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沢地萃郵便飛脚隊 最低な再会から始まる、最高の恋と最後の配達  作者: 乾為天女


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第4話 突然の雨と雨宿り

 サラダの手紙が沢地萃じゅうで妙な評判になってから、飛脚隊舎の朝は少しだけ忙しくなった。


 劇的に依頼が増えたわけではない。隊舎の前へ長蛇の列ができることもなければ、那水の帳場が悲鳴を上げるほど帳票が積み上がるわけでもない。けれど、以前なら私設便へそのまま流れていたはずの一通が、ためらいながらもこちらへ向けられるようになった。窓口へ来た人が「この前、染場の子の話を聞いて」と前置きするたび、幸育がいかにも仕事をしている顔で胸を張り、那水が横から「そこで鼻を高くしない」と小声で刺す。そんな朝が三日続いた。


 四日目の朝、創太は旧郵便塔の夜勤明けで隊舎へ顔を出したところを、扉口でそのまま捕まった。


 「ちょうどいい」


 那水が帳場の上から一枚の依頼票を取り上げる。


 「よくない予感しかしません」


 「予感じゃなくて事実。速達が入った」


 依頼票は薄い黄の紙で、端に赤い線が引かれていた。雨季の速達印だ。晴天の町なら馬や人の足で何とでもなるが、沢地萃とその周辺では、水かさが増す前に道を渡し切れるかどうかで意味が変わる。


 創太は票面を見た。


 差出は北運河筋の診療所、平戸医師。宛先は隣村・白蓮洲の薬師、阿瑠。中身は薬湯の配合控えと、今朝の容態を書いた簡易診札。昨夜、白蓮洲から運ばれた子どもの熱が下がらず、村側で同じ薬湯を継ぐための分量が急ぎで必要になったらしい。


 「白蓮洲なら細舟が一番では」


 創太が言うと、那水は首を横へ振った。


 「今朝の風だと舟は遅い。北から押されて、帰りが読めない。板橇で南浮草路を抜けたほうが早い」


 「板橇……」


 「顔に出てる」幸育が口を挟む。「創太さん、今、走るよりはましって顔しました」


 「してません」


 「しました」


 ちひろが外套の留め具を留めながら、そこで笑った。


 「大丈夫。今日は全力疾走じゃない。私が引く。創太は道を見て」


 「私が行く前提で話が進んでませんか」


 「進めてるの」


 「意思」


 「尊重するよ。尊重しながら連れていく」


 前にも聞いた理屈だった。


 萌乃香が奥から小さな包みを二つ持ってくる。


 「朝ごはん代わりのお芋餅。ひとつずつね。あと生姜を少し多めに入れた湯。白蓮洲のほう、風が冷えるから」


 「助かる」


 ちひろが受け取り、創太にも片方を押しつけるように渡した。


 創太はため息をつくふりをして受け取った。断りきれなかった、という顔を作るのにもだいぶ慣れてきたのが、自分でも少し癪だった。


 隊舎の裏手には、昨夜のうちに幸育が磨いた板橇が二台並べてある。湿地を滑るための幅広の底板に、荷を結ぶ革紐、濡れても手を滑らせにくい短い取っ手。白蓮洲へ向かう南浮草路は雨季に沈みやすく、舟が通れない浅瀬と、歩けば膝まで沈む泥地がまだらに続く。板橇はその中間を抜けるための、沢地萃らしい道具だった。


 奏丞は地図を抱えたまま見送りに出てきて、まだ出発前だというのに興奮していた。


 「南浮草路は今朝の時点で第三杭列までは安定してる。四列目から先が少し怪しい。風が西へ振れたら旧水門筋へ寄ったほうがいい。あと白蓮洲の手前、葦の切れ目が一つ増えてるから、左に見える黒い杭じゃなくて、その向こうの低い杭を目印に――」


 「分かったから、息継ぎして」


 那水が地図の端をたたむ。


 「帰りが遅れそうなら旧水門小屋で待つこと。無理に突っ切らない」


 「了解」


 ちひろが答える。


 創太は板橇の紐を手に取った。指先に湿った革の感触が伝わる。父が生きていたころ、旧郵便塔の下でこの革紐の結び方を見ていた記憶が、一瞬だけよみがえった。結び目は急ぐほど雑になるから、急ぐ日にほど丁寧に結べ、と父はよく言っていた。


