第3話 サラダの手紙
沢地萃郵便飛脚隊が再び動き始めた、という噂は、火のようには広がらなかった。
この町で何かが火のように広がることは、たいてい後で面倒を連れてくる。だから人々は、もっと慎重に、もっと湿ったやり方で確かめる。市場の魚屋が買い物帰りの客にひそひそ言い、渡し板の上で洗濯籠を抱えた女たちが目配せを交わし、食堂の皿を下げるついでに萌乃香が「この前ね」と一言だけ落とす。水路に浮く浮草みたいに、噂はゆっくり町のあちこちへ寄っていった。
そのぶん、二通目の依頼が隊舎へ届いたとき、幸育は見本市の呼び込みでも始めそうな顔をした。
「来た、来た、来た。しかも今度はちゃんと再配達票つき。ほら、那水さん、これ帳簿の新しい欄に書けますよ」
「騒ぐ前に靴裏を拭いてから入りなさい。泥を帳場へ持ち込まないで」
那水は言いながらも、受け取った依頼票をすぐに広げた。濡れにくい油引き紙の上で、細い指が宛名と旧住所を追う。
「差出人、志津乃。旧北葦区、葦笛横丁。宛先、深青染場内、真緒。保管理由は、宛先先方転居ののち差出人死亡。投函から一年九か月」
「一年九か月かあ」
萌乃香が小さく息をもらした。
昼どき前の隊舎は、朝の光が屋根の抜けた穴から斜めに落ち、机の端だけ明るくしている。創太は壁際で古い住所録をめくっていたが、その年数を聞いて手を止めた。
一年九か月。紙のにおいに換算すれば、まだ取り返しのつく長さだ。封蝋が完全に死ぬ前で、筆圧の迷いも少しは残っている。けれど受け取る側の時間としては、短いとは言えない。
「旧北葦区の志津乃って、もしかして青菜の塩揉みがうまかったおばあさん?」
萌乃香が首をかしげる。
「うちの食堂に、ときどき漬け葉を分けてくれてた人がいたの。細い人で、でも包丁持つ手だけは妙に力があって」
「それだと思う」
創太は住所録を閉じた。
「葦笛横丁の志津乃さん。二年ちょっと前に亡くなってます。家はもう空いてるけど、孫娘が南の深青染場へ移ったはずです」
ちひろが机の向こうから顔を上げた。
「断言できる?」
「染場の寮の名簿までは持ってません。でも、葬儀の返礼便が深青染場名義で出てました。たぶん身内はそこを通してる」
「たぶん、か」
言いながらも、ちひろの口元は少しやわらいでいた。否定したいわけではなく、確認の癖なのだと、この二日で創太にも少し分かってきた。
奏丞が机いっぱいに広げた地図へ丸印をつける。
「隊舎から深青染場までなら、北運河を半分舟で行って、途中から板橇。昨日の雨で西の裏道は沈んでる。正面橋は市場の荷車で詰まる時間帯に入るから、裏の洗い場側から回ったほうが早い」
「では、配達担当はちひろさんと創太さん」
那水が当然のように決めた。
「え、また僕ですか」
「旧住所の照合が要るでしょ。途中で近所の聞き込みも発生する。地図係兼保管庫係の仕事です」
「走るのは」
「板橇はちひろさんが引く」
「そこで即答しないでください」
創太が言うと、幸育が楽しそうに肩を揺らした。
「大丈夫大丈夫。創太くんは転ばないことだけ考えればいいから」
「それ、安心材料になってません」
「なるよ。私が引くから」
ちひろがけろりと言った。
その言い方が昔と少しも変わっていなくて、創太は一拍だけ返事を失う。五年前も、この人はよくそう言った。高い梯子へ上るときも、雨の橋を渡るときも、創太が迷う前に「大丈夫」と決めてしまう。そのくせ本当に危ないところでは、誰より早く手を伸ばしてくるのだ。
ずるい、と思う。
けれどずるいと思うからといって、毎回それをうまく言葉にできるわけでもない。
「……封は、まだ生きてますか」
