第6話 偽りの気持ち
飛脚隊の評判が戻り始めると、沢地萃の空気は笑いながら忙しくなる。
朝の隊舎には、前なら一日に一件あるかどうかだった依頼札が、今では小さな木盆に三枚、四枚と積まれるようになっていた。雨の日に遅れないこと。届け先で話を聞いても、肝心の荷を忘れないこと。そんな当たり前をきちんと積み上げただけなのに、町は思ったよりちゃんと見ているらしい。
その朝も、那水は帳場の台で札を並べ替えながら、いつもどおり一切浮かれない声で言った。
「午前便六件、午後便五件。うち急ぎは二件。昨日までなら人手不足でしたけど、今日は何とか回せます」
「何とか、って言い方に希望がないですねえ」と幸育が言う。
「希望で荷は運べないでしょう」
「でも景気づけは必要ですよ」
「景気づける前に靴紐を結びなさい。右だけほどけてます」
幸育は「あ」と言ってしゃがみ込んだ。
隊舎の床にはまだ古いきしみが残っているが、壁へ掛かった防水布は前より増え、萌乃香の持ち込む替え靴下も常備品になりつつあった。奏丞は窓際で新しい経路図を広げ、旧板道と高床通りを細い朱線で結び直している。創太は保管庫から持ってきた旧地図と照らし合わせ、橋の名前や渡し場の消えた印を補っていた。
仕事の手触りが、少しずつ町へ戻っている。
そう感じる瞬間は、創太にもちゃんとあった。
ただ、その実感が大きくなればなるほど、別の気配も近づいてくる。
私設便を広げてきた運河商会が、このまま黙っているはずがない。
「来たよ」
窓辺にいたちひろが、通りのほうを見て言った。
創太も顔を上げる。隊舎前の板道を、濃紺の雨除け外套を着た男が二人、商会の小旗つきの荷車と一緒に歩いてくるところだった。前を行く男は二十代半ばほど。足元の泥を一度も跳ねさせない歩き方で、濡れた板道の上をまるで乾いた石畳みたいに踏んでくる。従者らしい一人がその半歩後ろに付き、荷車には新しい革靴箱と防水布の包みが載っていた。
幸育が小さく口笛を鳴らす。
「うわ。ほんとに来た。しかも朝から嫌なところだけきっちり光ってる人だ」
「表現が失礼です」と萌乃香が言ったが、否定はしなかった。
那水は帳面を閉じる音だけで不機嫌を表した。
「商会の若旦那です。断っても帰らない類い」
「会ったことあるんですか」
「あるから分かるんです」
戸口の外で、男は一度だけ足を止めた。それから人当たりのいい笑みをつくり、まるで招かれてきた客みたいな顔で軽く一礼する。
「朝のお仕事中に失礼。沢地萃運河商会の者です。飛脚隊の再始動が町でも話題になっているもので、ぜひご挨拶をと思いまして」
柔らかい声音だった。だが、語尾に水気がない。笑っているのに乾いている声だ、と創太は思った。
ちひろが先に一歩出る。
「挨拶だけなら、ここで十分です」
「つれないな。せっかく支援の相談も持ってきたのに」
若旦那は荷車へ顎を向けた。従者が布包みを持ち上げる。新式の防水布だ。町でも最近高いと評判の品で、幸育が一度「これ欲しいんですよねえ」と涎を垂らしかけたやつだった。もう一つの箱には、泥に強い底を打った長靴が入っているらしい。
「うちの私設便で使っているものです。試しに何組か。評判を聞くに、皆さん、道具にはまだ不自由していそうだ」
「不自由してますけど、そこを埋める相手は選びます」
ちひろが答える。
若旦那は少しも気を悪くしたふうを見せない。
「警戒はもっとも。でも敵対する必要はないでしょう。沢地萃の配達を全部一つで抱える時代はもう終わりました。採算のいい晴天便は商会、細かな地元便は飛脚隊。そう分ければ、互いに楽になる」
「雨の日と、採算の合わない道を押しつける話にしか聞こえませんが」
