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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第5話 初恋が帰ってきた町

 雨宿りの翌朝、沢地萃はひどく働き者の町みたいな顔をしていた。


 昨夜あれだけ降った雨は、明け方にはすっかり引いたらしい。高床の家々の軒先から垂れる雫はまだ絶えないが、運河の水面には朝日が薄く伸び、板橋を渡る魚売りの声もいつもどおり響いている。ぬかるみと湿り気を抱えたまま、それでも暮らしは止まらない。その図々しいたくましさが、創太は嫌いではなかった。


 嫌いではないのだが、今日は朝から落ち着かなかった。


 旧郵便塔の保管庫で棚札の掛け替えをしていても、帳面へ保管印を写していても、ふとした拍子に昨日のことが勝手に差し込んでくる。旧水門小屋。濡れた制服。首元へ伸びた手。あのあと何度も思い返したせいで、もう実際より細かく記憶している気がした。


 背、伸びたね。


 たった一言なのに、頭の中で妙に反響する。


 創太は棚番号を書き損じた紙を前に、小さく息を吐いた。紙端が湿気で少し波打っている。


 「創太ー、隊舎のほう行く?」


 階段の上から声が降ってきた。幸育だ。


 返事をする前に、彼は二段飛ばしで石段を駆け下りてくる。朝から髪紐の色がやたら明るい。今朝は水色と黄緑だった。沢地萃の曇り空に対抗したいのかもしれない。


 「那水さんが、昼前の便まとめるから地図係ほしいって。あと萌乃香さんが芋焼いたから早く来ないと減るって」


 「情報の並び順がおかしい」


 「大事な順ですけど」


 「絶対違う」


 言いながら創太は棚札を揃え、帳面を閉じた。今日は午前のうちに隊舎へ顔を出す約束になっている。再配達便が増え始め、保管庫だけでは捌ききれないものが出てきたからだ。


 階段を上がる途中、幸育がわざとらしく顔を覗き込んできた。


 「ところで創太さん」


 「嫌な予感しかしないのでやめてください」


 「まだ何も言ってませんよ」


 「その前置きの時点でだいたい嫌です」


 「じゃあ単刀直入に聞きますけど、昨日、旧水門小屋で何かありました?」


 創太は足を滑らせかけた。


 「何で知ってるんですか」


 「知ってるっていうか、帰ってきたときの顔がもう」


 「顔?」


 「初恋が帰ってきた町で、一人だけ昨夜から急に風向き変わった人の顔」


 創太は無言になった。


 幸育はにやにやする。にやにやしながらも、手すりの壊れかけた箇所ではちゃんと自分が前へ出て避けさせるあたり、変なところで気が利く。


 「否定しないんですねえ」


 「……する意味あります?」


 「お、今日はわりと正直」


 「何も認めてません」


 「でも否定はしない」


 「うるさいです」


 地上へ出ると、湿地を撫でる風が少し生ぬるかった。塔の裏手から隊舎へ続く板道には、昨夜の雨で流れ着いた浮草が端に寄っている。幸育はそれを飛び越えながら、さらに面白そうに続けた。


 「町でももう噂ですよ。ちひろさん帰ってきたって。今朝なんて南市場で魚屋のおばちゃんが『あの子、また沢地萃を走るのかい』って言ってました」


 「朝から早いですね」


 「沢地萃の朝はだいたい人の話が主食ですから」


 「栄養が偏ってる」


 「でも今日は豊作ですよ。王都帰りの元飛脚が戻ってきた。しかも旧水門小屋で雨宿りしてた」


 「そこまで広がってるんですか?」


 「そこは僕、まだ広げてません」


 「まだって言いましたね」


 「だって事実確認が先かなって」


 「確認しなくていいです」


 幸育はあっさり肩をすくめたが、目の光り方からしてまったく諦めていない。


 隊舎へ着くと、戸口の前に乾かし中の防水布が三枚吊るされていた。萌乃香が昨日のうちに洗ったらしい。布のあいだから湯気と焼いた芋の匂いが流れてくる。


 中では那水が帳場の台へ紙を広げ、奏丞がその横で新しい配達図を描いていた。ちひろは窓辺で濡れた紐束をほどいている。朝の光のなかだと、昨夜よりいくらか柔らかい顔に見えた。


