第2話 沢地萃郵便飛脚隊、再始動
翌朝の沢地萃は、昨夜の雨を何食わぬ顔で抱え込んでいた。
高床の家々をつなぐ渡し板はまだ水を吸って黒く、運河の縁には夜のあいだ流れ着いた浮草が薄い帯のようにたまっている。市場の軒先では、店主たちが濡れた布を絞り、魚籠を並べ、今日も今日とて声を張り上げていた。湿地の町は、どれだけ雨が降っても、朝になれば腹をすかせたみたいに動き出す。
創太は旧郵便塔の裏口を出たところで立ち止まり、胸元の内ポケットに触れた。
昨夜拾った王都中央郵政局の徽章は、そこにある。返すべきだ。返して、それで終わりにするべきだ。窓から忍び込んできた人に振り回される義理はない。
そう考えながらも、創太の足はまっすぐ家へ向かわなかった。
塔の前の石畳に、見覚えのある影が立っていたからだ。
「遅い」
ちひろは、朝の薄い日差しの下でも昨夜と同じ顔で、まるでここが待ち合わせ場所として当然みたいに腕を組んでいた。藍色の外套は乾いていたが、裾にはもう少しだけ泥が残っている。夜明け前に着替えてきたのか、髪もきちんと結い直されていた。
「……どうしているんですか」
「迎えに来た」
「頼んでません」
「頼まれてから来たら遅いから」
理屈になっていない。いや、この人の中ではなっているのだろう。創太はそれを知っている。
ちひろは創太の返事も待たず、ずい、と顔を寄せた。
「それ、ある?」
「何がです」
「私の徽章」
ばれている。創太は黙って内ポケットから銀の徽章を取り出した。
ちひろはほっと息をついた。
「よかった。あれ落としたって局に知られたら、始末書三枚じゃ済まない」
「始末書で済むようなことを、昨夜やっていたんですか」
「済ませるために今日があるの」
意味が分からない。創太が徽章を差し出すと、ちひろはそれを受け取る代わりに創太の手首をつかんだ。
「来て」
「は」
「見せたいものがある」
「仕事終わりなんですが」
「朝でしょ」
「夜勤明けです」
「じゃあ眠気で判断力が鈍る前に連れていける」
「逆では」
抵抗の言葉は出るのに、手首をほどく決定打は出ない。ちひろはその微妙な隙を見逃さず、当然のように創太を引いて歩き出した。
石畳を渡り、橋を二つ越え、南の運河筋へ折れる。町の中心から少し外れたこのあたりは、かつて公的郵便の隊舎と中継倉が集まっていた区域だ。今は私設便の派手な看板ばかりが目立ち、昔の看板は板の色ごと湿気に負けている。
創太は歩きながら周囲を見た。
細い運河沿いに新しい幟が三本。運河商会の私設便だ。速達、割引、晴天時追加便。都合のいい文句ばかり並んでいる。晴天時、と小さく付くところが実に沢地萃らしくない。雨の日と水かさの増す日こそ、人が困るのに。
そんなことを思った自分に、創太は少しだけ顔をしかめた。
昨夜から、考えなくていいことまで考えている気がする。
「ここ」
ちひろが立ち止まった。
創太は目の前の建物を見上げ、言葉を失った。
そこにあったのは、隊舎というより、ぎりぎり壁の形を保っている何かだった。
二階の屋根は中央がへこみ、樋は片側が落ち、表の看板に残る「沢地萃郵便飛脚隊」の文字は苔と煤で半分読めない。入口脇に積まれた板橇は端が反り返り、防水布は日に焼けてまだらだ。窓枠には応急処置の板が打ちつけられているが、その隙間から誰かの笑い声だけは妙に元気よく漏れてきた。
「……これが?」
「そう。今の隊舎」
「廃屋では」
「廃屋みたいな顔して言わないで。中はもっとすごいから」
慰めになっていない。
