彼にとってのありきたりなホラー
「お前って、何したら成仏すんの?」
灰色の布団が敷かれたベッドの上に寝転がりながら、男はつま先で白いシャツの人間を指した。椅子に座るツーブロックの男は目をぱちくりとさせ、自身のことを左手で同じように指さす。
「じょ、成仏?」
「うん。だってさ、ずっと俺の部屋にいられたらさ、流石にプライベートが恋しくなるもん」
この、高校生のものにしては広い部屋にいるのは彼ら二人。ここの持ち主はもちろんベッドにふてぶてしく寝ている方——近年稀に見る平凡な男子高校生、田中拓実である。どこか居心地悪そうに指を絡めている方も、捉えようによってはこの家の住人だ。
「あー、どうだろ」
「ヒビキ、なんとなくここに留まってるだろ。俺も話し相手がいるのはまあちょっと嬉しいけどさ、いつまでもってなるとちょっと。お前、いいやつではあるけど」
白いシャツに黒いズボンを履いた、どこにでもいそうな清潔感のある男の幽霊のことを、拓実は「ヒビキ」と呼んでいる。これは彼が勝手につけた名前であり、きっと、その幽霊の本名ではない。
二人の出会いは二週間前に遡る。拓実が自室で何をするでもなくぼーっとしていた時、ヒビキは何の断りもなく、自然に彼の部屋へと入室してきたのだ。壁を通り抜けるとか、テレビの中から出てくるとかでもなく、ただ扉をがちゃりと開けて。あの時、拓実は思春期という時期の中でいちばんの大声を上げた。
「例えばさ、未練とか。なんか思い当たる節ないの」
「それを話したらどうにかなるのか?」
初めの時こそ大騒ぎしたが、今ではちょっと不思議なルームメイト程度に収まっている。ある時には消えて、またある時には部屋にいる変な幽霊だ。
「映画のみたいな、怖がらしてくる幽霊とかならともかく、ヒビキみたいな無害なやつだとなー。なんか、俺も協力してやりたいっていうか」
「ありがとう、でいいのか?」
「いいだろ、ありがとうで」
拓実は足を天井に向けて伸ばし、反動をつけて起き上がり、ベッドの上であぐらをかいた。ヒビキは姿勢を低くして、何かを考え込んでいる様子だった。
「まあ、例えば、俺が成仏したら拓実はどう思う」
「そりゃ、嬉しいってなるだろ。あ、お前がいなくなって嬉しいって意味よりか、ちゃんと天国に行けて良かったーの意味な」
「そうか」
拓実はヒビキと出会うまで天国や地獄の存在を信じていなかった。今でも半信半疑ではあるが、ちゃんと存在するものとして考えている。
「未練、未練か」
「生前のこととかさ、なんか覚えてないの」
これまで、ヒビキは生きていた頃のことを「よくわからない」と言ってはぐらかしていた。最近では断片的なエピソードを話すようになっているが、最初の頃はやけに「生前」を否定していた。
「まあ、未練っていうか、後悔なら」
「お、聞かせて聞かせて」
ヒビキは椅子を軋ませて、少しだけ前に乗り出した。幽霊でも座り直す動作はするものなんだな、と拓実は壁によりかかってその動きを見ていた。
「俺には、友達がいて、いや、いたんだけど」
「おう」
「そいつと、映画を観ようって話になったんだ」
映画と聞いて、拓実は最近見たジャパニーズホラー系のじめっとした映画のことを思い出した。個人的にはいい映画だったと思っているが、ネットの評価は星2.8だった。
「いいね、何の映画よ」
「まあ、流行りのホラーだったかな。詳しくどんなやつだったかは覚えてないけど」
「お、ヒビキ、ホラー好きなの」
「好きじゃないよ。ノリで決めただけ」
拓実は映画はそこまで見ない方だが、たまに見る時、そのジャンルは概ねホラーである。特別好きとかそういうわけではないのだが、恋愛系を見るのはなんだか小っ恥ずかしいし、感動系で泣くところも見られたくないので、好きな漫画が映画化する時以外はずっとホラーを選択しているのだ。
「放映は半年後だけど、結構面白そうだからそのうち観に行こうって、そんぐらいの軽い感じで決めてた」
「それで、もしかして行けなかったの?」