 思い出したくて思い出したわけではないのに、こういう朝の手つきが勝手に引っ張り上げてくる。


 「創太」


 ちひろが隣で声をかけた。


 「行こう」


 創太は短くうなずいた。


 沢地萃を南へ抜けると、町の湿り気はそのままに、音だけが少なくなる。


 家々をつないでいた渡し板はやがて途切れ、代わりに低い杭が等間隔に打たれた浅い道筋が続く。浮草の間にわずかな流れがあり、板橇の底が水を切るたび、草の根がかすかに鳴った。遠くでは水鳥便の白い影が二羽、斜めに空を渡っていく。


 ちひろが前で引き、創太は後ろから板橇の向きを整えた。


 「右」


 創太が言う。


 「うん」


 「その杭じゃなくて、一つ先です。今のは去年打ち直したやつで、少し北にずれてる」


 「どうして分かるの」


 「木肌が新しいから」


 「ほんとに何でも見てるね」


 見ているだけだ、と創太は言いかけてやめた。


 最近、その言い方を自分で続けるのが少しだけ面倒になっている。見ているだけでは済まなくなりそうな場面が、飛脚隊へ顔を出すたび増えていた。


 白蓮洲までの道は、前半は滑るように速かった。雨季前の風は重いが、まだ嵐の芯までは育っていない。南浮草路はところどころ水が張り、板橇の底に薄く水膜ができて、足を使うよりむしろ進みやすいくらいだった。


 創太は進みながら、左手に見える葦原の切れ目と、遠くの水門柱の傾き具合を見比べた。


 「少し南に寄ります」


 「理由は」


 「白蓮洲の手前、昨日の雨で細い流れが一本増えてるはずです。正面から行くと橇がはまる」


 「奏丞も似たこと言ってたね」


 「地形のことは、あの人のほうが正確です」


 「でも今のは、創太の目で言ったでしょう」


 前を向いたままのちひろの声が、少しだけ笑っている。


 「……見れば分かることです」


 「見ても分からない人、いっぱいいるよ」


 そう返されると、それ以上は続かなかった。


 創太は視線を逸らすように空を見た。雲は薄かった。朝のうちは、まだ。


 白蓮洲は、沢地萃より少しだけ空の広い村だった。


 高床の家は少なく、代わりに低い土台の上へ葦簾を巡らせた家が並ぶ。家と家のあいだには白い蓮が浮かぶ浅い池があり、そのために村名がついたと聞いたことがある。風が通ると、葦簾と蓮の葉がこすれ、紙をめくるような乾いた音がした。


 薬師の家は村の南端、干した薬草の匂いですぐに分かった。軒先に吊るされた束の中に、水熱を下げる細葉の草と、咳止めに使う黒い実の枝が混じっている。


 「沢地萃郵便飛脚隊です。平戸医師から速達」


 ちひろが名乗ると、戸口から年若い薬師が飛び出してきた。阿瑠は二十代半ばくらいの女で、袖を肘までまくり、髪を急いで一つに結ったまま、こちらの封を見ただけで顔色を変えた。


 「助かった……!」


 その一言に、速達の意味が全部入っていた。


 阿瑠は封を受け取ると、その場で中身を確認した。配合控えを目で追い、診札の裏に書かれた追記に大きくうなずく。


 「やっぱりそうか。昨夜から汗の出方が変だったの。湯の濃さを一段下げて、黒実は半量……分かった」


 薬師の家の奥から、子どもの咳と、付き添っている誰かを落ち着かせる低い声が聞こえた。大ごとというほどではないが、遅れればたしかに困っただろう。その境目の仕事なのだと創太は思う。


 阿瑠はすぐに書き付けを一枚ちぎり、返書としてちひろへ渡した。


 「これ、平戸先生に。今夜の体温と、次の薬湯の出来を返す。あと、診札の保管印も」


 「預かります」


 ちひろが受け取る。


 阿瑠はそこでようやく、二人の顔を見比べた。


 「……飛脚隊、また動いてるんだね」


 どこか信じきれない響きだった。村にまで、沢地萃の飛脚隊が止まりかけていた話は届いていたのだろう。


 「まだ少しずつですけど」


 ちひろが答える。


 「少しずつでも、来てくれるなら助かる。私設便だと、湿地の薬草なんて軽い荷って顔されるから」


 阿瑠は苦く笑い、けれど次の瞬間には忙しさを思い出したように踵を返した。


 「ごめん、今は子どものほうを見ないと。また頼む」


 「はい。今度はもっと早く」


 ちひろがそう返し、薬師の背を見送る。


 白蓮洲を出るころ、風向きが変わっていた。


 さっきまで頬を押していた風が、今度は横から湿っぽくまとわりつく。創太は板橇の取っ手を握ったまま、空を見上げた。南の低いところに、色の重い雲がいる。まだ遠いが、育つ時の雲だ。