創太は言ってしまってから、自分が口を出したことに気づいた。
若旦那の視線がゆっくりこちらへ向く。目は笑っているのに、見られた瞬間だけ水に手首を浸けたみたいに冷えた。
「ほう。保管庫係の坊やは、ずいぶん事情に詳しい」
ちひろの肩がわずかに動く。創太は帳面を持つ手に力を入れた。
「仕事ですから」
「仕事熱心なのは結構。最近は帳場にも出入りして、古い受付台帳まで読んでいると聞きました」
誰に見られていたのか。創太の喉がきゅっと狭くなる。
保管庫の奥にある旧台帳は、まだ誰にも確証を与えない程度の記録しか拾えていない。だが、商会側がそれに気づき始めているのなら話は違う。
若旦那は笑顔のまま続けた。
「若い人が昔の数字に夢中になるのは悪くない。ただ、古い記録は読む者まで湿らせる。いっそ、もっと明るい仕事に目を向けたらどうです。例えば、商会便へ来るとか」
「お断りします」
創太が言う前に、ちひろが動いた。
すっと創太の横へ来て、その腕に自分の腕を絡める。雨季でもないのに、濡れた風が背筋を走った気がした。創太は一瞬、本気で息を止めた。
ちひろはそのまま若旦那を見た。
「創太は商会に行きません」
「へえ」
「私と付き合ってるから」
隊舎の空気が、見えないところで一斉に止まった。
奏丞の羽根ペンが紙の上で止まり、幸育は結び直していた靴紐を引っ張った姿勢のまま固まり、萌乃香は湯呑みを持つ手をそのまま胸の前で止めた。那水だけが一瞬まばたきをしたあと、なぜか最初に視線を戸口の外へ飛ばし、聞き耳の有無を確認していた。
若旦那が最初に動いたのは、創太ではなくちひろのほうだった。
「それは、初耳だ」
「今言いましたから」
ちひろの声は平然としている。腕は離れない。創太は自分の体温がどこへ逃げていくのか分からなかった。
「だから、帳場にも保管庫にも、あなたの人間を寄こさないで。変な探りを入れられると面倒なんです。私生活まで込みで」
言い切ると、ちひろは腕にさらに少しだけ力を入れた。
若旦那の笑みが、ほんの紙一枚ぶん薄くなる。
「私生活、ね」
「そうです」
「隊長殿は、恋人を前に出して牽制する趣味があるらしい」
「効く相手には有効でしょう」
しばらく、誰も笑わなかった。
それでも若旦那は結局、崩れきらない顔で肩をすくめた。
「分かりました。今日は支援の申し出だけ伝えて帰りましょう。ああ、ひとつだけ。隊舎のこの土地、もともと商会が管理する荷上げ場跡だということはご存じでしょう?」
那水が机の縁を指先で叩く。
「賃借の更新は雨季明けです」
「ええ。その時期も近い。うちは今後、拠点整理を進めます。もし再契約を望むなら、あまり意固地にならないことです」
「脅しですか」
ちひろの声が少しだけ低くなる。
「助言です」
若旦那はそう言って、荷車の布包みを従者に持ち直させた。
「贈り物は置いていきません。恋人の誤解を深めると悪い」
最後に創太へ視線を流す。
「古い紙は、読む場所を選びなさい。湿地では足を取られる」
そう言い残し、若旦那は板道を戻っていった。従者が小旗を濡れた風に揺らしながら続く。姿が角を曲がって見えなくなるまで、隊舎の誰一人、しばらく口を開かなかった。
最初に息をしたのは幸育だった。
「えっ」
今さらみたいに、間の抜けた一言が飛んだ。
それを合図にしたみたいに、音が戻る。
「えっ、じゃないでしょう」と那水。
「いや、だって今、付き合ってるって」
「聞こえてました」
「聞こえてましたけど、聞こえた内容が強すぎて追いつかなくて」
「僕も今、地図の線がどこを通ってるのか分からなくなった」
奏丞は真面目にそう言った。たぶん本当に分からなくなったのだろう。
