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一、けものとかりうど


 背の低い木々と膝丈程までの草が茫々と茂る森の中、細い木々を鉈で払い掻き分けながら進んでいく若い男の姿があった。

 彼の名は雁谷貴実(かりやたかさね)。齢十六、成人してまだ幾許(いくばく)もないこともあってか、まだ顔立ちにどこか幼さの残る青年である。

  

 彼はこの地より数十里東の地に生を受け、十五となり世間に一人前と認められるまでをそこで過ごした。

 そして成人から十日の後、彼は僅かな路銀を手に故郷を去り、何処を目指すでもない放浪の旅の中に生きるようになった。

 幼少の頃から有事の為にと地道に貯め込んでいた小遣いであったが、何分生まれて初めての一人旅。半年と経たず路銀は底を尽いてしまったが、持ち前の狩猟の腕を活かして兎や鹿などを時折捕まえては、立ち寄った村で金や食料、衣類と交換して過ごすその場凌ぎの日々を送っていた。

  

  

  

  

 そうして一年が過ぎ、冬が近付くにつれて減っていく獲物に彼が旅を始めて以来最大の危機が迫ってきた頃、雉や鴨を冬物の服と交換しようと訪れた山間の村でその地の長から相談を持ち掛けられた。

 その内容は、近頃近隣の森で暴れている巨大な猪を退治して欲しい、というもの。

 その猪は元はこの山一帯のヌシであり、口元から一本だけ覗く珊瑚の如く白く美しい牙から人々に『一本牙』と呼ばれ、その巨躯は成人した男二人が腕を広げた程もあるという。

 今の所村人たちに被害は出ていないものの、これから寒くなるにつれて森の中の食料は減る為、腹を空かせて村に降りて来るかもしれない。その前になんとかしてほしいという話であった。


 貴実は害獣駆除の心得はあれど決して他者に長ずる程のものではないと弁えている。自分程度の腕では下手に刺激をするだけでむしろより現状を悪化させてしまうかもしれないと、彼は最初頑なに断り続けた。

 だが村人たちの必死の説得と報酬として冬を越すまでの住処や食事などを用意するという話に、終いにはとうとう折れることとなった。

  

  


 実際に件の森へと足を踏み入れると、確かに何か大きな動物が暴れまわったような形跡があった。所々にへし折られた細い木々が転がり、枯れかけた草の生い茂る地面には大きな窪みがいくつも出来ていた。土中の餌を求めて掘り返したのだろうと思われるが、それにしても数が多い。

 まず初め、彼は痕跡の多く残っていた泥沼の付近に大小様々な罠を仕掛けた。

 村人たちの話に拠ればその猪は大層な巨体であるらしいが、実際は話に尾鰭がついただけで他より少し体格が立派な程度だろうと思い、それらは取り立てて変哲のないごく普通の罠である。

 落とし穴に始まり虎挟みや荒縄を使った足括りの仕掛けまで一通り仕掛け終えると、彼は村に戻った。

 だが村の長にその日仕掛けた罠について話すと、長は神妙な顔をして一言だけ述べた。

 その程度のものでは無駄になるだけでしょう、と。

  

 次の日、果たしてそうなった。

 仕掛けた罠の全てが完膚無きまでに壊されていたのだ。

  

  

  

  

  

 