ちひろは創太の手首を放し、扉を押し開けた。
湿った木と古紙と、煮込み豆の匂いが一度に流れてくる。
「おはようございまーす。人員、ひとり増えそうです」
「増えるとは言ってません」
創太の抗議を追い越して、中からぱっと三つの視線が飛んできた。
最初に見えたのは、壁一面に貼られた地図だった。
沢地萃と周辺湿地の運河網、季節ごとの水位線、板橋の架け替え予定、流木の漂着傾向まで書き込まれた紙が、重なり合うように貼られている。その下で、鼻先まで大きな丸眼鏡を押し上げながら、痩せた男が半紙に何かを書き殴っていた。
「ひとり増える? 本当か? 足の速さはどれくらいだ。舟は酔うか。高床路の跳躍はどの程度――」
「その前に相手の顔を見なさいよ、奏丞」
横からぴしゃりと遮ったのは、帳簿を胸に抱えた若い女だった。栗色の髪をきっちり結い上げ、袖口まで乱れがない。視線の先は創太ではなく、創太の靴の泥のつき方、外套の縫い目、手に持っている帳面の厚さまで一瞬で見ているようだった。
「夜勤明けの靴。旧郵便塔の保管庫係。筆圧強め。なのに歩幅は狭い。走る気は薄い。連れてくるなら説明を添えて」
「相変わらず最初の三息で人を仕分けるね、那水」
「仕分けないと物も人も詰まるの」
さらに、奥の棚からひょいと顔を出したのは、鮮やかな青緑の髪紐を結んだ少年だった。年は創太とそう違わないはずなのに、空気のまとい方が市場の客引きに近い。
「えっ、ちひろさん、これ例の? 保管庫の賢い子? 顔いいですね。噂に尾ひれ付けて広める前に名前だけ確認していいですか」
「広める前提で聞くのをやめなさい、幸育」
那水がもう一度ぴしゃりと言う。その横で、部屋の奥の小さな勝手口が開き、大皿を抱えた娘が入ってきた。
「はいはい、朝から騒ぐなら先に食べてからね。お腹すいてると人はだいたい余計なことを言うから」
柔らかい声だった。湯気の立つ皿からは豆と根菜の匂いがする。娘は創太の顔を見ると、驚くより先に椅子を一つ引いた。
「初めての人なら、なおさら座って。立ったままだと逃げやすいでしょう」
「萌乃香、それ励まし方としてどうなの」
「だって本当でしょ」
創太は四方から浴びせられる視線と会話の速さに、一歩だけ後ずさった。
するとちひろが肩越しに言う。
「逃がさないよ」
「本人の意思」
「もちろん尊重する。尊重しながら引き込む」
尊重の形が強引すぎる。
それでも、創太は椅子に座った。
逃げるには情報が多すぎた。昨夜ちひろが言っていた解散寸前の飛脚隊、その現物がここにある。しかも思っていたより、ずっと妙で、ずっと生きている。
ちひろは豆の煮込みを皿ごと創太の前へ押しやると、手を叩いた。
「紹介するね。こっちが奏丞。飛脚隊のルート設計士」
丸眼鏡の男――奏丞は立ち上がりかけ、貼り紙の角に頭をぶつけた。
「いっ……。ああ、どうも。路面勾配、風向、板橋の軋み方、舟底の摩耗、ぜんぶまとめて最適解にする担当です。今は十六通しか依頼がないけど、三百通来た時の動線も考えてる」
「三百通なんて来ません」
那水が即座に切り捨てる。
「そしてこっちが那水。帳場と物資管理」
「現状を言うなら、靴は足りない、乾燥棚は一段壊れてる、油紙は先月で底をついた。依頼は少ないのに赤字。支払いは遅れがち。なのに誰かさんは夢みたいな地図を増やす。以上」
「夢じゃない、未来図だ」
「黒字になってから見ます」
二人のやりとりには、慣れた軋み方があった。険悪というより、同じ船の上で役割の違う者同士の呼吸だ。