 「早めに戻りましょう」


 「うん。私もそう思ってた」


 ちひろが言ったのと、最初の一滴が頬へ落ちたのはほとんど同時だった。


 ぽつ、ではない。ぴし、と小石みたいな雨粒だった。続けて二つ、三つ。蓮池の表面に丸い跡が広がり、葦簾が一斉に鳴る。


 「来る」


 創太が言う。


 「分かってる」


 ちひろは板橇の紐を肩にかけ直し、歩幅を速めた。


 白蓮洲の南端から沢地萃への戻りは、行きよりわずかに上りになる。しかも風が逆だ。浅瀬に乗る板橇は便利だが、正面から強い風を受けると途端に鈍る。創太は後ろから押し手に回り、板の向きを細かく修正した。


 雨脚は見る間に太くなった。


 浮草の緑が灰色に塗りつぶされ、杭の輪郭が滲む。足首までだった水が、雨に打たれて一気に冷たく感じられた。板橇の上へ跳ね返る水で、外套の裾がすぐ重くなる。


 「創太、左!」


 「違います、右です! 左は切れてる!」


 「了解!」


 ちひろは迷わず修正した。そういうところが、この人のいい意味で厄介なところだ。判断を他人から受け取るのが速い。創太が迷っているあいだに、もう動いてしまう。


 雷が鳴った。遠くではなく、近い。


 南浮草路の杭列が一本、視界から消えた。雨で見えないのではなく、水面が上がりかけているのだ。


 「このまま正面は危ないです」


 「じゃあ?」


 「旧水門筋へ寄る。小屋まで行ければ屋根があります」


 答えた瞬間、ちひろはもう向きを変えていた。


 旧水門筋は今は使われていない古い管理路だ。昔、沢地萃と白蓮洲のあいだで通水量を調整していた水門の名残があり、そこに水門番用の小屋が残っている。今は半ば放置されているが、屋根と壁だけはまだ使えるはずだった。


 雨は痛いほどになった。


 創太の前髪から雫が落ち、視界が細くなる。外套の中まで湿気が入り、息を吸うたび喉が冷える。ちひろの背中もすでに濡れ切っていたが、それでも紐を引く足取りは乱れない。


 旧水門柱が見えたとき、創太は思わず声を上げた。


 「あそこです!」


 葦の向こうに、黒ずんだ木小屋の影があった。壁板は半分色が抜け、屋根の端は苔で丸くなっている。それでも今は、どんな隊舎より立派に見える。


 二人は板橇を軒下へ押し込み、小屋の中へ滑り込んだ。


 屋根を打つ雨音が、外の世界を一瞬で遠ざける。


 「はあ……っ」


 ちひろが壁へ手をつき、大きく息を吐いた。


 小屋の中は狭かった。古い通水図が剥がれかけたまま壁に貼りつき、片隅には錆びた鉤と、使われなくなった木箱が一つ。床板は湿っていたが、屋根穴は思ったより少なく、吹き込む雨も軒先ぎりぎりで止まっている。