萌乃香だけは一歩遅れて、ちひろと創太を交互に見た。
「……その、まずお茶入れ直します?」
優しいが、解決にはならない提案だった。
ようやくちひろが腕を離す。離れた瞬間の風の入り方まで、創太には妙に分かった。
「ごめん」
ちひろが言う。
「まずはそこですよねえ!」幸育が食いついた。「いや、ごめん、はそうなんだけど、その前に説明が」
「説明は要る」と那水も言う。「今のままだと情報だけ町を走る」
「もう走ってるかも」
萌乃香が恐る恐る戸口の外を見る。そこにはもう誰もいないが、沢地萃の噂は人が運ばなくても勝手に渡し板を歩く。
創太はやっと口を開いた。
「……どういう意味ですか」
自分でも驚くくらい、声は平らだった。内側では全然平らじゃないのに、外へ出るときだけ妙に薄くなる。
ちひろは一度、全員を見回した。
「商会の若旦那、創太が古い台帳を読んでるのに気づき始めてる。あいつにとって厄介なのは、保管庫係が記録を辿っていること。だから今ここで、創太を調査の中心から外して見せたかった」
「恋愛で頭がいっぱいの子に見せるため、ですか」
那水の要約が容赦ない。
「……そう」
「雑に言えば、そうですねえ」
「幸育、今は黙って」
萌乃香が小声で止める。
ちひろは創太へ向き直った。
「巻き込みたくなかった、って言い方はたぶん違う。もう巻き込んでるから。でも、あいつに目をつけられたまま保管庫へ出入りさせたくなかった。だから、とっさに」
「付き合ってるって」
「うん」
「……嘘を」
「うん」
短い返事なのに、創太の胸の真ん中がじわっと痛んだ。
もちろん嘘だと分かっている。分かっているのに、さっき腕を取られた瞬間の体温は本物だった。そこがいちばん厄介だった。
幸育が恐る恐る手を挙げる。
「ちなみに今後なんですけど」
「言って」と那水。
「今のを若旦那だけに言って済みます? あの人、絶対そのまま引かないですよ。商会の手代とか市場の聞き耳とか、今日のうちに町へ流れます」
全員が黙る。幸育のこういう勘は当たる。
沢地萃の噂は、魚の血より早く乾かない。まして相手は商会だ。都合のいい話なら、水面の波みたいに何本にも増やして広げる。
那水が額を押さえた。
「……しばらく、嘘を本当のように見せる必要があるかもしれない」
「ですよねえ」
「嬉しそうな顔をやめなさい」
「半分面白がってるけど、半分は本気で必要だと思ってます!」
創太は何も言えなかった。
ちひろがまた言う。
「創太。嫌なら今ここでやめる。私が別の言い訳を考える」
「今さらです」
口から出たのは、思ったより冷たい言葉だった。
ちひろが一瞬だけ黙る。
しまった、と思った。だが引っ込めるには遅い。
「……嫌とかじゃないです。ただ」
「ただ?」
創太は視線を机へ落とした。古い台帳の控えを書いた端紙が、一枚だけ表へ出たままだった。そこに走る番号の欠け目が、今はやけに遠く見える。
「本当じゃないのに、町じゅうへ本当みたいに流れるんだな、って」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
隊舎に、短い沈黙が落ちる。
それを破ったのは、意外にも奏丞だった。
「でも、やるならやりきったほうがいい」
全員が見ると、彼は真面目に地図をたたみながら続けた。
「半端な偽装は経路と同じで一番危ない。見破られるし、余計に追われる」
「急にもっともらしいこと言いますね」と幸育。
「経路設計士だからね。迂回路は迂回路らしく使わないと」
那水が小さく息を吐く。
「理屈は正しい。癪ですが」
「じゃあ決まりですか?」萌乃香が心配そうに問うた。