「人の話は最後まで聞けよ。結論を急ぐな」
そこまで言うことかよ、と拓実は不満そうな顔をしてベッドに倒れた。ぼす、と枕に頭蓋骨が埋まる音がする。
「で、そう決めてたんだけど、俺そのことすっかり忘れてて。そいつに『見に行こう』って言わなかったんだよ」
「友達の方も忘れてたの?」
「そっちはまあ、いろんな事情があったんだよ」
前まで「わからない」と言っていた割には、ヒビキは具体的に出来事を覚えているようだった。それだけ大きな事件だったのか、と拓実は体勢を立て直す。
「それで、その映画の上映期間が終わったぐらいの時、そいつは、まあ、映画なんて観に行けないぐらいの感じになっちゃったんだ」
「え、もしかしてさ」
「いや死んだわけじゃないけど、まあ、遊べなくなったんだ」
拓実が自分の想像を言う前に、ヒビキは拓実が言わんとしたことを当ててみせた。会って二週間の割には拓実のことをよく分かっている幽霊である。
「だから、ああ、こうなる前に映画ぐらい観に行けばよかったな、って」
「そうだよな、お前も死んじゃってるし」
「あー、そうだな」
ヒビキの友達は引っ越しだか忙しくなっただかの何らかの事情で共に映画を見に行けるような状態ではなくなり、そしてヒビキも死んでしまった。二人は永久に会うことができなくなったのである。それは十分未練と言えるだろう、と拓実は心の中で頷いた。
「なるほどな。それをどうやって解決するか、か」
「別に解決なんかしなくていいって」
「いや、必要あるだろ。こういうのでは小さな取っ掛かりから成仏に繋がるって相場が決まってるんだよ」
そんなの知らない、とヒビキは興味なさげに窓の方を見た。そこから見えるのは青々しい色の葉がついている大きめの木だけである。
「なら、まずその友達を探そうよ。俺が見えるんだし、ワンチャンそいつもお前のこと見えるんじゃね」
「どうだろうな」
「もっと興味持ってくれよ」
ヒビキのためを思って提案していると言うのに、彼は何だか退屈そうな顔をしている。彼は成仏に興味がないのだろうか。
「ほら、どこに住んでたとか、そいつの名前とか教えてくれよ」
「知らない。覚えてない」
「そんなことないだろ。さっきまでちゃんと話せてたのに」
それでも、ヒビキは頑なに「知らない」と言う。口を割りそうにもなかったので、拓実はそれ以上は追求しなかった。
「あー、じゃあ、その映画見てみる? 俺のスマホサブスク契約してるからさ、メジャーなやつなら多分見れるんじゃないかな」
「え、ここで」
「まあ、その友達じゃなくて、俺だけど」
ヒビキの未練の本質は「映画を見れなかった」ではないことは拓実も分かっているが、それでも、見れば何か記憶が蘇るかもしれないと思った。スマホを手に取り、動画配信アプリを開く。
「タイトルは? 分かる?」
「だから覚えてないって」
「雰囲気でいいから」
「あー、事故物件の幽霊のやつだよ」
拓実は検索欄に「事故物件 幽霊」と入れて探してみた。かなり前のものを省くと、一年前のものがヒットした。
「これとかどうよ」
「あー、いいんじゃない。観に行こうとしたのとは違うけど」
画面を横向きにして、ヒビキにも見えるように少し離れた位置にスマホを置く。広告が挟まって、それから都会の街の風景が映し出された。映画の残り時間は「1:44:44」と表示されている。
「結構長いな。ま、やることないしいいよな」
「まあ、いいけど」
しばらく何も起こらないシーンが続く。幽霊が幽霊の映画を観るとは、なんだか不思議な感覚である。どうせ一緒に見るならもっと大きい画面がよかったな、とか考えていた。
「もう、一年か」
「え、何が」
「なんでもないよ」
この映画が公開されてから経った時間の話かと思ったが、ヒビキが言った「一年」はそれとは違う気がした。もしかしたら、彼が死んでから経過した歳月なのもしれない。
ようやくおどろおどろしい雰囲気になってきて、拓実はベッドの上に座り直した。手持ち無沙汰で、キャラメルポップコーンが恋しくなる。