創太は依頼票の横に置かれた手紙へ目を向けた。
志津乃から真緒へ。薄い若草色の封筒は、上質でも粗末でもない、日常の便りにちょうどいい紙だった。封蝋は小さな木の葉の形に押してあり、周縁が少し欠けている。
ちひろが手袋をはめて、そっと封筒を持ち上げた。
「ほんのり温かい」
「恋文?」と幸育。
「違う」創太は即答した。「もっとやわらかい。冷たさも、焦りも強くない。怒ってる手紙でもないです」
「分かるんだ」
萌乃香が感心したように言う。
「水紋印の残り方で、少しだけ」
創太は手紙に触れないまま目を細めた。水紋印は本来、正式な便の真贋と封の無断開封を防ぐための簡易魔法だが、長く保管された紙には差出人の感情の輪郭がごくわずかに滲むことがある。はっきり読めるわけではない。ただ、急いで書かれたのか、怒りに任せたのか、泣きながら綴ったのか、その程度の温度差が残る。
この手紙は、妙に落ち着いていた。
落ち着いているのに、どこか心配している。人の背中へ薄い布を掛けるみたいな、そんなぬくもりがある。
創太は思わず言った。
「たぶん、生活の手紙です」
「生活の手紙?」
「今日何を食べたとか、身体を冷やすなとか、そういう……毎日の続きみたいな」
言ってから、自分でも変な分類だと思った。けれどちひろは笑わなかった。
「いいね、その言い方」
ただそう言って、手紙を防水包みに入れた。
出発は昼前になった。雲は薄くちぎれているが、地面はまだ昨日の雨を飲み切れていない。隊舎の裏の小舟溜まりから細舟を出し、ちひろが竿を取り、創太は荷物を抱えて前へ座る。水路の表面には、朝の市場でこぼれた青菜の切れ端や、赤い花弁のような浮草が流れていた。
「昨日よりは顔色いいね」
舟が岸を離れてすぐ、ちひろが言った。
「そうですか」
「昨日の朝は、今にも保管庫へ逃げ帰りそうな顔してた」
「逃げ帰る場所があるのはいいことです」
「うん。でも今日は、半歩くらい外に出てる」
半歩。言いそうで言わないところを、妙な単位で見抜いてくる。
創太は振り返らずに水面を見た。舟の先が細波を割り、運河脇の葦がさらさら鳴る。
「ちひろさんこそ」
「私が何」
「昨日より、顔がましです。寝ましたか」
竿を押す音が一瞬だけ止まった。
「……寝たよ」
「嘘ですね」
「どうして」
「返事が遅いから」
後ろで、ちひろが小さく笑う気配がした。
「創太、前より嫌なところが育ってる」
「観察です」
「それ、私にはだいたい嫌味と同じ」
そう言い合えること自体が不思議だった。五年会っていなかったはずなのに、会話の端だけは途切れずにつながる瞬間がある。もちろんその下には、訊けていないことも、言われていないことも、大きな石みたいに沈んでいる。王都からなぜ戻ったのか。旧公印便をなぜ探しているのか。どうしてあんな形で保管庫へ入ったのか。
けれど今日は、それを掘り返す日ではないらしかった。
北運河を抜け、洗い場裏の小さな船着きへ着く。そこから先は、染布を乾かす高い枠が立ち並ぶ一角だ。深青染場は名のとおり、藍よりも深く、夕暮れの水みたいな青を売りにしている。風に揺れる布のあいだを歩くと、まだ乾ききらない染め液の匂いが鼻に残った。
正門脇の受付で宛名を告げると、顔を出した中年の女が「真緒?」と少し目を丸くした。
「あの子に郵便なんて珍しいね。仕事中だけど、呼んでくるよ」
待っているあいだ、創太は敷地の中をそれとなく見た。大桶、洗い場、干し枠、寮へ続く渡り廊下。暮らしと仕事場がほぼ一つになっている。ここへ移れば、昔の家から届くはずの手紙が途切れるのも無理はない。
やがて、奥から若い女が早足で出てきた。