「決まりたくはないけど、決めるしかないでしょう」
那水は帳面を開き直した。
「商会の手の者が見ている前では、少なくとも辻褄を合わせる。創太は一人で古い台帳を持ち歩かない。保管庫へ行くときは時間をずらす。ちひろは必要以上に前へ出ない。幸育は」
「はい」
「面白がって広げない」
「そこがいちばん難しい」
「難しいじゃない」
萌乃香が珍しく少しだけ強い声を出した。
幸育は「はい」と素直に縮こまった。
午前の便は、そのあと何事もなかった顔で始まった。
だが、何事もなかったわけがない。
隊舎を出た時点で、向かいの桶屋の親父が妙に優しい目で創太を見た。北の板橋では洗濯物を干していた娘二人が、ちひろを見つけた途端に頬を寄せ合った。南市場へ入れば魚屋の女将が大声で「へええ!」と言い、萌乃香の食堂へ昼の鍋を取りに寄れば、常連の舟守が「若いのは足が速くていい」と何の話か分からない感想を述べた。
「速いのは噂ですよね」
創太が言うと、幸育が神妙な顔で頷く。
「さすがにこれは僕の仕事じゃないです」
「残念そうに言わないでください」
「いやあ、ここまで育ちのいい噂は自然発生ですよ」
「育ちのいいって何ですか」
ちひろは平然と歩いていた。平然として見せている、と言ったほうが正しいのかもしれない。市場の視線を正面から受け止め、必要なら笑って返し、でも創太のほうを見すぎないようにしているのが分かる。
その距離感が、かえって苦しい。
昼の依頼は、北運河筋の薬種屋へ急ぎの帳簿を届ける便だった。荷自体は軽い。問題は、途中の白鷺橋のたもとで、商会の手代が二人、いかにも暇そうな顔で立っていたことだった。
那水の読みどおりだ、と創太は思う。
ちひろが足を止めずに言った。
「創太」
「はい」
「手、貸して」
何に、と聞く前に、ちひろの手がこちらの手首を取った。そのまま指を滑らせ、自然な顔で手をつなぐ。
自然な顔で。
やられた側は自然どころではない。
創太は本気で足の運びを忘れかけたが、橋の板を踏み外すわけにもいかない。視界の端で、手代の片方が仲間の脇腹をつつくのが見えた。
「見てます」と創太が小さく言う。
「見せるためにやってる」
「理屈は分かります」
「なら前見て」
「分かってても心臓は別です」
口から出てから、しまったと思った。ちひろが笑いそうになる気配が伝わる。
「今、笑いましたよね」
「少しだけ」
「少しでもです」
「だって正直なんだもん」
橋を渡り切るころ、手代たちの視線ははっきり背中へ刺さっていた。芝居としては成功だろう。創太はちっとも嬉しくなかった。嬉しくないどころか、手のひらにある相手の体温が、偽物のはずなのに妙にまっすぐ伝わってきて困る。
薬種屋への配達を終えると、店主は荷より先に二人の手元を見た。
「あらまあ」
開口一番、それだった。
ちひろがさらりと手を離す。
「荷です。急ぎの帳簿」
「あ、はいはい、それはもちろん大事よ。でも若い子がちゃんとくっついて歩いてるの、見てて景気がいいわね」
「帳簿の景気も見てください」
創太が返すと、店主はころころ笑った。
「前はそんなこと言わなかったじゃない。変わったわねえ」
店を出てから、創太はしばらく無言で歩いた。
ちひろも何も言わない。
沈黙が続いたまま、二人は南へ折れ、旧水門沿いの細道へ入る。午後の荷は幸育に任せ、創太とちひろは一件だけ、保管庫に戻る前に中継所へ寄る予定だった。
人通りが途切れたところで、ちひろが足を緩める。
「ごめん」
今日二度目の謝罪だった。
創太はすぐには答えなかった。水門の石壁を伝う雫が、一定の間隔で下へ落ちている。昔の自分なら、このまま大丈夫ですとだけ言って終わったかもしれない。だが今は、その一言で済ませると、自分の中のどこかがまた黙る気がした。