「もういい。飽きた」
「え、まじかよ」
ようやくこれから、というシーンで、いきなりヒビキは画面を見るのをやめてしまった。拓実は画面を停止して、窓に視線をずらしたヒビキの横顔を見る。
「お前、飽きるタイミング変すぎるだろ。絶対ここからでしょ、物語が動くの」
「いいんだよ、もう」
ヒビキの目からはどこか、諦めの感情が感じ取れる。こんなもの観てもしょうがない、くだらない、と言っているようで、拓実は少し退屈になった。ヒビキはいいやつではあるが、ノリが悪い時が多々ある。
「じゃあ何すんの。あと俺の部屋、面白いものなんてないけど」
「そうだよな、お前にとって、ここはお前の部屋なんだよな」
ヒビキが言う言葉の意味がわからない。彼が座っている椅子は拓実が勉強する時に座るものだし、灰色のくたびれた布団も拓実がいつもくるまっているものである。
「そうだよ。ずっと俺の部屋だよ。ヒビキ、急にどうしたわけ」
「ここはお前の部屋で、この椅子はお前のもので、俺の名前はヒビキで、俺は幽霊ってか」
ヒビキは苛立っているような口調で、当たり前の、既に分かりきっていることを話す。彼が幽霊だということも相まって、拓実は少しの恐怖を覚えた。
「え、なに、俺悪いことした?」
「あ、いや、やっぱ、なんでもないよ」
ヒビキは額を抑える。さっきまで緊張感のあるホラーを見ていたせいか、拓実の心臓の鼓動は早まっていた。もしかしたら、成仏に協力すると言ってずけずけ口を出したのが間違いだったのかもしれない。
「とにかく、ごめん。成仏とかそういうの言わないようにするから」
「は? ああ、いいよ。もう」
本当の意味で「いいよ」と言っているわけではないのが分かりきっている言い方だった。やっぱり、ヒビキは何かに怒っている。
「ヒビキ、なあ。嫌なことがあったら言ってくれよ。俺、幽霊と話すの初めてだからさ、よく分かんなくて」
「……もうさ、疲れたんだよ、俺」
拓実は思わず身構えた。ここからホラー映画の幽霊らしく、本性を現して襲ってくるのではないかと疑った。
「何が、何のためにこんなことしてんだって。意味ないよ、こういうの。これを続けて何がどう変わる? なあ、教えてくれよ、なあ」
ヒビキは立ち上がり、拓実の肩を押さえて恐喝するように揺らした。いきなりおかしくなった彼に、拓実は抵抗することができなかった。
「ここはどこだ? お前の部屋か? ほら、窓の外見ろよ。枯れ木の先っぽしか見えないだろ? お前んちの窓から見えるのはこんな景色だったか?」
「ちょ、ヒビキ」
顔の向きを強制的に変えられて、拓実はヒビキと目を合わせる形になった。
「おい、よく見ろ。俺の顔見ろ。本当に『ヒビキ』に見えるか? それとも『マサル』か? こないだは『ミナト』だったよな? なあ、お前の目の前にいるのは誰だ?」
「知らない、知らないよ、誰だよ、それ」
すると、ヒビキの腕は突然力を失って、拓実の肩から手を離し、静かに椅子に座り直した。バネの音がやけに耳につく。
「……お前さあ。何が、駄目だったんだよ。俺、本当に分かんなくてさ、どんだけ考えても、お前の母さんとかに聞いても全然分かんなくて。マジで、何にも、分かんなくて」
その言葉を聞いて、拓実は驚いた。ヒビキは幽霊で、拓実以外見ることができない存在である。なのに、彼は拓実の母と話したと言った。自分が知っているものと違う情報に混乱したが、拓実は大人しく彼の話を聞いた。
「嫌なやついるならさ、俺がボコボコにしてやるから、迷ってることがあるんだったら俺が解決してやるから、なあ、なあ、教えてくれよ。それを教えてくれたら、俺、お前の望み通り『成仏』してやるからさ」
「俺、困ってることなんて、なんもないって……」
ヒビキの話を、拓実は何一つ理解できない。まだ会って二週間の関係だ。そこまで彼が拓実に入れ込む理由がない。ただの、非日常的なルームメイトのはずだ。