 創太は扉代わりの板を引き寄せ、横から吹き込む雨を少し塞いだ。


 それだけで空気がぐっと近くなる。狭い。二人で立つと、間に板橇一本も入らないくらいだ。


 ちひろが濡れた前髪をかき上げる。外套の肩から水が筋になって落ち、床に小さな水たまりをつくった。


 「間に合ったね」


 「ぎりぎりです」


 「ぎりぎりでも間に合えば勝ち」


 そう言って笑うが、声の端が少し震えていた。寒いのだろう。創太も同じだった。濡れた衣服が体へ貼りつき、動かないでいると熱が奪われる。


 「萌乃香の湯、あります」


 創太は外套の内側から細い保温筒を取り出した。革の包みが濡れているかと思ったが、運よく中までは染みていない。


 「えらい」


 「私が入れたんじゃありません」


 「持ってきたのがえらい」


 ちひろは筒を受け取ると、一口飲んでから創太へ返した。生姜の匂いがふわりと立つ。創太も口をつけると、喉の奥がじわりと温まった。


 外では雨脚がさらに強まっていた。小屋の屋根を叩く音が絶え間なく続き、ときおり雷が腹の底を揺らす。こんな降り方では、少し待たなければ戻れない。


 ちひろは外套を脱いで、壁の鉤へかけた。藍の制服の肩までしっかり濡れていて、布が濃い色に変わっている。腕まくりをした手首に細い水筋が走り、指先がわずかに赤かった。


 「手、冷えてますよ」


 「創太も」


 「私は平気です」


 「そういう言い方する人、たいてい平気じゃないんだよ」


 ちひろが言う。


 反論しようとして、創太はやめた。自分の声が少し震えているのが分かっていたからだ。


 小屋の隅に古い乾燥用の布束がひとつ残っていた。半分はだめになっていたが、内側はまだ使えそうで、創太は傷んでいないところをちぎって差し出した。


 「これで、先に髪だけでも拭いてください」


 「創太は」


 「あとでいいです」


 ちひろは受け取る代わりに、一瞬だけ創太を見た。


 それから、昔と同じように、人の世話を焼く顔ではなく、相手を測る顔になった。


 「……そういうとこ、変わらないね」


 「何がですか」


 「自分は後でいいってすぐ言うとこ」


 言われて、創太は少しだけ眉を寄せた。変わらない、と簡単に言われるのは落ち着かない。五年のあいだ、自分の中では変わってしまったものばかり数えていたのに、目の前の人は違うところを拾ってくる。


 ちひろは布を半分に裂き、その片方を創太へ返した。


 「半分こ」


 「別に」


 「別に、じゃない。一人だけ先に風邪ひいたら困る」


 そう言われると、断る理由がひどく幼くなる。


 創太は受け取り、黙って髪の水を拭った。雨水は思っていたより冷たく、額から首筋へ入った分までじわじわと体温を奪っていた。ちひろのほうを見ると、彼女は濡れた髪を後ろへ絞りながら、苦笑していた。


 「昔もこういうの、あったね」


 創太の手が止まる。


 「……いつの話ですか」


 「覚えてない?」


 「何を」


 「旧郵便塔の裏の訓練路。夏の終わりに急な夕立が来て、私たち、やっぱり水門小屋に逃げ込んだ」


 言われた途端、その日の空気が匂いごと戻ってきた。


 まだ創太の背が今よりずっと低かったころだ。父の後を追って訓練路の見学に出た帰り、空が急に暗くなって、創太は水しぶきに足を取られかけた。ちひろが背中を押して、近くの小屋へ引っ張り込んだ。


 そのとき彼女は自分の外套を脱いで、創太の頭から肩までをすっぽり包んだのだ。自分は濡れたままなのに、創太のほうだけ先に拭いて、「雷は怒ってるんじゃなくて遠くで桶を落としてるだけ」と、意味の分からない慰めまでしていた。


 創太は思わず口をついた。


 「桶じゃなくて、樽です」


 ちひろが吹き出す。


 「そうだった。樽だ。よく覚えてる」


 「変なたとえだったからです」


 「泣きそうな顔してたから、何か言わないとと思って」


 「泣いてません」


 「してたよ」


 「してません」


 言い返しながら、創太は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。今よりずっと子どもだったころの話を、この距離でされるのは反則に近い。