 「地図係、来た」


 ちひろが最初に気づいた。


 それだけなのに、創太は妙に姿勢を正してしまう。


 「……来ました」


 「声、固いね」


 「朝なので」


 「朝だからこそじゃない?」


 「意味が分かりません」


 意味が分からないふりをしながら、創太は視線をそらして帳場のほうへ回った。幸育が背後で肩を震わせている。殴りはしないが、あとで地図の折り方を一番細かく教えるくらいはしてもいいかもしれない。


 那水はそんな空気を一切気にせず、紙束を二つに分けた。


 「今日の再配達は三件。うち二件は通常。残り一件が面倒」


 「面倒、って言い方、帳場としてどうなんですか」


 「事実をやわらかく包む必要があります?」


 「ないです」


 那水が一枚の封筒を指先で叩く。厚手の白封筒に、銀糸の縁取り。沢地萃ではあまり見ない紙質だった。


 「結婚式前夜の招待状誤配送。宛先は北灯橋の染織師、志波遼助。差出は東舟町の菓子店、花房。式は今夜」


 「今夜?」創太が顔を上げる。


 「え、前夜に届く招待状ですか?」幸育も目を丸くした。


 「招待状そのものは三日前に出てる。問題は、私設便が途中で宛先札を取り違えて、似た名前の志場涼之って木工師のところへ運んだこと。木工師の家は昨日まで親戚の法事で留守。今朝になって戻ってきて、ようやく間違いが判明」


 那水は淡々と言う。


 「普通なら差出人へ戻して謝罪で終わる案件だけど、差出人の菓子店が『どうしても今日中に本人へ届けてほしい』と飛脚隊へ泣きついてきた」


 「招待状だけなら、式に行けば会えるんじゃないですか」


 創太が聞くと、萌乃香が芋皿を置きながら首を振った。


 「それがね、その招待状、ただの招待じゃないんだって」


 「また濃い話が出てきましたねえ」幸育が椅子を引く。


 「濃いかどうかは知らないけど、差出人の花房さんの妹さんが今夜結婚するの。で、遼助さんは昔からその家と付き合いがあって……」


 そこで萌乃香は少しだけ言葉を選んだ。


 「たぶん、最後にきちんと呼びたい相手なんだと思う」


 ちひろが封筒を持ち上げ、宛名を確かめる。


 「志波遼助。北灯橋の染織師。今もあの作業小屋で一人?」


 「表向きはそう」と創太が答えた。「でも昼間は南の干し場にいることが多いです。染料の乾きが見られる高台があるので」


 「住所が実質二つあるんだ」


 「作業小屋に寝泊まりはしてます。でもこの時期は染め場へ詰める日が多いはずです」


 ちひろがすぐに頷く。創太の説明を疑う前に使う顔だった。


 「じゃあ北灯橋を起点に探すより、干し場へ先回りしたほうが早い」


 その決め方が自然すぎて、創太は少しだけ胸の奥が軽くなる。自分の知っていることが、そのまま足になる感覚だった。


 奏丞が地図の端に印をつけた。


 「北灯橋から干し場へ行くなら、今日は東の板道は避けたほうがいい。昨夜の雨で杭が一本浮いてる。南市場を抜けて染草の並木側から回れば、橇でも人でも行ける」


 「時間は?」那水が問う。


 「今出れば午前で届く。相手が見つからなければ昼をまたぐ」


 「なら創太、ちひろ、幸育の三人で行って。私は帳場を空けられない」


 「僕も行くんですね?」幸育が嬉しそうに言う。


 「あなたは顔が広いから。市場で人を探すなら使える」


 「わあ、珍しく褒められた」


 「使えると言っただけです」


 那水に切られても、幸育はまったくへこたれなかった。


 十分後には三人で隊舎を出ていた。ちひろが招待状を防水袋へしまい、幸育が先導するように南市場へ向かう。創太は地図代わりの簡易帳面を持って歩いた。


 昼前の沢地萃は、朝よりずっと賑やかだ。運河沿いでは魚籠が並び、板橋の上では野菜売りと布商人が言い合いをし、子どもたちはぬかるみを避けるどころか面白がって踏んでいく。そんな雑多な音のなかで、ちひろが歩くと、人が少しずつ振り返った。