髪を高く結んだ、痩せぎすの娘だった。袖をまくった腕に染料のうっすら青い跡が残っている。年は二十そこそこだろうか。呼ばれて急いできたらしく、息が少し上がっていた。
「私が真緒ですけど」
言葉の端が固い。初対面の警戒だけではなく、呼び出された理由を悪いほうへ考えている顔だった。
ちひろは防水包みから封筒を取り出し、両手で見せた。
「沢地萃郵便飛脚隊です。保管庫に残っていた再配達便をお持ちしました。差出人は志津乃さん」
真緒の表情が、そこで止まった。
「……祖母、です」
「お受け取りいただけますか」
すぐには手が伸びてこなかった。真緒は若草色の封筒を見つめたまま、唇の内側を噛むように黙っている。創太はその沈黙の長さに、勝手に肩へ力が入るのを感じた。受け取り拒否もある。差出人が亡くなっている場合はとくに、どうして今さらという怒りが先に立つことも珍しくない。
けれどちひろは急がせなかった。
ただ封筒を持ったまま、相手の呼吸が整うのを待っている。
「……今さら」
真緒が、ようやく言った。
「今さら、何を書いたっていうんですか。祖母、私がここへ来るの、最後まで反対してたんです。あんなに怒ってたのに」
「中身は、こちらでは確認していません」
「でしょうね」
棘のある返しだった。だがちひろの声は変わらない。
「でも、保管理由は転居先不明でした。届かなかった理由が怒りとは限りません」
「限らなくても、だいたい分かります」
真緒はそう言いながら、視線だけは封筒から離せない。受け取りたくないのではなく、受け取ったあとに何が起きるか怖いのだと、創太にも分かった。
怒られていた記憶がある人ほど、死後の手紙は刃みたいに思える。開けたら最後、昔の痛みまで新しくなる気がするからだ。
創太は何か言うべきか迷った。言いすぎれば余計なお世話になる。黙ればちひろに任せきりだ。喉元まで上がりかけた言葉がいつものように渋滞する。
その横で、ちひろが少しだけ首をかしげた。
「すぐ開けなくても大丈夫です」
真緒が目を上げる。
「受け取るだけ受け取って、怒るのはあとでもできます。泣くのも、捨てるのも、今日じゃなくていい」
その言い方は妙にずるかった。優しいのに、相手へ選ぶ余地をちゃんと残している。押しつけないから、拒みにくい。
真緒はしばらく動かなかったが、やがて観念したように手を伸ばした。封筒が渡った瞬間、その肩から見えない力が少し抜ける。
「……受け取ります」
「ありがとうございます」
ちひろが一礼する。
それで仕事は終わるはずだった。
だが真緒はその場を去らず、受け取った封筒の端を指でなぞり続けた。受付の中年女も遠慮して一歩下がっている。風が吹いて、干し枠の青布が大きく膨らんだ。
「開けても、いいですかね」
誰にともなく、真緒が言った。
「もちろん」
ちひろが答える。
創太は胸の奥が少しだけざわついた。受け取ってすぐ開封に立ち会うのは、規則上は問題ない。だがそこから先は、たいてい手紙のほうが人の顔を変える。
真緒は封蝋を爪で割るのをためらい、受付の机から紙切りを借りた。丁寧に端を切り、中から二つ折りの便箋を取り出す。
便箋は一枚だけだった。
もっと長い言い分や、遺産の話や、謝罪や説教が続くかもしれないと、見ているこちらまで少し身構えていたのに、本当に一枚きりである。
真緒は目を走らせた。
そして、一行目を読んだところで、眉が思いきり寄った。
「……は?」
声に出た。
「どうしたの」受付の女がつい尋ねる。
真緒は便箋を見たまま、もう一度目をこすった。
「え、あの……」
読み間違えかと思ったらしい。二行目、三行目と目を滑らせ、最後まで行ってから、ぽかんと口を開けた。