 雨音の向こうで、雷がまた鳴った。だが昔ほど怖くはなかった。たぶん、今は音よりほかに気を取られるものが多すぎる。


 ちひろが壁へもたれ、膝を軽く抱えた。


 「ねえ、創太」


 「はい」


 「なんであの頃、飛脚にならなかったの」


 来る、と思った。


 雨のせいか、狭い小屋のせいか、その問いは逃げ場をふさぐみたいにまっすぐ届いた。


 創太は布をたたむ手を止めた。


 「向いてないと思ったからです」


 「それだけ?」


 「知ってるだけじゃ、届けられないので」


 「それも本当だろうけど、全部じゃない」


 ちひろは決めつける口調では言わなかった。ただ、置くように言った。その置き方が、余計にずるい。踏み込んでこない顔をしながら、こちらに選ばせるからだ。


 創太は視線を床へ落とした。


 濡れた床板の木目が、ところどころ黒くなっている。そこを見ているふりをしながら、喉の奥で何度か言葉を転がした。


 「……父が死んでから」


 口に出した瞬間、屋根を打つ雨音が少し遠くなる。


 「走る仕事に近づくのが、嫌になりました」


 それだけに留めるつもりだった。けれど自分の声が、思っていたより掠れていた。


 「止めればよかったって、ずっと思ってたので。あの日、行くなって言えてたら、って」


 言い切ったあと、創太はすぐに後悔した。ここまで言うつもりではなかったのに、雨の中にいると境目が甘くなる。


 ちひろはすぐに返事をしなかった。


 昔の彼女なら、もっと早く何か言った気がする。大丈夫とか、あなたのせいじゃないとか。そういう急いだ慰めは、今はなかった。


 代わりに、しばらくしてから静かに問う。


 「まだ、そう思ってる?」


 創太は答えられなかった。


 思っている。たぶんまだ、かなりの部分で。けれど最近、飛脚隊の仕事を近くで見るたび、その思い込みだけで全部を説明できなくなっているのも事実だった。


 届けることは、奪うことと同じではない。走ることは、失うことだけではない。


 そんな当たり前のことを、十九になってから少しずつ知り直している。だからこそ、簡単に「はい」とも言えなかった。


 沈黙を、ちひろは急かさなかった。


 その代わり、彼女自身が視線を少し外へ向けた。


 「私はね」


 ぽつりと話し出す。


 「王都へ行って、思ってたよりずっと、紙の上だけで決まることが多いんだなって知った」


 創太は顔を上げた。


 ちひろは膝へ腕を乗せたまま、雨の向こうを見ている。


 「届けた人の顔も、待ってる人の台所も、見たことない人たちが、規則と印だけで通す。もちろん必要なことだよ。あれがないと、大きいところは回らない。でも、ときどき、紙の上で綺麗に揃いすぎてる記録がある」


 創太は小さく息をのんだ。


 旧公印便のことだ、とすぐ分かった。


 「何を見つけたんですか」


 今度は創太が問う番だった。


 ちひろは少しだけ口元を上げ、それから首を横に振る。


 「まだ、全部は言えない」


 「どうして」


 「言う順番があるから」


 「それ、雑です」


 「雑じゃないよ。順番を間違えると、守れるものも守れなくなる」


 言いながら、ちひろの指先がわずかに強く膝をつかんだのを、創太は見逃さなかった。彼女にも彼女の言えない事情があるのだろう。王都で見た何か、戻ってきた理由、その先で敵に回す相手。どれも想像はできるが、まだ形にするには足りない。


 「……私を巻き込みたくない、とかですか」


 思ったより先に声が出た。


 ちひろの目が、わずかに見開かれる。


 「どうしてそう思うの」


 「思うだけです」


 「ずるい返し」


 「そっちが先にやってます」


 一瞬だけ、ちひろが黙る。


 それから、観念したように短く笑った。


 「ほんと、声出るようになったね」


 「だから、その言い方」


 「うれしいから言ってる」


 うれしい、と簡単に言われると困る。


 創太は湯の残りを一口飲んだ。もうだいぶぬるくなっていたが、それでも生姜の熱だけは喉に残る。


 雨はまだ止みそうにない。待つしかない時間が、逆に二人のあいだの隙間を狭めていた。


 ちひろが包みを思い出したように開く。


 「お芋餅、食べる?」


 「今ですか」


 「今だから。萌乃香の言うとおり、空腹だと難しい顔がもっと難しくなる」


 小さな丸い餅は、まだ少しだけ温もりを残していた。生姜と味噌の香りがして、湿った小屋の空気の中では妙に頼もしい。ちひろが一つ差し出し、創太は受け取る。黙ってかじると、芋の甘さが思ったより素直に口へ広がった。


