 追撃を警戒したが、女は拳を振った場所から動くことなくそのまま自然体で立っていた。ただし、その顔にはこちらに対する強烈な敵意が張り付いていたが。


「お、前……あやかしの類か?」


「そうでなくて何になる。人間の女子(おなご)は皆このような拳を振るえるのか?」


 だとしたら恐ろしいことだ、と言ってくつくつと笑う女を前に、自分はただ疑問を口にすることしか出来ない。


「何が目的でここまで来た。私の命が欲しいのか?」


「いや、殺しはしない。『今は』な。そう怯えるでない、先ほどのは挑戦状代わりだ」


「挑戦状、だと?」


 それこそ一体何の話だ、と言おうとしたが、女の視線に気付き息を飲んだ。そしてその隙に女が話し出す。


「私は貴様を強者とは思わない。人間であるということはまだしも、貴様は我が父を卑怯な罠に嵌めて弱らせた上で殺したに過ぎない。そんなことで貴様の強さを認めてなるものか。

 故に――父の代わりに、私が貴様の力を改めて確かめてやる。五日後の夜、月が昇りきる時に一枚岩……父の倒れたあの場所で待つ。

 その日には残り二人の山の主も集まる。戦うも降伏するも自由だ、しかし逃亡は許さん。その時は我が名にかけてどこまでも貴様を追い詰め、その喉笛を握り潰す」


 それだけ言うと、女は踵を返して森の中へと消えていった。聞きたいことは他にも色々とあったが、止める暇もなかった。


「――あぁ」


 木に背中を預けてずるずると座り込むと、様々なことに今更気付いた。

 山裾の村の娘があのような華美な着物を持っているはずもなければ、汚れ一つない無垢な手をしているはずもない。

 そしてなにより、村からこのぼろ屋へ繋がるこの唯一の道に足跡一つ残っていないというのは、あからさまに異常なことだった。


「五日後、か。――満月の二日前になるな」


 拳を受け止めた腕には未だに骨に響くような鈍い痛みが残る。拳を受け止めた部分は明日になれば黒く痣になっていることだろう。

 人外の者との、真っ向勝負。それはそれで考えてみると恐ろしいことに間違いなく、考え無しに受け止めるわけにはいかないような事だったのだけれど。

 その日は晴れか、それとも曇りだろうか――なんてことを、その時はただぼんやりと考えていた。


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