 「ほんとに帰ってきたんだねえ!」


 最初に声を上げたのは、南市場の魚屋の女将だった。鱗のついた手を腰布で拭きながら、大きく笑う。


 「ちひろちゃん、あんた王都のえらいところで働いてるって聞いたよ」


 「えらくはないです。紙に埋もれてただけ」


 「それがいちばんえらいんだよ。うちの亭主なんて帳面見たら三行で寝るからね」


 周囲がどっと笑う。ちひろはその笑いにすぐ混ざれる。大声で場を取るわけではないのに、いつのまにか輪の中心へ立っている。


 「また走るのかい」


 「走ります。だから手紙も荷も、ちゃんと飛脚隊へ回してください」


 「私設便より安くしてくれる?」


 「安さだけなら頑張る。でも遅らせないほうで勝ちます」


 女将が目を丸くし、それから豪快に笑った。


 「言うねえ」


 言う。そういうふうに、ためらわず言うのだ。創太は少し後ろからそのやり取りを見ながら、五年前もこうだったと思い出した。誰かが困っていたら先に声を掛け、場がよどめば風を通し、人のあいだにできた隙間へ自分の体を差し込んで橋にしてしまう。ちひろは昔からそういう人だった。


 幸育はその横で、すでに別の店へ聞き込みを始めていた。


 「遼助さん、今日どこいるか知りません? ほら、北灯橋の染める人」


 「ああ、志波の坊や? 朝は高台の干し場行ってたよ」


 「一人で?」


 「一人一人。いつも一人」


 「うわ、答えが染みるなあ」


 「余計な感想を挟まない」


 ちひろに軽く小突かれても、幸育は元気だった。


 三人は市場を抜け、染草の並木へ向かう。途中の板道で、古道具屋の主人がちひろを見つけて声を掛け、橋のたもとでは洗濯物を干していた娘二人がひそひそと笑い合い、干し網の向こうでは年配の舟守が「飛脚隊、また本気か」と眉を上げた。


 そのたび、創太はなんとも言えない気持ちになる。


 町はちひろの帰還を歓迎している。五年前にいなくなった人が戻ってきたのを、驚きながら、どこか当然みたいにも受け止めている。その輪の外側に立っている自分だけが、昨日の一言一つに振り回されている気がした。


 「創太」


 名を呼ばれ、創太は我に返った。


 「ぼんやりしてる。板、滑るよ」


 ちひろが半歩戻ってきていた。細い板橋の継ぎ目に水が残っている。


 「大丈夫です」


 「顔は大丈夫じゃない」


 「朝からずっと同じこと言ってませんか」


 「朝からずっと分かりやすいからね」


 幸育が前から振り向いてにやつく。


 「やっぱり昨夜、何か――」


 「前見て歩いてください」


 創太が言い切ると、幸育は吹き出した。


 「うわ、声つよ」


 「落ちたら助けませんよ」


 「それは助けて」


 高台の干し場は、沢地萃の南端にある小さな盛り土の上だった。湿地の町では珍しく、地面が少しだけ高い。そのぶん風が通り、染めた布を乾かすには都合がいい。並んだ木枠に、藍、土黄、薄紅の布が揺れている。


