図書準備室の気になる人
ホームルームが終わって下校の時間、友達がまっすぐ僕の机にやってくる。
「さっきの数学の問題さ」
形はたわいのない話をしてますよ、といった感じで。
だけど友達の目的は別のところにある。その証拠にさっきから友達の目線を忙しく動いていた。たぶん、その視線の先をたどれば、いままさに下校しようとしているとある女子の姿が見えるだろう。
僕の席は廊下側の一番後ろにある。
教室からでるためには僕の後ろを通っていくか、この列の一番前の席のところを通っていくしかない。
そして、その彼女はいつも僕の後ろから通っていく。
つまり、このバカ友達がまっさきに僕の机に向かうのは、彼女を至近距離で見るためにあった。
髪の匂いがするんだよー、とこのまえ友達は言っていた。
友情なんて軽蔑である。
彼女が教室からでていき、友人は「はあ」と幸福とも悲しみともつかないため息をつく。
その姿に、哀れみと愚かさを感じながら、僕は席を立った。
「じゃあ行くからな」
恨めしそうに友達は言った。
「おまえにはないのかよ」
「なにが?」
「好きな人とかだよ」
「ないね」
「じゃあ気になる人は」
「……ないよ」
「なんだよその沈黙。いるのか」
友達は僕の沈黙をあらぬ方に勘違いしたらしい。確かに頭の中に浮かんできた人はいた。しかし、それはまったく違う。
気になるとかそういうものではない。
「あのなあ何事も行動だぞ」
友達は本気な顔でそう口にする。
「行動を起こさないと何も変わらないんだよ」
もう三ヶ月も片思いを続け、何のアクションも起こしていないくせに、よく言うものだが、友達の言葉には妙な説得力というものがあった。
こうしているだけの無意味さを自分でもわかっているのかもしれない
行動ねえ、と心の中でつぶやいてみる。
友人と別れ、今日も図書室へ向かう。
といっても別に本が好きなわけじゃない。
進学校であるこの高校の図書室は県で一番大きいらしく、教室五つ分、ゆえに五階のほとんどは図書室になっていた。
なんでも先代の校長が無類の本好きだったらしく、蔵書のほとんどが校長の私物だという話だ。
大学とまでいかないまでも、それでも高校生にしては十分すぎるほどの書物があった。
それが目当てでここに入ってくる生徒もいるみたいだから、なんというか本当に物好きな話だと思う。
図書室のドアを開けると、すでに何人かの生徒の姿が見える。彼らはテーブルに座って本を読んでいるか勉強をしているようだった。
カウンターでは、図書委員が、どこか鬱屈そうな顔をして、肘をついていた。入ってきた僕をちらりとも見ようとしない。
二メートルはあるだろう本棚に挟まれながら、図書室の奧のほうへ向かって行く。
しばらく進むと、さっきまで響いていたページをめくる音や、シャーペンをカリカリさせる音が響かなくなる。
図書準備室と書かれているドアが見えた。ドアを開けると、これまでとは比べるほどにならない古くさい本のインクの匂いがする。
八畳ぐらいしかない空間の四方は本棚で囲まれて、細長いテーブルも本で埋め尽くされている。
そのテーブルに今日もまた彼女はいた。
いてよかったと思う気持ちと、どうしているのだろうという気持ちが交差する。
いつものように本を開いて座っている。
どうやらそれは洋書のようだった。黄ばんだ紙面のあちこちに英語のスペルがあった。本好きをこじらせると洋書まで手をだしてしまうらしい。
彼女は入ってきた僕の存在に気づいていないようだった。
本を読みながら、テーブルに顔をつけて彼女は寝ていた。
一つ、ため息がもれる。
仕方なく、僕は適当に本棚から本を抜き取って、彼女の真ん前に座った。わざとらしく大きく椅子を引いてみるも、彼女が起きる気配はない。
僕はため息をつきながら、ぼんやりと彼女を眺めていた。
まったくもって幸せそうな顔をしている。人の気持ちを知らずに、よくもまあこんな風に眠れるものだ。
何事も行動なんだよ。
さっきの友達の言葉を思いかえしてみる。
「あの――」
そう言いながら僕は立ちあがった。思いっきり立ちあがったせいか、テーブルが揺れた。
彼女が目を覚まして、僕を見た。
次の言葉はすんなりと僕の口からもれた。
「なにしてるんですか?」
彼女――司書の先生が「えっと」と考えこむ。
「読書と午睡?」
「見たらわかるわ! 寄贈するために本に印を押す仕事は?」
「あーしてないやあ」
「この本の山をどうするんですか! いつまでだと思ってるんです?」
「ああー今日までだよ」
「わかってるならやらんか!」
「はいはい」
「というわけでその本は没収です」
「ええー」
「ええじゃない。終わるまで返しません」
「けちー」
「けちじゃない!」
頭を抱え込んだ。これじゃあ、気になる女の子じゃなくて、気に障る女の人だ。
はあ、とテーブルに座る。うれしそうに「よしがんばろー」と言う彼女と対照的に、鬱屈とした顔をしながら作業にとりかかるのだった。