「はは。そもそも、この俺の声聞こえてんのか? ちゃんと意味届いてるか? お前の脳内でワンダーに変換されてんのか? だって俺、幽霊って自称したことないもんな。おかしいだろ、なあ」
「ヒビキ、お前、泣いてんのか」
幽霊でも涙は出るものなのか、と拓実は少しだけ関心する。しかし、それより、どうやったら落ち着いてくれるか、その方法を知りたかった。
「俺、なんで映画の約束すっぽかしたんだろ。本当、馬鹿だよ。救いようのないクズだよ。ちゃんと、お前と、遊びに行けばよかった」
頭の中がごちゃごちゃになった拓実に、ヒビキの声はろくに聞こえていない。だが、「映画の約束」という言葉だけが浮き彫りになって脳に届いた。ヒビキの後悔に紐づく言葉のはずだが、それが拓実の中で別の何かと繋がろうとしていた。どこかで、聞き覚えがある気がする。
「お前、もしかして」
ヒビキの顔がラテアートを解く時みたく混ざっていく。髪が長くなったり、背が低くなったりする。それは到底「ヒビキ」には見えない。しかし、拓実にとって、その姿ははっきりと見覚えがあるものだった。
「なんだよ。お前のヒビキくんはここにいるよ」
「そうじゃなくて、違うよ」
拓実は目の前にぶら下がったビデオテープを避けて、その中から落ちてきた蜘蛛を弾いた。触覚が邪魔で、彼の顔がよく見えない。もうすぐで分かるはずなのに、障害物が二人の間を遮った。
拓実は布団をめくり、灰色のベッドから抜け出そうとした。もう少しだけ前に進めば、正体がわかるはずだったから。
最後の白い布をくぐった時、その顔が見えた。天然パーマの、どこにでもいそうな、パーカーを着た男である。
「……キョウヤ?」
キョウヤは顔を上げた。元々小さな瞳をもっと小さくして、口をはくと開く。彼が思い切り立ち上がったせいで、小さなプラスチックの椅子は甲高い音と共に倒れた。
「お、お前。拓実、そうだよ、京也! なんでいきなり、いや、そう、足立京也だって! 拓実、分かるか!」
「だよな、あれ? ヒビキは」
「いないよヒビキなんて! ああ、よかった。そうだよ、足立京也だよ、拓実……」
キョウヤはへなへなと崩れ落ち、拓実のベッドの柵に寄りかかった。興奮している彼とは違い、拓実は混乱していた。さっきまで見ていた人物とは全く違う顔の人間がそこにいたから。
「じゃあ、お前は」
「そう、今お前が見てるのが本当だよ! ちゃんと見ろ、これが現実だから。それで、俺は足立京也だから!」
拓実は、久しぶりに目の前の人間が笑っているところを見た。いつも、彼と話す人は無愛想だったから。
「あ、じゃあ、今までのは全部嘘だったのか」
「待ってろ、今ナースコール押すから」
キョウヤはガムテープがぐるぐる巻かれた何かのボタンを押す。そこでようやく、拓実は世界の真実を見た。
「そうか、お前が俺を治療してくれたんだな」
「そう……いや、え?」
拓実は自分の腕を見る。包帯が血を吸いきっていて、ベトベトしていて不快だ。
「ゾンビに噛まれた時はどうなるかと思ったけど、まさか、治療薬があるなんてな」
「は」
体は不思議と痛まない。きっと、友人であり、この世界を生き抜く仲間である彼がどうにかしてくれたのだ。拓実は涙が出そうになって、顔をこわばらせてぐっと堪えた。
「ありがとな、キョウヤ」
その時、どたどたと足音が聞こえてきた。きっと、人間の匂いを嗅ぎつけたゾンビに違いない。ここにいてはいけない、と拓実はキョウヤの腕を掴んだ。
「まずい、ここから逃げよう!」
「……拓実」
キョウヤはなぜだかその場から動こうとしない。このままでは死んでしまうかもしれないのに、呑気に拓実の目を見つめていた。
バリケードが蹴破られて、そこからゾンビが飛び出してきた。うめき声を上げて、キョウヤの隣まで迫る。しかし、そのゾンビは噛み付くことはせず、ただあうあうと意味をなさない声を出していた。
彼はそのゾンビを見て、震えた声で告げる。
「……すみません、俺の、勘違いでした」
キョウヤが言った言葉の意味を、拓実は理解できなかった。