 そのあいだで、一人の男が紐を結び直していた。


 年は二十五、六だろうか。背が高く、肩は広いが、立ち方がどこか静かだった。布を扱う手つきに迷いがない。創太たちへ気づくと、手を止めてまっすぐこちらを見た。


 「志波遼助さんですか」


 ちひろが声を掛ける。


 「……はい」


 「沢地萃郵便飛脚隊です。花房菓子店から、お届け物を」


 男の目がわずかに動いた。花房という名に、風向きでも変わるみたいに反応したのが分かった。


 ちひろが防水袋から封筒を出す。遼助はすぐには受け取らなかった。


 「今さら」


 低い声だった。


 「式は今夜でしょう。招待状なんて、もう間に合わない」


 「だから、間に合わせに来ました」ちひろが言う。


 「飛脚はそういう仕事です」


 遼助は苦く笑った。


 「三日前なら、行ったかもしれない」


 創太はその言い方で察した。これはただの呼ばれ忘れではない。行くか行かないかを迷い続けるには、長すぎる時間がこの人の中にある。


 遼助はようやく封筒を受け取った。指先に染料の薄い藍が残っている。


 封を切る手は遅かった。厚手の紙を広げ、短い文面を読んだあと、彼はしばらく何も言わなかった。


 「……遅いな」


 それが最初の感想だった。


 「はい」とちひろが素直に答える。「遅れました」


 「ずいぶん」


 「でも、届きました」


 遼助は返事をしない。代わりに視線が紙面の下で止まる。追記があるのかもしれない。創太は直接覗く気にはなれなかったが、水紋印の残りが、差出人の感情をほんの少しだけ伝えていた。封を切った空気に、微かな熱が残る。怒りでも義理でもなく、長く迷って、やっと決めた人の手紙だ。


 幸育が珍しく黙っている。


 やがて遼助が口を開いた。


 「花房の妹さん、結婚するんですね」


 「はい」


 「そうですか」


 それだけ言って、彼は紙を折った。


 だが折り方が、きれいすぎた。何度も読み返したい人の手つきではなく、読んだこと自体をすぐしまい込みたい人の手つきだ。


 創太は思わず口を開きかけた。けれどいつもの癖で、半歩遅れる。


 そのわずかな沈黙を、ちひろは待った。待って、それから横目だけで創太を見る。言うなら今だ、と急かさず背中を押すような視線だった。


 「……あの」


 創太の声に、遼助が顔を上げる。


 「招待状、本文の下に何か書いてありましたか」


 「あります」


 「差出人は、花房の……」


 「姉です。今日嫁ぐ本人じゃない。姉のほう」


 「やっぱり」


 創太は小さくうなずいた。水紋印の熱の残り方が、祝いの高揚ではなかったからだ。もっと落ち着いていて、けれど手放したくないものを両手で押し出すような名残だった。


 「それ、たぶん、ただ人数を揃えるための招待じゃないです」


 遼助の眉が少し動く。


 「……分かるんですか」


 「手紙の熱、残るので。正式便は少しだけ」


 「いや、そうじゃなくて」


 遼助は困ったように口元を歪めた。


 「どうして、そう思ったのか」


 創太はうまく言葉を探した。


 こういうとき、全部を説明しようとすると絡まる。だから覚えている具体だけを拾う。


 「三日前に届いてたら、行ったかもしれないって、さっき言ったでしょう」


 「……言いました」


 「行けない理由が、今もあるなら、招待状が早くても遅くても、たぶん同じです。でも、三日前なら迷えた」


 創太は自分でも驚くくらい、途切れずに続けられた。


 「それって、行きたくないんじゃなくて、行きたい理由のほうが、まだ残ってるからだと思います」


 風が布を鳴らした。


 遼助はしばらく黙り、それから、ふっと力の抜けた息を吐いた。


 「……五年です」


 低く落ちた声は、誰に向けたというより、自分の中のどこかへ向けていた。


 「向こうが王都の店へ修業に入る前、待ってるって言ったんです。俺は店を持つまで迎えに行けないと思って。恥ずかしい話ですが、そういうことにしておけば、自分が遅いのも言い訳できた」


 ちひろも幸育も口を挟まない。


 「でも結局、何も間に合わなかった。店は持ててないし、迎えにも行ってない。気づいたら、向こうは向こうで次の暮らしを選んでた」


 彼は招待状を見下ろした。


 「それで今さら、式に来てくれって」


 笑おうとしたのだろうが、うまく形にならなかった。


 創太は胸のどこかがちくりとした。五年、という長さが、自分には別の意味でも刺さる。言えなかったこと。間に合わなかったと思い込んでいること。帰ってこないと思っていた相手が、突然目の前に立ったこと。