ちひろが穏やかに訊く。
「大丈夫ですか」
「いや、大丈夫というか、何というか」
真緒は困惑したまま便箋を裏返した。何か続きを探すみたいに。ないと分かると、今度は笑っていいのか泣いていいのか分からない顔になる。
「これ……これだけです」
「何が書いてあったんです?」
幸育なら絶対に前のめりになるところだが、今ここにいるのは創太とちひろだ。創太はさすがにそこまで踏み込めない。けれど真緒のほうから、力の抜けた声で読み上げた。
「『真緒へ。あんたは生の葉をそのまま盛ると噛み切れなくて、食べるのが面倒になるから、葉物は細かく刻みなさい。雨の日は温かい芋を入れると腹が冷えない。酢は一度火にかけて、角を取ること。仕事で帰りが遅い日は、豆を前の日から水につけておきなさい。ちゃんと食べること』……です」
青布が風でばさりと鳴った。
誰もすぐには反応できなかった。
創太も、ちひろも、受付の女も、揃って一度黙る。あまりに予想と違いすぎて、言葉が遅れる。
真緒が便箋を持ったまま、ふっと情けない笑いをもらした。
「怒鳴り文句でも来るのかと思ってたのに……何これ。献立じゃない」
その言葉と同時に、目尻から涙が落ちた。
笑った拍子に崩れたのかと思ったら、違った。次の瞬間には、真緒は便箋を胸へ押し当てて、声を噛み殺すように泣き始めた。
「私……怒ってるんだと思ってた」
低い声だった。
「最後まで、あの家を出るなって言ってたから。染場なんか行ったら手は荒れるし、嫁の行き先も狭まるって。そんなことばっかり言うから、嫌われてるんだと思ってた」
受付の女がそっと布巾を差し出す。
真緒は受け取りながら、泣き笑いみたいな顔で便箋を見た。
「でもこの人、私が生の葉っぱ噛み切れないの、まだ覚えてたんだ」
創太の胸の奥で、何かが小さくほどけた。
怒っていた記憶は本物なのだろう。反対もしたのだろう。けれどそれと、食べる心配をすることは、別に両立してしまう。人はひとつの感情だけで誰かを見ない。祖母は祖母なりに怒って、祖母なりに案じて、その両方を一枚の便箋には収めきれなかったのかもしれない。
だから最後に残したのが、サラダの作り方だった。
なんだそれ、と言いたくなるくらい地味で、でも生活そのものの言葉。
真緒はしばらく泣いていたが、やがて便箋をたたみ直し、深く息を吸った。
「……すみません。仕事中なのに」
「いいんです」ちひろが言う。「届いてよかったです」
真緒は二人を交互に見た。
「飛脚隊、まだやってたんですね」
「まだ、ではなく、また始めたところです」
ちひろが答える。
「一通ずつですけど」
真緒は何か考えるように黙ったあと、受付の女へ向き直った。
「おかみさん、今夜の賄い、芋を多めにもらっていいですか」
「いいよ、もちろん」
「あと葉物。できれば少し柔らかいの」
そう言ってから、真緒は初めてちゃんと笑った。
「やってみます。祖母のサラダ」
帰り道、創太はしばらく無言だった。
洗い場脇を抜け、板橇に荷を積み替え、ぬかるんだ細道をちひろが引いていく。空は夕方にはまだ早いのに、布干し場の青が視界に残ったせいか、あたり全体が少し深い色に見えた。
「難しい顔してる」
前を引くちひろが言う。
「してません」
「してる。保管庫で箱三つ分の分類に迷ってるときの顔」
そんな顔まで分類されているのかと思うと、腹立たしいような気恥ずかしいような気分になる。
「……もっと、重い手紙かと思ってました」
創太は結局そう言った。
「遺産とか、謝罪とか、そういう」
「みんな最初はそう思うよね」
「ちひろさんも?」