 貴実はその後も何度か同じような罠を仕掛けたものの、結果は変わらなかった。

 背の丈程の深さがある落とし穴はあっさり抜けられ、虎挟みは鎖を引きちぎられ、足括りの罠は結び付けていた木ごとへし折られた。

 これは確かに並の事ではなさそうだと思えたが、一つだけどうにも不可解なことがあった。

 鷹を調教して狩りに用いるように、また犬に芸を仕込むように獣にも学習能力はある。

 だが、この猪はまるで何も見えていないかのように同じような罠に何度もかかっているのである。

 また、作動した罠には全て引っかかっているようで、解除されて空振りになったようなものは一つもない。これだけ多く仕掛けているのに警戒もしていないのだろうか。

 慎重に隠蔽した上で仕掛けているとはいえ、それは流石に異様としか言えまい。

 その理由が気になるところであったが、しかしこのままでは埒が開かない。やり方を変える必要があるようだった。

 猪の肉や毛皮は貴重であり、物品交換の際に有利な取引ができるので、今までの罠は体を不要に痛めることのない捕獲用のものであった。

 そこで昨日は、それらの中に一つだけ致死性の高い罠を仕掛けた。

 二本の木の間に張った鋼線に何かが触れると、大量の刺を生やした巨木が振り子のよう勢いよく落とされる、本来は狩りではなく戦で使われるような大掛かりな代物である。

 普段使い慣れないものの為に準備に時間が掛かり、普段の半分程の数の罠しか仕掛けられなかったが出来栄えはなかなかのものであった。

  

 そして今日の昼過ぎ、罠の様子を見に来たところ、どうやら策は見事成ったようであった。

 木の上に不安定な状態で固定してあった刺木の錘は吊られた状態で風に僅かに揺れ、肘のから先ほどもあろうかという長く太い刺にはべっとりと生乾きの血が付着していた。

 しかし、肝心の猪の姿が無い。そこには大量の血痕と破壊された数々の罠しか残されていなかった。

 出血の量からすると決して軽傷で済むようなものとは思えないのだが、死に際の力を振り絞ったのか、そこから離れていくように血の跡が続いていた。

 骸を確認しその証明になるものを持ち帰らねばならないと、貴実は草木を掻き分けその跡を辿っていった。

  

  

  

  

  

 ※※※※※※※※※※

  

  

  

  

  

 


「……おかしい」


 誰にとも無く呟く。この状況は明らかに異常である。

 罠の場所から歩き出してもうどれほどの時間が経ったか。秋の静謐な空気も暖まった体を冷ますには至らず、全身からは白い湯気が濛々とあがっている。

 血の跡は森の先、山の上へと未だに続く。いくらなんでもここまで頑丈な動物など聞いたこともない。普通ならあの場で死んでいておかしくないような出血の量だというのに、どういうことだ。

 際限なく膨らむ疑問を抱きつつ先へと進んでいくと、突如開けた場所に出た。

 地面も今までのような軟らかな土でなく、ごつごつとした岩に変わる。僅かに苔が生えるばかりで、草の一本もない。

 傾き始めた太陽に照らされる岩の盆地、その先には倒れ伏す一匹の獣がいた。


「な……」


 規格外の巨体。全身の体毛が逆立ち、その総身は長より聞いた話よりも二回りは大きく見える。

 口元に一つ光る巨大な牙。左の牙は根元から折れているが残る一つは瑕ひとつなく、陽光を照り返して白く輝いているようにも見える。

 左の脇腹から前脚にかけて大きな裂傷が走っており、ずたずたになった毛皮と肉の隙間からは血がとめどなく溢れている。

 ただそこにいるだけだというのに、凄まじいまでの威圧感を受ける。それは正に、生存競争を勝ち抜きヌシとして君臨した者の風格とでもいうべきものか――

  


「!!」


  

 一瞬、呼吸が止まる。

 一本牙がこちらを見た。ただ、それだけのことで。

  

 巨躯が蠢く。両の前脚を踏ん張り、力を漲らせる。

 ――あの傷で、起き上がろうというのか。私を討とうというのか。

 左脚が折れた。鼻先が地を擦り、血飛沫が岩を染める。

 だが、一本牙は再び左脚を地に突き立て、起き上がらんと身を震わせる。

 呆然とその姿を見る私の目が一本牙の黒瞳を捉える。それは負の感情の一切篭らぬ、澄んだ瞳であった。

  


「……ああ、そうなのか」


 理解が私の心を満たした。何故、戦うのか。何故、私に立ち向かうのか。

 私への恨みではない。ただの本能でもない。

 この一匹の獣は確かめたいのだ。己の命を奪おうとするものが、果たして如何なる存在なのか。

 この一匹の獣は知りたいのだ。目の前に立つ人間が、如何なる意思と力を持っているのか。

 この一匹の獣は示したいのだ。ヌシとして生きる自身の、その強者としての在り方と矜持を。

 そのためにこの獣は死にゆく体に鞭を入れ、私と戦おうとしている。

 今、ついにその身を起こした一本牙は何かを窺うようにこちらをじっと見つめている。

  