「で、こっちが幸育。見習い配達人兼、雑用兼、宣伝兼、噂の拡散係」
「そこは情報戦担当って言ってくださいよ。市場で誰がどの便を使ってるか、どの店が私設便に文句あるか、新しい防水布の評判がどうか、だいたい拾えます。あと転んでも折れません」
「転ぶ前提なのね」
「転ばない人、沢地萃にいる?」
それには誰も反論しなかった。
「最後に萌乃香。中継所食堂の娘で、この隊舎の命綱」
「命綱って大げさ。ごはん出して、たまに相談を聞いてるだけ」
「食べ物と相談は人間をかなり延命させるよ」
萌乃香は笑って、皆の前にも皿を配り始めた。自然な手つきで、空いている皿には少し多めによそい、夜更かし顔の者には塩気の強い漬菜を添える。誰が何を必要としているか、いちいち確かめずに分かっている人の動きだった。
創太は木の匙を持ったまま、しばらく黙っていた。
昨夜の保管庫とは正反対だ。ここは狭いのに声が多い。床板はきしみ、机は傾き、帳簿の山は危ういのに、不思議と沈んでいない。
「で」
那水が帳簿を閉じ、創太を見た。
「あなたは何ができるの」
真正面から来られると弱い。
創太は匙を置いた。
「……保管庫の分類と、旧住所の照合と、地図読みは、たぶん」
「たぶん?」
「できます」
「走るのは」
「得意ではありません」
「舟」
「酔いません」
「嘘。顔色が少し悪い」
「夜勤明けです」
那水は創太を見たまま、小さく顎を引いた。
「正直なのは助かる」
奏丞がすかさず身を乗り出す。
「旧住所の照合ができる? 本当に? 何年前まで?」
「……家ごとの移転なら十年ぶんくらいは」
「十年!」
眼鏡の奥の目が爛々とした。危険な反応だ、と創太は直感した。
「すばらしい。ほら那水、やっぱり必要だ。今の隊舎に足りないのは、記憶の地図だよ。私は地形は描けるけど、人の引っ越しまで全部は追えない」
「興奮する前に、うちに払える給金が豆二杯分しかない現実も見て」
「豆は大切だ」
「そこじゃない」
ちひろは椅子の背にもたれ、満足げに言った。
「でしょう。だから連れてきた」
「まだ入るとは」
創太が言い終える前に、那水が机の端の箱を引き寄せた。
「ちょうどいい。口より先に見てもらう案件がある」
箱の中には、封蝋の割れた一通の封筒と、小さな依頼票が入っていた。依頼票には再配達希望とある。差出人名は掠れているが、宛先ははっきり読めた。
青柳橋東詰、柳瀬染布店裏、久瀬いと。
創太の目が止まる。
「あ」
声が漏れた。
ちひろがすぐに食いつく。
「知ってる?」
「今、その住所にはいません」
「ほら」
ちひろが両手を広げる。自分の勧誘が正しかったという顔だ。腹立たしい。
「でも、移転してます。三年前の水害のあと。青柳橋の東詰は床上げ工事で半月閉まって、そのとき柳瀬染布店の裏借家が全部空いたはずです」
「移転先は」
「北小葦通りの縫い針長屋。たぶん二軒目」
部屋が一瞬、しんとした。
創太は言ってから、自分の口が勝手に動いたことに気づいた。いつもなら、確証が足りないと黙る。だが依頼票の紙質と墨の色を見た瞬間、保管庫の記録と町の光景が頭の中でつながってしまった。
那水が先に立ち上がった。
「たぶん、で止めないで。裏を取る」
「今から?」
「依頼は依頼。動ける時に動く」
奏丞はもう壁の地図へ走っていた。
「北小葦通りなら南水門を避けたほうがいい。昨夜の雨で板橋が一本沈んでるはずだ。迂回するなら灰鷺橋――いや、荷が軽いなら細舟でも」
「細舟だと戻りが遅れる」
「では高床路の裏通り」
「そこ、今朝は魚籠が出て塞がってる」