「少しだけ」
少しだけ、という言い方が正直だった。
「でもね、重い手紙だけが人を止めるわけじゃないよ。今日みたいな、台所みたいな手紙のほうが、ずっとあとまで胸に残ることもある」
創太はその言葉を反芻した。台所みたいな手紙。たしかにそうだ。怒りや大事件ではない。葉物を刻むこと、雨の日は芋を入れること、酢の角を取ること。どれも台所の高さで交わされる言葉なのに、その高さだからこそ届くものがある。
「さっき、すぐ渡さなかったでしょう」
創太は思い出して言った。
「受け取りたくない顔をしてたのに、急がせなかった」
「急がせて受け取らせても、手紙のほうが置いていかれるから」
「手紙が、置いていかれる」
「人が読む準備できてないと、届いたことにならないときがある」
ちひろは振り返らないまま言った。
その横顔は見えなかったが、創太にはなぜか、その言葉が手紙のことだけを指していない気がした。五年前の自分たちにも、何か準備できていなかったものがあったのではないか、と。けれどそこへ踏み込むには、道がまだぬかるみすぎている。
「創太は、あの手紙、どこがいちばん残った?」
問われて、創太は少し考えた。
「……葉物を細かく刻むところ」
「そこ?」
「具体的だからです。覚えてることが、細かい」
真緒が葉物を噛み切れないことを、祖母はちゃんと覚えていた。その具体性が、怒りより先に愛情を証明してしまう。
創太は続けた。
「大事に思ってない相手の癖って、そこまで残らないので」
ちひろが、今度は小さく笑った。
「うん。そういうところ、創太らしい」
「どういう意味ですか」
「覚えてるでしょう、いろんなこと」
その一言で、創太の足が少し止まりかける。
覚えている。たしかに、自分は覚えている人間だ。家紋も、旧道も、棚番号も、五年前の窓辺の会話も。
それを長所だと言われるのは、まだ慣れない。
隊舎へ戻るころには日が傾き、萌乃香がほとんど待ち構えるように鍋を火へかけていた。話を聞くなり、彼女は両手で口元を押さえた。
「そんな……志津乃さんらしい……」
「もう泣いてる」幸育が横で言う。
「だって、サラダの手紙だよ?」
「そこ、泣くところですか」
「泣くところだよ。だって食べる心配って、いちばん暮らしのところにあるでしょう」
萌乃香は真顔で言い切り、そのまま棚から芋と葉物を取り出した。何を始めるのかと思えば、まな板の上へ青菜を広げ、ざくざくと細かく刻み始める。
「作るの?」と幸育。
「作る。今日のまかないはそれ」
「再現料理ってやつですね」
「再現っていうより、受け取り料理」
「その分類、また独特だなあ」
けれど誰も止めなかった。奏丞は地図の端を押さえながら「芋は蒸すより焼いたほうが水っぽくならない」と口を挟み、那水は「酢を火にかけるなら鍋を先に空けて」と手早く段取りを変え、幸育は市場でもらってきた豆を誇らしげに差し出す。
創太は最初、手伝うつもりはなかったのに、気づけば洗った葉を水切り籠へ移していた。ちひろは袖をまくり、芋の皮を剥きながら「志津乃さん、酢の角を取るって書いてたんだよね」と確認する。
「はい。あと、雨の日は温かい芋」
「今日はぎりぎり雨上がりだから採用」
「基準が雑です」
「おいしい基準はわりと雑でいいんだよ」
隊舎の台所は広くない。むしろ狭い。火口は二つしかなく、棚板は少し傾き、窓際には補修待ちの食器が積んである。けれど夕方の光が差すなかで人が並ぶと、そこだけ妙にあたたかく見えた。
