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プロローグ

 草木の中に身を置くこと――それはつまり大自然との一体化である。手付かずの緑の中の中、服が汚れるのも厭わずに地面に体を密着させる。自然を抱きしめ、また自然に抱かれるのだ。

 耳を澄ませば、聞こえてくるのは自然の声。小鳥のさえずり。木々のざわめき。語りかけてくる声を受け入れ、体の隅々まで浸透させていく。そうすれば胸の鼓動が森林の声と混ざり合い、人はまさに自然と一つになる。

 陽光の温もりの中で、母の優しき手のひらを思い出せ。小川のせせらぎの中に、生まれ育った胎内の音を聴け。大地は揺りかご、晴天は母の微笑み。母なる大地は君を守り賜う。時に叱咤し、時に優しく抱擁し、しかし常に愛情を以って君を育みし母を恐れる必要は無い。愛を受け入れまた愛した時にこそ――人は緑の海にその身を隠匿せしめるのである。

 小鳥の声と、木々のざわめき。霞無き空のもとに広がる林の中で、“彼女”は“音”を耳にした。土や草花を踏みしめ、歩を進める音。それは連なり、また時折硬質な音を立てて果てしなき緑の中を進む。

 “彼女”は動かず、ただ視線を巡らせる。草花の陰、群生するキノコの傍、そして木々の狭間に至るまで。足音の主を探し求め、微かな気配でも逃すまいと、倒木の陰で息を潜め続ける。

 鼓膜が震える度、ライフルの引き金にかかった指が小さく動いた。まだ……まだだ、と胸中で唱え、逸る心を押さえつける。物事には機というものがあり、それを見極めることが万事の秘訣。耐え忍ぶ――“彼女”の父親が、聖書の一節を朗読するかの如く常々口にしていたことであった。

 教えを守り、息遣いを自然の声に溶け込ませる。それを、一体どれだけ続けたのだろう。一分、二分、もしかすると十分はゆうに経過しているのではないか。ならば、あとどれだけこうしていればいい。もう五分か、それとも一時間。永遠にも思える時間を静寂の中で過ごし、息も細くその時を待ち続け――。ついに、“彼女”は求めていたものを視界に収めたのである。距離にして一〇ヤード程。立ち並ぶ木々の間、生い茂る草に紛れる、枝のような角をついに見た。

 キノコか木の実を咀嚼しているのだろう。揺れるように角が動き、それが“彼女”の喉を上下させる。銃床の末尾に添えられた真鍮のプレートを肩に当て、“彼女”は目を凝らし呼吸を止めた。長さ六〇インチはあるライフルの先端付近を倒木に委託したままで、“彼女”は口を結び、さらに待った。

 角が動く。草花が揺れ、体毛に覆われた頭が露わになり、“彼女”の心臓が早鐘を打つ。視線の先にいるのは野生の鹿。明るい茶色の毛が陽光を反射し、黄金と見紛うばかりの輝きを見せている。一歩二歩と鹿が歩み、“彼女”の青い瞳が全身を捉えたその瞬間、細い指が静かに引き金を切った。 

 撃鉄の火打ち石が当たり金を叩き、散った火花が火皿に落ちる。銃声が轟き、その刹那に銃口から硝煙が噴き出した。弾丸はまさに放たれた槍の如く。滑空銃とは比較にならない正確さで、鹿の身体を撃ち抜きせしめた。

 致命傷を受けた鹿は、糸が切れた操り人形のようである。母なる大地に力無く崩折れ、二度と動かない。次弾を装填しようと“彼女”は袈裟懸けにした牛皮の弾薬盒に手をやり、しかし一瞬思案してその手を止めた。眼前で粉塵を蹴立てる、二匹の鹿を見たのである。一匹には角が無く、もう一匹はまだ子ども。番の雌と、その子であろう。ともかく、今から薬包を取り出し噛み切ったところで到底間に合わない。親子を見送り、自分はさっさと倒木の陰から出て腰の鞘からナイフを引き抜いた。周囲を警戒しながら死体に近づき、膝を突いてライフルを寝かせる。弾薬盒の肩紐と交差させるようにして同じく袈裟懸けにしていた厚手の布。その結び目を解いた時、“彼女”は思わずほくそ笑んだ。

 ここ最近家の手伝いばかりで、ろくに狩りへ出かけられなかった。新しいベッドを作るのだと父親は言っていたが、正直なところ“彼女”はあまり乗り気ではなかったのである。それ以外の時間は馬の世話で忙しく、銃を触る時間すらあまり取れなかった。久々の狩りで心が踊り、その上立派な毛皮と肉が同時に手に入ったのだ。そうなれば、自然と頬も緩むというもの。鼻歌を浮かべながらナイフを握り直し、そして、“彼女”は自分を呼ぶ声を聞いた。

「ローザ! どこだ、ローザ!」

 どこに潜んでいたのか鳥達が一斉に羽ばたき、林がにわかな喧騒に包まれる。“彼女”――ローザは周囲を見回し、銃を拾い上げた。彼女が感じたのは、小さな胸騒ぎ。呼び声の中に切迫した色を感じ取ったのである。声を耳で追い、やがてローザの視線が一点に向けられる。自分が来た方角、つまりは、