 こちらが構えるのを待っているのか。そんな考えが自然と浮かんだことに笑いを浮かべる。

 相手は理性無き獣。先ほどまではそう考えていたはずだというのに、今ではこの猪が誇りある武士であるかのように思えてしまう。

 右手の鉈を握り直す。背負った荷を放り投げ、一本牙の正面に立つ。


「我は雁谷貴実。未熟の身であるが、全霊を持って相対させて頂く」


 意志を込めて言い放つ。この身に恐れは無く、ただ闘争への興奮のみが高まってゆくのを感じる。

 一本牙はそれに轟、という叫びで応え、後ろ脚を何度も蹴り上げて岩の破片を撒き散らす。

 逃げ道などもはや何処にも無い。いや、そもそも事ここに及んで逃げる気など毛頭なかった。

 二度目の咆哮。躍るように飛び出した巨獣と同時に駆け出す。

 激突の寸前、大きく振り上げた右手を眼前の剛毛に覆われた頚部へと、


「っおおおおおおお――――!!」


  

 叩き付けた。

  

  

  

  

  

 ※※※※※※※※※※

  

  

  

  

  

 

 持ち帰った掌ほどもあろうかという巨大な牙を見せると、長は大いに喜んで私に感謝と賞賛の言葉を驟雨(しゅうう)の如く浴びせた上で、山ほどの食料や衣類などを与えられた。

 その上、村の中央にある長の家で冬の間を過ごすよう勧めてきたが私はその申し出を断り、今まで使っていた村外れの森の中にある空き家を引き続き借りることにした。

 この村にいつまでも留まる気はないし、面倒な人間関係を作りたくない。それに人の輪の中にいると一本牙を狩った時についての話ばかり聞かれ、嫌になるのだった。

 一本牙は近辺一帯のヌシとして長い間君臨していたらしく、特に最近になって凶暴化する以前にも森に立ち入った村人たちが被害を受けたことが何度かあったそうである。

 彼らは村に迫る凶暴な巨獣をふらりと立ち寄った旅人が知と勇を持って退治する、そんなような武勇伝を求めているのだろうが、実際は罠にかけて弱ったところを討っただけの話だ。

 そう何度も聞かれてもそれ以上のものは出てこない。


「……まあ、それだけでもないのだがな」


 村の世話になりながら、村から離れて生活することの矛盾。自分は旅人であり定住するわけではないのだから、というのも違う。

 私は人の傍で暮らすことは出来ない。だが、人から離れて生きることも出来ない。

 人として生きていくには、身の内の獣が強すぎる。他者に依存せずに生きられるものは、ヒトとして不完全なのだ。

 獣として生きていくには、人として生きてきた時間が長すぎた。一人では生きられても、独りでは生きられない。

 ふと、周囲を見回す。夕日に赤く染まり始めた世界の中、好奇心に満ちたいくつかの視線がこちらに注がれていた。

 春先までの辛抱。そう思い、できるだけ視線の無い方を選びながら家を目指した。

  

 森の中の小道を歩く。日は既に半分以上が沈み、少し膨らんだ半月が西の空の雲の隙間から朧に見てとれる。

 腰の後ろの帯には使い古した鉈が挿されている。

 あの時、一本牙と交錯しその命を奪い去った瞬間、あの体格に見合わぬような円らな黒瞳は何を写していたのだろうか。

 まるで武士の一騎討ちのような対峙を行っていたが、何様のつもりか。ヒトであることは無条件で獣の上に立つのか。

 あの時自分は一本牙を尊重した気でいたが、それは同格と看做したが故ではないのか。それは即ちそれまで格下と見ていたのではないか。

 強者は正義で弱者は悪、それが自然の摂理ならば格下で卑しき身なのは私のほうだろうに、何を勘違いしている。

 半ば獣である身ではあるが。ヒトの世に馴染んだこの身からはまだ「匂い」が抜けきってはいないようだ。

  