萌乃香が火にかけた酢へ塩と少しの蜜を落とし、那水が余計な水分を切り、奏丞がなぜか豆の浸水時間の理想を語り、幸育は「飛脚隊名物にできるかな」と本気で言い出す。ちひろは笑いながら芋を返し、創太は刻んだ葉の細さを見て「これなら噛み切りやすい」とつい口にした。
「食べる人のこと考えて切るの、大事だよね」
萌乃香がうなずく。
その一言に、創太は包丁を置く手を少しだけゆるめた。
食べる人のことを考えて切る。
受け取る人のことを考えて届ける。
似ている、と思った。
手間を省けばもっと早い。大きくちぎって盛れば済む。宛先だけ見て渡して終わりにもできる。けれど本当に届くかどうかは、きっとその一手間で変わる。
できあがった皿は、たしかにごちゃまぜだった。細かく刻んだ葉物に、温かい芋、やわらかい豆、薄切りの玉ねぎ、少し火を入れて角を取った酢。見栄えだけなら市場の洒落た惣菜屋のほうが上だろう。けれどひと口食べた瞬間、隊舎の全員が顔を見合わせた。
「……おいしい」
最初に言ったのは幸育だった。
「なんか、地味なのに止まらない」
「地味って言うな」萌乃香が即座に返す。
「いや褒めてる。こう、毎日食べたい感じの地味」
「それはたしかに褒めてる」
奏丞が皿を抱え込むように食べ始め、那水は無言で二口目へ行き、ちひろは「雨の日にいいって、分かる」と笑った。
創太も口へ運んだ。酢は尖っていないのにぼやけてもいない。芋がほくりとほどけ、刻まれた葉がきちんと馴染む。噛み切れない心配を先回りしているから、食べるたびに妙なひっかかりがない。
祖母の手紙はたった一枚で、その大半が献立の話だった。
なのに、食べてみると分かる。
これは献立の話ではない。相手がちゃんと食べて暮らしていけるように、台所の位置から差し出された手紙だ。
創太は皿を見つめたまま、ぽつりと言った。
「今日の手紙、評判になるかもしれません」
「どうして?」と萌乃香。
「真緒さんが作ったら、染場で誰かが理由を訊くでしょうし、そこから広がると思います」
「お、じゃあ飛脚隊の宣伝にも」幸育が食いつく。
「そこが先に来るんだ」ちひろが半眼になる。
「でも本当でしょ。『怒り文句かと思ったらサラダの手紙だった』って、町の人好きですよ、そういう話」
たしかに好きそうだった。沢地萃の人々は湿った噂を広げるが、だからこそ、こういう肩の力が抜ける話は長持ちする。
その予想は外れなかった。
翌々日には、北運河の魚屋が「最近の飛脚隊はサラダまで運ぶのか」とにやにやしながら言い、南市場の八百屋が「刻む用ならこの葉のほうがやわらかい」と勝手に便乗を始めた。萌乃香の食堂では、夕方のまかないで出した一皿がそのまま客用の小鉢へ昇格し、誰が名づけたのか「沢地萃ごちゃまぜサラダ」という妙に親しみやすい名前までついた。
「ちょっと待って、うちの正式名物みたいになってる」
萌乃香は困ったように言いながら、まんざらでもない顔で皿を並べている。
幸育は「名物がある隊は強い」と意味の分からない理屈を述べ、奏丞は「配達路の途中で食べやすい携行食に応用できるのでは」と本気で考え、那水は「食堂会計と隊舎会計は分けてくださいね」と釘を刺した。
創太はその騒がしさを、少し離れた席から見ていた。
たった一通の、たった一枚の便箋で、町の空気がこんなふうにやわらぐ。配達されたのは秘密でも告白でもないのに、いや、そういう大げさなものではないからこそ、人の口から口へ自然に移っていく。
保管庫で眠っていた時間が、ようやく町の食卓の高さへ降りてきたようだった。
夕方、食堂の帳場脇で、ちひろが皿を拭いていた創太へ声をかけた。
「ねえ、地図係」
「その呼び方、定着させるつもりですか」
「悪くないでしょ」
「悪くはないですけど、落ち着きません」
「じゃあ創太」