「仕事だから、っていうのは分かってます」
「うん」
「でも、分かってるのと平気なのは別です」
ちひろが立ち止まる。
創太も立ち止まり、ようやくそちらを見た。
「さっきの橋で手をつないだのも、薬種屋で見られたのも、全部必要だからですよね」
「……そう」
「じゃあ、必要じゃなくなったら終わりますよね」
言葉にした途端、自分で自分の喉が少し痛くなった。
ちひろはすぐに答えない。代わりに、水門の向こうを一度だけ見た。右へ視線が流れる。嘘をつく前の癖だ、と創太は思い出し、思い出したことにさらに嫌になる。
「創太」
「はい」
「いまは、終わらせるために始めた嘘じゃない」
「じゃあ何ですか」
「守るため」
「誰を」
ちひろの口元がわずかに動く。
「……あなたを」
その返事は、少しも楽にならない種類のものだった。
創太は笑えなかった。怒ることもできなかった。
「守られてる感じ、あまりしないです」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
ちひろが目を伏せる。傷ついた顔というより、自分でも分かっていた答えを突きつけられた人の顔だった。
「そうだよね」
その声音があまりに素直で、創太は逆にそれ以上責められなくなる。
ずるい、と思う。
そうやって正直な声を出されると、こっちの言葉の刃だけ鈍る。
「……でも」
創太は息を吐いた。
「やるなら、やりきります」
ちひろが顔を上げる。
「見破られるのが一番まずいんでしょう。だったら半端にしたくないです」
「創太」
「ただし条件があります」
「条件?」
「勝手に全部決めないでください。偽装でも何でも、僕がやることを僕に後から知らせるの、やめてほしい」
ちひろは数秒黙って、それから小さく頷いた。
「分かった」
「ほんとですか」
「ほんと。次からは先に言う」
「次がある前提なのがもう嫌なんですけど」
ちひろが少しだけ笑う。
「それはごめん」
「三回目です」
「反省してる」
「反省してる人は、いきなり腕を組んだり手をつないだりしません」
「必要だったから」
「便利な言葉ですね、それ」
言い合いの形をしているのに、なぜかさっきより少しだけ呼吸がしやすくなっていることに創太は気づいた。たぶん、痛いままでも口に出せたからだ。
中継所から戻るころには、夕方の湿った風が町へ降りてきていた。
隊舎へ入ると、幸育が満面の笑みで待っていた。
「お帰りなさーい。速報です。南市場ではもう『王都帰りのちひろさん、とうとう創太くんに捕まった』で話が固まりつつあります」
「誰が誰に捕まったんですか」
「解釈が市場ごとに違うのが面白い」
「面白がるな」
那水は帳場の紙をめくりながら言う。
「面白い面白くないではなく、商会側の見張りは午後から二手。白鷺橋と西の渡し場。つまり、向こうは信じたか、少なくとも利用価値があると見た」
「使えるなら使い切るだけです」とちひろ。
「言い方が怖いです」と萌乃香。
萌乃香はそれでも温かい皿を出してくれる。今日は刻んだ香草を混ぜた卵粥だった。昼の噂疲れか、全員それを素直にありがたがった。
食卓の空気は妙だった。
いつものように奏丞が経路の話を始めても、幸育が市場の流行布の色を力説しても、どこかで全員が創太とちひろの距離を意識している。意識していないふりが下手なのは幸育で、意識していることをあえて表に出さないのが那水、何も変えないことで助けようとしているのが萌乃香、たぶん本気で半分くらい地図のことしか考えていないのが奏丞だった。
食後、創太が片づけを手伝おうとすると、萌乃香がそっと隣へ来た。