 幸育が珍しく静かな声を出した。


 「それ、来てほしいんじゃないですか」


 全員が彼を見る。


 「いや、ほら、誰だって、ほんとにもう要らない相手なら呼ばないでしょう。結婚式って席も菓子も金も増えるし」


 「お前、急に現実的ですね」ちひろが言う。


 「暮らしの話はだいたい現実的ですよ」


 幸育は肩をすくめた。


 「しかも菓子店の人ですよね。甘いもの扱う人ほど、最後の形にこだわるから」


 「何その理屈」


 「経験則です」


 妙に説得力があるのが悔しい。


 遼助は少しだけ笑った。今度の笑いは、さっきよりまだ人間の顔に近かった。


 「花房の姉さん、昔からそういう人でした。言わないでおく優しさより、言って傷つくほうを選ぶ」


 「じゃあ、やっぱり来てほしいんですよ」とちひろが言う。


 「祝うためだけじゃなくても。ちゃんと終わらせるためでも、区切りをつけるためでも、来てほしい相手にしか、ああいう紙は出さない」


 遼助は招待状をもう一度開いた。今度は折らず、目で追う時間がさっきより長い。


 「行ったら、迷惑かもしれない」


 「それは行ってから判断されることです」と那水なら言いそうな声でちひろが返した。「少なくとも、届いたのに行かないのと、届かないまま終わるのは違う」


 創太はその言葉が、そのまま自分へも向いているような気がした。


 遼助はしばらく考え、やがてゆっくり頷いた。


 「……分かりました。行きます」


 幸育がぱっと顔を明るくする。


 「よし、間に合った」


 「まだ着替えもしてないですけどね」


 「そこは飛脚隊がちょっと手伝えます」ちひろが即答した。「北灯橋に戻るなら、途中の古着屋で上着が借りられる。花房の店までの最短も分かる」


 「それ、飛脚の仕事ですか」創太が聞く。


 「今日は仕事。人生の配達だから」


 「便利な言い方」


 けれど嫌いではなかった。


 三人は遼助を連れて町へ戻った。途中、幸育が先に走って古着屋へ声を掛け、ちひろが花房菓子店へ『本人向かう』の伝言を送り、創太は北灯橋の小屋に寄って染料のついていない上着を見つくろうのを手伝った。


 そのあいだ遼助は何度か「ここまでしてもらうことじゃ」と言いかけたが、ちひろは全部「もう引き受けました」で片づけた。


 夕方近く、花房菓子店の裏庭へ遼助が入っていくのを、創太たちは表の通りから見届けた。式場は店の二階座敷を使うらしく、軒先には白い布花が下がっている。中から笑い声も聞こえる。


 本人同士がどんな顔で会うのかまでは、さすがに見ない。


 「さて、ここから先は家族の時間ですね」


 幸育が珍しく空気を読んで踵を返した。


 「見ないんですね」創太が言うと、彼は胸を張った。


 「僕だって、見るとこ選びますよ」


 「意外」


 「失礼だなあ」


 帰り道、沢地萃の灯りが一つずつ運河沿いにともり始めた。雨上がりの夜は水面が光をよく返す。板橋の下を細舟がすべり、食堂からは煮込みの匂いが漂い、遠くの高床家屋では窓越しに誰かが笑っている。


 隊舎へ戻る前に、ちひろが立ち止まった。


 郵便塔の見える小さな橋の上だった。欄干はまだ湿っているが、空にはようやく雲の切れ間ができ、薄い夕焼けが残っている。


 「少しだけ、いい?」


 幸育が気を利かせたのか、あるいは単に腹が減ったのか、先に隊舎へ走っていく。


 「萌乃香さんに報告しときますねー!」と大声を残して。


 二人きりになってから、創太は欄干の水滴を見つめた。何か言われる気配がすると、先に自分の言葉が全部逃げる。


 「今日、助かった」


 ちひろが言った。


 「干し場で。創太が口を開いてくれたから、遼助さん、ちゃんと立ち止まれた」


 「……僕だけじゃないです。幸育も言ってたし」


 「うん。でも最初の一歩は創太だった」


 その言われ方は、やっぱり困る。


 褒められるのに慣れていないせいもあるし、ちひろに言われると余計に効くせいもある。


 「今日みたいに、遅れても届くもの、あるんですね」


 創太は独り言に近い声で言った。


 「うん」


 「五年でも」


 ちひろはすぐには返さなかった。


 橋の下で水が小さく鳴る。運河を渡る風が、彼女の前髪を少し揺らした。


 「……帰ってきたかったんだよ、ずっと」


 あまりに小さくて、聞き間違いかと思うくらいの声だった。


 創太は顔を上げた。


 「え」


 ちひろは一瞬だけこちらを見たが、すぐに視線を逸らした。


 「何でもない」


 「今、言いましたよね」


 「言ってない」


 「言いました」


 「沢地萃の夜風、たまに変なふうに聞こえるから」


 「そんな現象あります?」


 「あるある。湿地だし」


 「雑です」


 昨日も似たようなやり取りをした気がする。創太が睨むと、ちひろはとうとう笑った。誤魔化した笑いだ。でも、その笑いの端に少しだけ疲れた色が混じっているのを、創太は見た。