呼び直されるだけで、妙に近い。
創太が返事に詰まると、ちひろは拭き布をたたみながら笑った。
「今日、よかったね」
「……はい」
「配達そのものもだけど、創太が真緒さんの前で余計なこと言わなかったのも」
「褒めてるんですか、それ」
「褒めてる。前の創太なら、言いたいことがあっても全部飲み込んで、あとで一人で考え込んでた」
「今もだいたいそうです」
「でも今日は、手紙が生活の手紙だって言ったし、帰りにどこが残ったかも話した」
ちひろはそこで一度言葉を切り、少しだけ目を細めた。
「創太の言葉、受け取る人いるよ」
食堂のざわめきが、その一瞬だけ遠くなった気がした。
そんなふうに言われる理由が、創太にはまだよく分からない。自分の言葉は、自分の中で何度も角を落として、それでもまだ外すのが怖いままだ。なのに、この人はときどき、こちらが気づく前に先回りして置いていく。
困る。
ひどく、困る。
でもたぶん、嫌ではない。
創太は皿の縁を拭きながら、小さく息を吐いた。
「……ちひろさんも」
「私も?」
「相手が受け取れるまで待つの、上手いです」
ちひろが目を丸くする。
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「断言すると外しそうなので」
言い終えたあと、創太は少しだけ後悔した。こういう返しは慣れていない。けれどちひろは、笑うかわりに少し黙り、それからやわらかく言った。
「外しても、受け取るよ」
その言葉のせいで、創太はしばらく皿のほうを見ているしかなくなった。
夜、食堂を出ると、運河の水面に家々の灯りが揺れていた。昼の喧騒が薄まり、渡し板を渡る足音もまばらになる。湿った夜気の中を旧郵便塔へ戻る道すがら、創太はふと、保管庫の棚に眠る別の手紙たちを思った。
怒ったまま止まっている便り。謝れないままの便り。間に合わなかった便り。今日みたいに、台所の高さで待ち続けている便り。
どれも同じ箱に入れられていても、中身の重さはひとつずつ違う。
そして受け取る側の準備が整うまで、紙のほうが先に年を取っていく。
旧郵便塔の扉を開けると、いつもの紙と石の匂いが迎えた。創太は油灯に火を入れ、保管庫の帳面を開く。今日の再配達完了欄へ、志津乃から真緒への便りに受領印がついたことを書き込んだ。
筆先が紙を滑る。
そこでふと、ひとつ気づく。
たった二通ではあるけれど、再始動した飛脚隊の実績が、帳面の中にちゃんと積み上がり始めている。
箱から出て、町へ届いて、誰かの暮らしを少しだけ動かした証拠が、数字ではなく行として残る。
創太はその欄をしばらく見ていた。
走っていないのに、自分も少しだけ届ける側へ近づいている気がした。
保管庫の高い棚の上では、まだ旧公印便の所在も、欠番の理由も、何ひとつ解決していない。ちひろの帰郷の本当の目的も、そこに絡んでいるのだろう。面倒はこれから大きくなる。町の水路も、私設便も、静かな顔をしたままこちらを見ている。
それでも今日の創太は、昨日より少しだけ、その先の面倒を怖がりすぎずにいられた。
紙の匂いに混じって、夕方食べた酢のやわらかな香りが、まだどこかに残っている気がする。
怒っていたと思っていた人から届いた、サラダの手紙。
ああいうものがある町なら、まだ取り戻せるものはあるのかもしれない。
創太は帳面を閉じ、油灯の火を少し絞った。
明日もたぶん、次の手紙が来る。
そのとき自分がどこまで手を伸ばせるかは、まだ分からない。けれど少なくとも、保管庫の奥で黙って見送るだけではなくなりつつある。
それだけで今夜は、十分だった。