幸育がひらりと手を挙げる。
「それ、さっき見ました。裏通りは塞がってる。でも織屋の軒先を抜ける細い渡し板なら一本空いてます。たぶん午前のうちだけ」
「どうしてそんなの知ってるの」
「朝ごはん前に市場一周してきたから」
「ちゃんと働いてるんだなあ、お前」
「今まで何だと思ってたんです?」
皆が一斉に動き出す。創太はその速さに目を見張った。
依頼はたった一通だ。だが誰も、それを軽い仕事として扱わなかった。届けるために必要な道、時間、人の動き、全部を机の上に乗せていく。沢地萃の郵便飛脚隊が昔どれだけ町の血管だったのか、今の数分だけで少し分かる気がした。
「創太」
ちひろが振り向く。
「行こう」
「……私も?」
「旧住所を言い当てた人が現地を見ないでどうするの」
「それは」
「だいじょうぶ。走らせない。今日は」
今日は、と付けたのが気になる。
創太が躊躇していると、萌乃香が小さな布包みを差し出した。
「お昼までには戻るでしょ。小さなお芋餅、入れておくね。考えすぎる人、空腹だともっと難しい顔になるから」
「……ありがとうございます」
礼を言いながら受け取ると、萌乃香はふっと目を細めた。
「うん。声、ちゃんとあるじゃない」
昨夜、ちひろにも似たようなことを言われた気がする。創太は何とも返せず、布包みを外套の内側へしまった。
結局、そのまま創太は隊舎を出た。
ちひろと那水と幸育が一緒だ。奏丞は地図の修正があるから残るらしい。萌乃香は見送りに出て、濡れた欄干に布をかけながら「無理なら途中で戻ってきて」とだけ言った。
沢地萃の午前は、朝より少しだけ人の歩幅が速い。
高床路を渡り、干し網の間を抜け、軒先の低い路地へ入る。幸育が先に立って市場の荷車をよけさせ、那水が時間を見ながら最短を選び、ちひろは歩幅を創太に合わせていた。
「……気を遣わなくていいです」
「何に」
「歩く速さ」
「私が話しやすい速さで歩いてるだけ」
「話してません」
「じゃあこれから」
ちひろは平然としている。創太は逆に落ち着かない。
昨夜、あんな形で再会した相手と、朝の町を並んで歩いている。変だ。しかも周囲から見れば普通に知り合い同士みたいな距離で歩いているのが、もっと変だった。
「それで」
那水が前を向いたまま言う。
「あなた、どこまで知ってるの」
「何を」
「ちひろのこと」
「那水」
ちひろが少し低い声を出す。
「隊に引き込むなら、曖昧なままのほうが危ない。違う?」
もっともだった。
創太は視線を落とした。
「昨夜、旧郵便塔の保管庫に来ました」
「来たじゃないよ。窓から入ったんだよ、あの人」
幸育が愉快そうに割り込む。
「やっぱりそうなんだ。ちひろさん、帰って一発目から派手ですね」
「うるさい」
「で、何を探してたんです?」
創太が問うと、ちひろは数歩ぶん黙った。
湿った風が頬をなでる。運河では細舟が一艘、葦の束を積んでゆっくり進んでいた。沢地萃の朝は動いているのに、この数歩だけ妙に止まって感じられる。
「……旧公印便の照会写し」
昨日と同じ答えだった。だが、その先が少しだけ続く。
「それと、受付台帳の欠番」
創太は息をのむ。
やはりそこか。
「二十年前の水路譲渡の記録に、不自然な空白があるの」
ちひろの声は低い。
「王都で台帳の写しを見て、気づいた。沢地萃の生活路に関わる話なのに、途中の照会だけ抜けてる。抜けるならもっと別の場所が抜けるはずなのに、そこだけ綺麗すぎた」
「綺麗すぎる、って」
「作った欠番ってこと」
幸育が口笛を吹きかけ、那水に睨まれてやめた。