 帰ってきたかった。


 その言葉が本当なら、なぜ五年も戻れなかったのか。王都で何に足を取られていたのか。何を守ろうとして、何を飲み込んでいるのか。聞きたいことはいくらでもある。


 けれど今は、問い詰めるタイミングではないのも分かった。


 だから創太は、違うことを言った。


 「……町の人、みんな嬉しそうでした」


 「誰が?」


 「南市場も、古道具屋も、舟守も」


 「それは、飛脚隊が戻るかもしれないからだよ」


 「それだけじゃないです」


 ちひろが黙る。


 創太は欄干へ手を置いた。冷たい木の感触が掌に残る。


 「ちひろさんが戻ってきたからでも、あると思います」


 言ってから、やや言いすぎたかもしれないと思った。だがもう遅い。


 ちひろは少しだけ目を丸くし、それから困ったように笑った。


 「そういうの、急に言うようになったね」


 「誰かのせいです」


 「心当たりが多すぎる」


 「一人に絞ってください」


 「無茶言う」


 会話は軽いのに、橋の上の空気は少しだけ深くなった。


 創太はその深さに落ちないよう、でも逃げないように息を整える。ちひろも同じだったのかもしれない。しばらく二人で、運河に映る灯りを見た。


 やがて隊舎のほうから、幸育の声が飛んできた。


 「報告まだですかー! 萌乃香さんが煮込み冷めるってー!」


 台無しだ、と創太は思ったが、ちひろは声を上げて笑った。


 「行こっか」


 「はい」


 二人で橋を渡る。


 隊舎へ戻ると、萌乃香がほんとうに鍋を守る姿勢で待っていた。那水は帳簿へ配送完了の印をつけ、奏丞は「結婚式前夜の誤配送、記録分類は慶事・急配・感情揺れ大かな」と意味不明な整理をしている。幸育はすでに二杯目をよそっていた。


 「どうだった?」と萌乃香。


 「届いた。本人、行くって」ちひろが答える。


 萌乃香は胸に手を当てて安堵し、幸育は「よかったあ」と言いながらちゃっかり一番肉の多い椀を確保した。


 那水が帳面から目を上げずに言う。


 「結果としては成功。遅配の印象も多少は取り返せた。南市場の花房が明日以降も飛脚隊を使うと言ってる」


 「商売の話が速い」


 「速いほうがいいでしょう」


 「でも、それだけじゃないですよね」萌乃香がにこにこしながら言う。「遼助さん、ちゃんと行けたんだよね」


 「行きました」と創太が答える。


 その一言で、萌乃香は満足そうにうなずいた。


 「なら十分」


 鍋の煮込みは、昨夜の雨を忘れさせるくらい温かかった。芋と豆と塩漬け肉がやわらかく煮えていて、匙を入れるたび湯気が立つ。幸育が今日の聞き込み成果を大げさに語り、奏丞が北灯橋の高台ルートを図に起こし始め、那水はその横で「次から私設便の誤配送修正も料金表を分けるべき」と真顔で計算していた。


 そんな雑多な卓の向こうで、ちひろがふと創太を見る。


 昼間の橋の上の続きみたいな、短い視線だった。けれど今度は誤魔化さず、ほんの少しだけ柔らかく笑った。


 創太は匙を持ったまま、一拍遅れてうなずく。


 遅れても、届くものがある。


 今日それを誰かの手紙で見た。


 だから余計に、自分の胸の内だけは、まだどこにも配達できていないことがはっきりする。


 初恋が帰ってきた町は、昨日までと同じ道と同じ水音でできているはずなのに、歩くたび少しずつ別の場所みたいに見えた。


 たぶん、自分のほうが変わり始めているのだ。


 その自覚だけを抱えたまま、創太は湯気の向こうで笑う仲間たちを見た。


 届けるべき言葉は、まだ喉の奥にある。


 けれど前より少しだけ、その重さに名前がついた気がした。



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