 ぼんやりと思考を重ねていると、不意に傍らの草むらが揺れ、何かが飛び出してきた。

 それは私が反応するより先に背後へと回り、すかさず背負っていた荷へと飛び付いて干し肉を一切れ奪い取ると素早く茂みの中へと飛び込んだ。

 俊敏な動きと夕闇ではっきりとは見えなかったが、どうやら子狐のようであった。食料が無くなって山から麓まで降りてきた口だろうか。

 干し肉一切れ失った所で死活問題となるわけではないが、その子狐が少々気になったので後を追ってみることにした。

  

 

 子狐は思ったよりも足が速く、身体の小さいこともあって追うのには難儀したが、それでも今の所はなんとか見失う事なくついてこれている。

 私は追跡に関して特殊な技術や能力を持っているわけではない。普通なら簡単に撒かれてしまうのだろうにこうして追いかけられているのには理由がある。

 というのも、その子狐がどこかを目指すかのように真っ直ぐに走り続けているためである。

 追跡を蒔くのならもっと不規則に曲がるなり物陰に隠れるなりいくらでも手立てはあるだろうに、何故かそのようなことをしないのである。

 それどころか、その子狐は振り返ることもせず獲物をくわえてただひたすらに走ることに専念しているようにすら見える。

  

 日が更に沈み、空の色が赤から黒へと変わろうという頃になってようやく子狐はその足を緩めた。

 僅かに距離を置いて様子をみていると、子狐は朽ちかけた倒木のうろの中に姿を消した。

 それからしばらく倒木を眺めていたものの、出て来る気配は無い。

 この場所を目指していたのだろうかと思うと暗いうろの中の様子が気になり、気配を殺しつつそこへそっと近寄る。

 倒木の横に立つと、中から僅かに鳴き声が漏れてくるのが聞こえた。それも、一匹のものではない。

 意を決して中を覗き込む。最初は闇がただ広がっているようにしか見えなかったが、目を凝らすとうっすらと様子が見えてきた。

 中には二匹の子狐。一つの干し肉に両端から互いに食いついているのだが、片方が妙に弱々しい。

 肉に何度も噛み付いて喰いちぎろうとしているのだが、どうにも噛み切ることが出来ないでいるのだ。

 それでもしばらくは続けていたのだが、とうとう諦めたのか、一口も食べないまま口を離して力無く伏せってしまう。

 その様子を見たもう一匹の子狐はきゅう、と悲しげに鳴きその顔を嘗める。僅かに身じろぐものの、それでも顔を上げることはない。

 どうも大分弱っているようだ、何があったのやらと思った所でその原因が見つかった。子狐の下半身が穴に嵌まっているのだ。

 この倒木で遊んでいたらうっかり嵌まって抜け出せなくなったのだろう。抜け出そうと暴れたのか背の辺りの毛が木に擦れて黒く汚れ、僅かに血の跡も見える。


 と、もう一匹の子狐が私に気付いたようだ。体勢を低くし毛を逆立てながら低い唸り声を上げて威嚇をし始める。

 この子狐は仲間を見捨てられず、動けないこの狐のために今までずっと食べ物を運んでいたのだろう。

 だが、一月も前ならまだしも、この時期に子供の狐程度の力で得られる食べ物などたかが知れている。

 むしろ今まで他の獣に襲われる事も無く生き延びることができ、幸運だったと言ってもいいくらいだ。しかしこのままではまず助かることは無いだろう。


 それでもこの子狐は諦めずに、こうして必死に守ろうとしている。食べ物を得るために危険な人里近くに降りてまで。


「凄いな、お主は」


 こうしてこの場に出くわしたのも何かの縁だ、出来る限りの事はしてやろう。

 こちらを睨み付ける子狐から距離をとりつつ、倒木の裏側に回る。

 葉の先が茶色く枯れかけた雑草の隙間から、だらんと足の伸ばされた狐の下半身が穴から生えているのが見えた。

 先程うろの中から見えた部分と合わせて考えると、木の厚みは指二本分といった所だろう。これならなんとかならないでもない。

 腰の後ろに差していた鉈を抜く。


「――????っ!」

 