「ローザ! ここにいたのか! 村が……!」

 彼女の家がある方位であった。


 /

 今の自分は鹿と同じだ。予期せぬ事態、その不安に駆り立てられ、一目散に駆けている。林中を走り抜け、木々を背景に変え、四足の獣の如く土を蹴立てる。

『村に戻れ、早く……!』

 息を荒げ、多量の汗で服を湿らせた男が、ローザの肩を掴んで言った。普段は柔和な笑みを浮かべていた彼の、酷く憔悴していた顔が頭から離れない。

『赤服が、ウェールランドの奴等が村に来て……』

 胃袋が重い。冷静さを欠いた彼女の足がもつれ、バランスを崩しそうになったが辛うじて持ち直す。

 ウェールランド連合王国。エドワード三世を君主とした連合王国であり、欧州にて諸国と覇権を争う列強の一角である。世界各地に多数の植民地を持ち、このアルメリア大陸もその一つであった。

『徴収出来るような物は残っていないと、ジェームズが言ったんだ……そうしたら……』

 ――父さん、母さん……!

 歯を食いしばり、彼女はひた走る。目に見えぬ敵から身を守るためにライフルを抱き、不安を振り払うように足を急がせる。

 まさか、そんなはずはない。脳内に残響している男の言葉を否定し、しかしローザの呼吸は震えたまま。湧き出ようとする涙を必死に抑え、躓きながらも足を止めようとはしなかった。

『奴等ジェームズと、キャロルまで……!』

 泣くな。涙を流せば、それは男の言葉を肯定することになってしまう。信じるか、信じるものか。真実を目にするまで、絶対に――。

 風を切り、小さな羽虫の群れをかき分け、ようやく視界が開けた。村の入口近くの広場を抜け、民家が立ち並ぶ通りを走る。村役場の前を通り過ぎると、彼女の家がすぐ近くに見えた。父親が建てた馬小屋の前に村人が集まっており、ローザの目が自然とそちらに向く。最後の直線。彼女は人だかり目掛けて速度を吊り上げた。

「父さん! 母さん!」

 僅かな隙間に体を滑り込ませ、または肩でこじ開けて前に進む。陽光の差し込まない薄暗い馬小屋の中に辿り着き、ローザは下がっていた頭をもたげ、

「え……」

 そして見た、見てしまった。

 全身の力が抜け、両膝が地面を打ったが、それでも痛いとは思わなかった。眼前に広がっている光景が、それ以上に彼女の意識を引き寄せたのである。その衝撃に喉首を締め付けられ、何か言おうにも声が出ない。乱れる呼吸と、見開かれた瞳。そして次の瞬間には、目尻から大粒の涙が零れ落ちた。

 馬小屋の“はり”が軋み、ローザはその音を呆然と聴く。口を半開きにした彼女は一点を見つめ、麻のシャツに涙で斑を描き続けた。はりに何重にも巻かれた縄。ローザの視線は、その少し下に留め置かれている。

 湾曲すること無く張った二本の縄と、振り子のように揺れる物体が二つ。両手両足をだらしなく垂らして地面に影を落とすそれは、紛れも無くローザの両親であった。

「お前が狩り出た後、村に赤服達が来てな……」

 父が工具を握ることは、もう二度と無い。小屋の手入れや家の修繕をすることも、新しいベッドを作ることも。

「あいつらは全ての家畜と火薬の引き渡しを要求し、ジェームズはせめてその半分にしてほしいと懇願した」

 狩り出るローザを、笑顔で見送ってくれた母。優しさで溢れていた顔は今や青く染まり、よほど苦しんだのか表情は苦しみに満ちている。

「懇願したんだ……食って掛かったわけじゃあない。それなのに、それなのにこの仕打ちだ……」

 どうして、こんなことになった。何故、こんなことが出来るのだ。自分達が植民地の人間だからか。アルメリアという国ではなく、アルメリア十三植民地と呼ばれる土地の人間だからなのか。

 確かに、今は戦争中だ。ウェールランドの圧政からの開放を求めて、アルメリアの多くの州は戦火の中に身を投じている。ウェールランドからすれば彼らは叛逆者、国王に牙を剥く獣の類に過ぎない。しかし、自分達は違う。この州は未だ参戦を表明しておらず、そうなればウェールランドも攻撃する意味を持たないはずなのだ。

「『子どもはいないのか』とあいつらは尋ねた。ジェームズはすぐに言ったよ。『先月、落馬して死んだ』と」

 それなのに、奴等はこのような非道を行った。些細な罪すら犯すこと無く、良き父と母であった両親を、苦しみの渦中に放り込んだのだ。

「いいか、ローザ。お前は“運良く”助かったんだ。お前が勇敢なのは知っている――だが、それでも」

 ――許せるか。許せるものか。

 たとえ神が愛情の光を注ぎ慈悲を与えると微笑んだとしても、絶対に許しはしない。怠惰に走ること無く、労働に汗を流す両親を殺した者達に、恩赦などあってはならないのだ。

「危険な真似だけは、絶対にするんじゃないぞ」

 肩に置かれた手のぬくもりも、今となっては感じない。ローザを突き動かしているのは渦巻く復讐の念であり、決して博愛の精神などではなかった。地面に爪を立て、土を握り込んで手の内で固める。憤怒と悲哀から噛み締めた下唇には血が滲み、そして赤く血走った目は物言わぬ両親を延々と見つめていた。


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