 「おいしい」


 「でしょう」


 ちひろが言う。


 「昔、創太、芋餅好きだったよね」


 「覚えてるんですか」


 「覚えてるよ。塔の裏で三つ食べて、四つ目を父さんに見つかって怒られてた」


 「……二つです」


 「三つ」


 「二つ半です」


 「半分って何」


 ちひろが声を立てて笑った。


 その笑い方を間近で聞くと、創太はまた困る。五年も会っていなかったのに、体のどこかが音だけ先に覚えているみたいで、気を抜くと胸の奥が簡単に動く。


 小屋の外は相変わらずの灰色だったが、雨粒の太さはさっきより少し細くなっていた。通り雨にしては長いが、嵐の芯がずれたのかもしれない。


 「そろそろ行けそうです」


 創太が言うと、ちひろも外を見てうなずいた。


 「うん。沢地萃までなら、今のうちに戻れる」


 二人は立ち上がり、濡れた外套を着直した。乾いたとは言えないが、さっきよりはましだ。返書と診札を防水袋へ収め、板橇の紐を持つ。


 そのときだった。


 「ちょっと待って」


 ちひろが言う。


 創太が振り向くと、彼女が一歩近づいてきた。


 「襟」


 「え」


 「曲がってる」


 反応する間もなく、ちひろの指が創太の首元へ伸びた。


 濡れた制服の襟をつまみ、指先で折り目を直す。たったそれだけの動作なのに、距離が近すぎて、創太は息の仕方を忘れた。生姜と雨と、ほんの少しだけ石鹸みたいな匂いがする。


 ちひろはまっすぐ襟を整え、少しだけ顔を引いてから、ふっと目を細めた。


 「背、伸びたね」


 その言い方は、あまりにも自然だった。


 昔の続きみたいに。


 創太は何も言えなかった。


 言葉にしようとしたものはたぶんいくつかあった。今さらですとか、昔より見下ろされなくなりましたねとか、もっと別の何かとか。けれど全部、喉の手前で渋滞した。


 「……行くよ、地図係」


 ちひろは先に小屋を出ていった。


 外の雨は細くなっていた。空はまだ重いが、杭列は見える。板橇の底が再び浅瀬を滑り始める。


 帰り道、創太は必要なことしか話せなかった。


 「左です」


 「うん」


 「そこ、深いので気をつけて」


 「了解」


 会話としてはそれだけだ。なのに、自分の首元だけがやけに意識に残る。襟はもうまっすぐなのに、直された感触だけがしつこく居座っている。


 沢地萃の町が見えたころには、雨はほとんど上がっていた。


 高床の家々の軒先から雫が落ち、運河には雨水を吸った浮草が寄っている。板橋のたもとで魚籠を片づけていた女たちが、濡れた二人の姿を見て何か囁き合った。幸育なら喜びそうな顔をしそうだ、と創太はどうでもいいことを考える。


 隊舎へ戻ると、那水が戸口に立っていた。


 「遅い」


 「旧水門小屋で雨宿りしました」


 ちひろが返書を差し出す。


 「判断は正解。返書あり、保管印あり……よし」


 那水は紙面を確認し、ようやく肩の力を抜いた。


 「白蓮洲の薬師は?」


 「助かったって。子どもの熱も、薬湯を継げば落ち着く見込み」


 「なら十分」


 萌乃香が奥から顔を出す。


 「濡れたでしょう。お湯、沸いてるよ。着替えはそこ」


 幸育はその後ろからにやにやしていた。


 「旧水門小屋、使ったんですねえ」


 「何、その顔」


 ちひろが睨む。


 「いやあ、雨宿りって、なんかこう、物語の定番――」


 「仕事です」


 那水が即座に切る。


 「速達の帰りです。余計な尾ひれをつけたら帳場から締め出しますよ」


 「はーい」


 幸育は口ではそう言いながら、絶対に心の中では面白がっている顔だった。


 創太はそれどころではなかった。


 返書を平戸医師へ届けるのも、そのあと板橇を拭いて吊るすのも、萌乃香の差し出した熱い湯を飲むのも、全部ちゃんとやった。やったはずなのに、気づくたび意識が首元へ戻る。


 背、伸びたね。


 たったそれだけだ。


 子どものころから知っている相手が、当たり前みたいに言っただけ。深い意味なんてない。ないはずだ。ないのに、夕方になっても、旧郵便塔へ戻って帳面を開いても、その一言だけが紙の行間にまで紛れ込んでくる。


 夜、保管庫の見回りを終えて寝台へ入っても、創太はしばらく目を閉じられなかった。


 外ではまた遠くで雨が降り始めている。塔の窓を打つ細かな音が続き、そのたびに旧水門小屋の狭い空気と、首元へ伸びた指先を思い出してしまう。


 創太は寝返りを打った。


 寝台の薄い毛布では落ち着かず、結局もう一度起き上がって水を飲み、戻ってきてからも眠れなかった。


 雨の夜が長いせいではない。


 初恋が帰ってきた町で、たぶん自分だけが今さら、それをはっきり自覚し直してしまったせいだ。



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