 刃物を手に取ったのを見て身の危険を感じたのだろうか、こちらを威嚇していた子狐がびくりと震えた。

 だが私が倒木に一歩踏み出すと、目的は自分ではなく動けない仲間のほうだと察したのだろう。今まで以上に激しく威嚇を始める。

 それを無視して更に近づくと、子狐は腹の底から搾り出したような唸り声と共に飛び掛り、服の上から左のふくらはぎに子狐が食らい付いて爪を立てた。

 牙の突き刺さる鋭い痛みに反射的に蹴り飛ばしてしまいそうになった。だがこうまで必死に守ろうとしているのだ、そうしたところでまた何度でも襲い掛かってくるだろう。

 覚悟を決めて狐をぶら下げたまま足を踏み出し、倒木の前に立つ。

 力無く垂れた後ろ足を見つつ、間違ってもその体を傷つけないように気をつけながら鉈を振り下ろす。

 硬い音を立て刃が食い込む。振動が伝わって尻尾がびく、と震えたが、またすぐに力を失って地に落ちた。

 二度、三度と繰り返すうち、ふくらはぎに食い込んだ小さな牙はますますその力を強くし、爪はがりがりと足首から膝にかけてを何度も引っ掻いた。

 それでも鉈を振り続けると、十何回目かにしてようやく刃先が木を貫く感触を得た。

 そこから慎重に亀裂を拡げていき、子狐の嵌まった穴の少し上に手首から先程度の長さの亀裂を入れる。


 無事な右足を持ち上げ、出来た亀裂の横を力一杯踵で蹴りつける。倒木が軋みをあげ、また僅かに裂けるような音がした。

 更に蹴ると、今度は確実に木の砕けた音が響く。亀裂が穴にまで達し、尾がぴくんと揺れた。

 左足に噛み付いた子狐は今や狂ったように暴れ、まるで膝から下を食いちぎろうとするかのように首を振り牙を立てる。

 慎重に狙いをつけ、最後に穴の真上を爪先で蹴り上げる。すると乾いた音と共に亀裂の部分が大きく砕け、今までうろの向こう側にあった子狐の背の部分が晒された。

 その体を両手で抱き上げる。そうしても殆ど抵抗を返さない体は軽く、ひどく衰弱しているのが分かった。

 左足に噛み付く子狐の側にその体を下ろす。必死に私に立ち向かおうという様子だったのが、もう一匹の姿に気付いてふと顎の力を緩めた。

 左足を持ち上げ振り払うと、子狐は先ほどまでの抵抗が嘘のようにあっさりと体を離した。

 口元を血で赤く染めた子狐がもう一匹に近寄り一声鳴くと、痩せた子狐は上体だけを起こしてその頬をぺろりと嘗めた。

  


「ふぅ……」


 その様子を眺めつつ、倒木に腰掛けて傷の治療をする。血は派手に流れているが、重要な腱などは痛めていないようだ。この分なら数日で痛みも引くだろう。

 水洗いや消毒を済ませた後包帯を取り出して止血し、傷口を巻いていく。しばらく激しい動きは厳しいかもしれないが、歩く分には問題ないだろう。

 と、子狐の片割れがてててと駆けてきて私の座るすぐ横に飛び乗り、じっと顔を見つめてきた。

 何となく手を差し出してみると、子狐はその指先をぺろぺろと嘗めた。なんとなくそのまま頭を撫でてみたが、大人しくされるがままである。

 荷を探り、生の鶏や野兎などいくつか食べやすそうな食料を取り出して目の前に置く。最初はそれと私とをきょろきょろと交互に見比べていたが、ぽんと頭を叩いてやると素直にそれをくわえて持って行った。