「無理してない?」
「してます」
創太が即答すると、萌乃香は少しだけ笑った。
「うん。そう言えるなら、まだ大丈夫」
「大丈夫の基準、甘くないですか」
「甘くしないと、飛脚隊ってやっていけないから」
萌乃香は洗った椀を拭きながら続ける。
「ちひろちゃん、たぶん本当に焦ってるんだと思う。焦るとあの子、説明を抜かして先に走るから」
「知ってます」
「でも、創太くんが置いていかれた気持ちになるのも分かるよ」
その言い方が静かすぎて、創太は返せなかった。
「嘘ってね、守るために使う人ほど、自分の手も少し切るの。だからって切られたほうが痛くないわけじゃないけど」
萌乃香はそこで話を終えた。創太もそれ以上は聞かなかった。
夜、保管庫へ戻る前に、ちひろが戸口で待っていた。
「少しだけ、送る」
「平気です」
「商会の見張りがいるかもしれないから」
「また必要だから、ですか」
「……うん」
正直だ。そこだけは腹立たしいほど正直だった。
二人で旧郵便塔まで歩く道は、昼の噂の熱がようやく引いたあとで、代わりに水面の匂いが濃かった。運河沿いの灯りがぽつぽつ揺れ、遠くの板橋では誰かが竿をしまっている。
塔の手前で、ちひろが歩幅を緩める。
「創太」
「はい」
「今日は、ほんとにごめん」
「四回目です」
「数えてたんだ」
「数えますよ、それくらい」
ちひろが少し笑う。その笑いのあとで、また真面目な顔になる。
「でも、嘘をついたことだけじゃなくて、あなたに先に相談しなかったことも、ちゃんと悪かったと思ってる」
「……はい」
「だから次は、先に言う」
「次がないのが一番です」
「それはそう」
しばらく、二人で塔の影を見た。古い石壁は夜露を吸って暗く沈み、上階の窓にだけ淡い灯りがある。創太はその灯りを見上げながら、父のことや保管庫のことや、さっき橋でつないだ手のことを一度に考えてしまい、うまく息が整わなくなった。
「……創太」
「何ですか」
「嫌なら、ほんとに今からでもやめるよ」
ちひろの声は、今度こそ迷っていた。
創太は少しだけ考えて、それから首を振る。
「やめません」
「どうして」
「見張られてるのは事実だからです」
「仕事の理由以外は?」
その問いは、ずるいと思った。
でも、ずるいのはお互いさまだったのかもしれない。
創太はすぐには答えず、やがて小さく言った。
「……やめるほうが、たぶん今は、もっとしんどいので」
ちひろが息を呑む気配がした。
顔は見なかった。見たら、たぶん言い直したくなる。
「おやすみなさい」
それだけ残して、創太は塔へ入った。
石段を下りながら、右手のひらがまだ少し熱いことに気づく。橋の上でつないだ手の熱だ。必要だから触れた。見せるために触れた。そう頭では何度でも整理できるのに、手のひらだけが勝手に覚えている。
保管庫の扉を開けると、湿った紙の匂いがいつもどおり迎えた。
創太は油灯を置き、今日読みかけだった受付台帳を開く。数字の列は冷たい。欠番は正直だ。あるものとないものを、嘘なく並べる。
なのに、人の気持ちはそうはいかない。
付き合っている、という言葉は嘘だ。
でも、その嘘で胸が跳ねたことは嘘じゃない。
守るために始まったことだと分かっている。終われば消える、仕事のための形だとも分かっている。それでも、あの人の手の熱だけは、紙の数字みたいに簡単に分類できなかった。
台帳の行を目で追いながら、創太は小さく息を吐く。
偽りの気持ち。
そう呼んでしまえば、少しは扱いやすくなるのだろうか。
けれど本当は、そのどこまでが偽りで、どこからが本音なのか、もう創太自身にも分からなくなり始めていた。