 今度はちゃんと食べることが出来ているのを確認すると、荷の口を締め直して立ち上がる。日は既に落ち、頼りない月明かりだけが森の中を照らしている。

 背を向けて歩き出した所で、けん、と二つの鳴き声が上がった。

 振り返らずに手を振って返し、その場を離れた。

  

  

  

  

  

 ※※※※※※※※※※

  

  

  

  

  

 

 夕餉に使った食器を家の横を流れる小川で洗う。マツムシの音色が秋の終わりの冷えた空気の中で静かに響いている。

 借り受けた家は外見こそ少々荒れた様子だったが、内側は気になるほどのものではなかった。

 最後に住んでいた者がいなくなってから今まで数年の間放置されていたとのことだったが、囲炉裏や三和土には最近人が使った跡があった。

 恐らくはこの近くを通った旅人が一夜を過ごすのに使ったのだろう。多少ぼろでも雨露はしのげるし、村からは少し離れた場所にあるので勝手に使ってもばれることもない。

 とはいえ、所々壁や天井に大きな損傷が見られる。これからの季節、雨漏りや隙間風が吹き込んでくる家というのは住む上で少々辛いものがある。

 数日を過ごす程度ならまだしも、それなりに長期にわたり過ごすのであれば補修は絶対に必要となるだろう。

 となると、明日の朝にでもまた村に行きいくつか道具を借りなければならない。夕方、自分に向けられた視線を思い出し溜め息を吐いた。

  

 水を汲んだ瓶と重ねた食器をそれぞれの手で持ち家へ戻る。

 畳の上に適当に置き、力を込めればがたがたと音を立てながらも辛うじて動く戸を閉める。

 瓶から器に半分ほど水を注ぐと草履を脱いで居間へ上がり、荷から小さな袋と鉈を取り出す。

 それを持って再び土間へと戻り、鉈を器の水で洗う。それから袋の口紐を解いて砥石を取り出した。

 水に浸けてから刃に軽く当て、少し角度をつけながら引く。紙を裂くような軽い音が家の中に響いた。

 燃え上がる油にぼんやりと金属質の鈍い光を返す鉈を見つめながら、黙々と繰り返す。

 今日一日で随分と活躍させたものだ。普段のように枝を払い、戦いの武器として使い、厚い木を叩き割った。形の変わらないただの鉄の塊も使い方によって自在にその在り方を変える。

 ただ切るだけの道具も異なる状況下ではそれぞれ様々な結果を生むのだ。


 そう。在り方はあの日、家を出てから大きく変わった。すべてを捨て、野に生きるようになった。

 では、その姿は。一年の放浪のうちにいくらか成長したと思うが、それだけではない。気づかぬ部分で致命的な変化が起きてはいないだろうか。

 満月の下、天に吠える獣の姿が頭を過ぎった。いつか自分もこの旅の中でそのようになるのではないだろうか。

 鉈は牙になり、草履は鋭い爪を持つ四肢へと変わり、最期には人としての魂をも失いただ血肉を求めるだけの一頭のけだものに――


 瓶から直接鉈に水を掛け、濁った水を洗い流す。明かりの下で刃の具合を確かめてから布で拭い、鞘へと戻した。

 一仕事終えた所で急に眠気に襲われ、大きく欠伸をつく。思えば今日は大変な一日だった。まだ少しやることがあるが、それはまた明日に回して眠ることにしよう。

 部屋の隅に引いた布団に潜り込み、荷と鉈を枕元に引き寄せた上で明かりを落とす。なんせそこらに穴があいているのだ、獣が潜り込んでくる危険がある。

 微かに清流と虫の音を聞きながら、意識は急速に闇に包まれていった。

  

  

  

  

  

 

 突然目が覚めた。原因の分からない緊張感に体が強張る。

 すぐに布団を跳ね退け、荷を引き寄せた。鉈を納めた鞘の硬い感触が今は心強く感じられる。

 こういうことは今まで旅の中でも何度かあった。狼や蛇の気配だったり、地滑りの前兆だったりと原因は様々だったが、どれも身に迫る危険に反応してのものだった。

 頭を冷静にして耳を澄ます。すると、微かにだが犬が吠えているのが聞こえた。

 時が経つにつれてそれは段々と鮮明に聞こえるようになる。だが、それは野犬たちがこちらへと近付いてきていることを示している。声の様子からして五、六頭前後の小さな群のようだ。

 鳴き声と足音は更に大きくなる。思わず鉈を握る手に力が入り、額に薄く汗が浮かんだ。

 そして足音はこちらへと向かって一直線に近づいてくる。とうとう覚悟を決めて鉈を抜こうという所で、ようやく動きが止まった。

 依然ぎゃんぎゃんと野犬の吠える音は聞こえるのだが、足音がぱったり途切れ聞こえなくなったのである。

 何があったのか分からないがこちらにとっては好都合。火口箱から火種を取り出し、油に火を点ける。その僅かな明かりを頼りに荷をひっくり返してあるものを探す。

 小さな桐の箱を取り上げると、その蓋を開けて中からいくつか穴の開いた握りこぶし大の独楽の形をした木片を取り出し、麻の紐を軸の部分の穴に通してしっかりと結び付けた。

 強く引っ張っても解けない事を確認すると、右手に鉈を、左手にその木片を掴んで外に出た。

  

 月明かりに照らされ、川の側の一本の木の周りを野犬の群が囲み、樹上に向かって吠えている様子が見える。

 そこに何がいるのかは陰に隠れて見えなかったが、この犬達に追われて逃げて来たのだろうということは想像できた。

 別にこの野犬が何を襲おうと興味は無いし、犬全般に対して何かしらの私怨があるわけでもない。だが、それを襲っただけで満足して森に帰っていくという保証はない以上、身に危険が及ぶ前に追い払うべきであろう。

 左手の木片に括りつけた紐を持ち、くるりと頭上で一回転させる。すると、先端の木片が低く唸るような音を奏でる。

 その音が月夜に響いた瞬間、喧しく吠え続けていた野犬たちはびくりとその動きを止めてこちらに顔を向けた。

 それを確認し、今度は一回転と言わず肩から先を使って勢いよく何度も振り回す。

 おんおんおん、と腹の底を震わせるような音が連続して響くと、野犬たちはおろおろと慌てふためいた様子で木の側を行ったり来たりし始めたが、とうとう背中を向けて逃げ出していった。

  

 

 これは数月前にとある村に立ち寄った際に他の旅人から譲り受けたもので、こうして風を送ると獣達の恐れを呼び起こす音を奏でるのだという。

 なんでも南の山奥に住む特殊な文化を持つ者たちが作った貴重なものだそうで、本当に貰ってもよいのかと聞いた所、彼はここで旅を終えるらしく、これから先使う機会もないであろう自分が後生大事に仕舞っておくより、必要とする者が持っていくべきだと譲ってくれたのだった。

 その『笛』を懐に仕舞い、野犬が取り巻いていた木の下へ向かう。

 そこから上を見上げて一体何がいたのか探すが暗いばかりでよく見えず、見つけることができない。

 ひょっとして『笛』の音に怯え犬と同じように逃げてしまったのかと考えていると、額に一滴の生暖かい雫が落ちてきた。

 一瞬雨かとも考えたが月は出ているし、そもそも木の下にいて雨粒が顔にかかる筈もない。手で拭ってよく見てみると、それは血であった。

 はっとして見上げると今度は頬に雫が落ちる。目を凝らして樹上をみると、一際大きな陰がそこにあった。

 一歩退いて地面をみると、その下は血の飛沫で赤く染められていた。

 ふとあの岩場が過ぎったが頭を振って追い払い、幹に手をかけて登っていく。

 太い枝に掴まった所で体を引き上げると、その先に全身を赤く染めた一匹の狼がいた。

  

 こちらをじっと見てはいるが警戒しているようではない。というより、その目に力は無く、見るからに衰弱している。

 まったく、今日は最後まで獣の生き死にによく関わる日だ。心のうちで一人つぶやくが、ここまできたら纏めて面倒を見てやろう。

 朝、顔を洗いに川まで来たら側に狼の死体が、なんてのは文字通り目覚めが悪い。一つ手当てしてやるか……と思った所で問題に突き当たった。

 それにはまずこの狼を地面に下ろさねばならない。が、どうすればよいのか。

 どうやって登ったのか不思議な位である。自力で降りるのは期待できないだろう。

 抱えて降ろすにしても、子供の狼ならまだしもこいつは立派な大人である。足を滑らせてふたりとも地面に叩き付けられては堪らない。そもそも抱き抱えた際に大人しくしている保証がない。

 そうしてしばらく狼と顔を突き合わせたまま頭を捻っていると、一つ方法を思い付いた。確実とは言えないし、こちらの身に危険が及びかねないものではあるが。

 しかし他に策が思い付かない以上、それにかけるしかない。意を決して枝を離れ、地面へと降りる。

 失敗すれば狼の命が危ういということもあり、上を見ながら慎重に位置を確かめる。

 そして懐から先ほど仕舞った『笛』を取り出すと、再び勢いをつけて振り回す。

 枝の上の陰が揺れ、擦れ合った葉ががさりと音を立てる。

 尚も続けると陰の動きは大きくなり、枝も大きく軋みを上げ始める。

 そしてついに、一際大きな音と共に木の上の陰が落下した。


「っ!」


 その体を受け止める。手放した『笛』は遠く枯れ草の上に落ちて乾いた音を立てた。

 それほどの高さではなかったが、左足の傷に鈍い痛みが走り思わず膝から力が抜けた。

 そこで怯えた狼が腕の中で暴れ出したため姿勢を崩し、仰向けに倒れる。

 のしかかる形になった狼は前脚でこちらの体を地に押さえ付け、鋭い牙を右肩に突き立てた。


「ぐうっ!」


 思わず呻きを上げるが、なんとか両手で狼の体を抱きしめる。それで逆に抵抗は増したが、構わず抱きしめ続けた。

 今は恐怖で暴れているが元々重傷のみである。そう体力も残っていないだろうししばらくすれば落ち着くだろうという考えだったが、その読み通り狼はすぐ腕の中でぐったりと力を失った。

 上体を起こし、その体を横に動かす。狼は抵抗せずに大人しく上からどいた。

 肩を押さえて家まで戻り、傷薬や包帯、食べ物に水を汲んだ瓶をとってまた狼のもとへ帰る。

 傷口を水で流した後、傷薬を塗って包帯を巻いてやる。傷口に触れると尻尾をぴんと伸ばしたが、抗いはしなかった。

 一通り済んだ後に今度は自分の肩に取り掛かる。顎に力が入っていなかったのかそれほど深くはないが、大きな痕が残りそうであった。

 取り出した干し柿をかじりながら狼の鼻先に雉を置くと、匂いを嗅いだ後に大きく噛み付いた。


「また来る時は頼むから一匹で来てくれよ」


 なんとなく口から出た言葉に狼はおんと一つ返事するかのように吠え、それからまた雉の肉に取り掛かる。

 その様子に少し笑みを浮かべ、私もまた干し柿を一口かじる。甘い香りが口に広がった。

  

  

  

 こうして山の獣たちとの一日は終わりを迎えた。

  

 そして、実はこれが山のあやかしたちとの最初の一日でもあったのだった。

臆病者ゆえに予防線を張っておきますが、作者は理系の人間であり古い日本の風土や文化なんてものについての教養は中学生並です。

一応資料をかき集めて書いてはおりますが、この話の中で営まれている生活は日本のそれとは大きく異なります。

10キロ北の村人はゲルで生活し、20キロ南の村人の主食はパン。30キロ東の都の人はジャパニメーションにうつつをぬかし、100キロ西では火星人と独立戦争の真っ最中です。

要するにフィクションの中の世界であり、物理法則とか実際の生態系とかは一切ぶっちぎっておりますのでご了承お願いいたします。



2012/2/6 表現等修正しました。

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