「でも王都から正式に調べられない。上で握られる可能性が高い。だから私は個人で帰ってきた」
「個人で帰ってきて、窓から入るんですか」
「入口が塞がれてるなら、開いてるところから入るしかないでしょう」
「理屈が雑です」
「でも間違ってない」
そう言い切るところが、この人だ。
創太は少しだけ眉を寄せた。
言っていることは分かる。だが、そこまでして掘り起こしたいものがあるなら、なおさら一人でやるべきではないのではないか。
問いかけようとしたとき、幸育が前方を指した。
「縫い針長屋、あれじゃない?」
北小葦通りは、湿地の町のわりに少しだけ乾いた匂いがした。路地の片側に縫い仕事の内職をする家が並び、軒先には色とりどりの糸巻きがぶら下がっている。二軒目の戸口で、小柄な女が干しかけた布を取り込んでいた。
依頼票を見比べた那水がうなずく。
「久瀬いと、たぶん本人」
ちひろが前へ出た。
「沢地萃郵便飛脚隊です。再配達のお届けに来ました」
その一言で、女の肩がぴくりと揺れた。
飛脚隊、という名に反応したのだと分かる。驚きと、半信半疑と、少しの警戒。私設便ではない名乗りに、どう受けていいのか決めかねている顔だった。
「……うちに?」
「はい。差出人名が薄れていて保管が長引いていました。旧住所から移転があったようで」
那水がすっと依頼票を見せる。女――久瀬いとは布を脇へ抱えたまま、恐る恐るそれを見た。
「青柳橋東詰……。ああ、前の家」
その声がわずかに掠れる。覚えのある住所なのだ。
ちひろは封筒を差し出した。女は受け取る前に指先をためらわせた。長いあいだ待ち続けた手紙なのか、もう来ないと思っていた手紙なのか、分からない時の触れ方だった。
「今、開けても?」
「もちろん」
封蝋はすでにひびが入っている。水紋印は淡く、けれど完全には消えていなかった。封を切る前から、創太にはほんの少しだけ、紙のぬくさの名残が見える気がした。
女は便箋を開き、目を走らせた。次の瞬間、その表情が妙に空白になる。
「……え」
緊張が走った。何か悪い知らせかと創太が身構えると、女はもう一度便箋を見て、今度は呆れたように笑った。
「なにこれ……」
「大丈夫ですか」
ちひろが尋ねると、女は笑いながら首を振った。
「大丈夫も何も。兄からでした。王都へ修業に出るって言って、そのまま五年も便りがなくて、てっきり立派な話でも書いてあるのかと思ったのに」
便箋を裏返し、女は読み上げる。
「『北の寮の煮豆は信じるな。三日目に飽きる。塩昆布を持て』……何これ」
幸育が吹き出した。
「重要っちゃ重要」
「続きます」
女は肩を震わせながら読む。
「『寝台は窓際だと朝が寒い。足首が冷えると縫い針を落とす。厚手の靴下を二枚。王都の饅頭は見た目ほど甘くない。寮母さんは怖そうに見えて優しい。あと、おれは元気』……最後だけ雑!」
今度は那水まで口元を押さえた。ちひろは声を立てて笑い、創太もつられて息を漏らした。
手紙はずいぶん遅れて届いた。
王都へ修業に出た兄が、妹へ送った生活のこまごました注意ばかり。立派な決意表明でも、重い告白でもない。けれど、その最後の一行があるだけで、この五年の空白が少しだけ埋まるのだと分かる。
久瀬いとは目元をぬぐいながら、困ったように笑った。
「兄らしい。心配性のくせに、自分が元気って一言を一番後ろにしか書けないんです」
「返事、出します?」
ちひろが聞く。
女は手紙を胸に当て、何度かうなずいた。
「出します。今さらでも出したい。あの人、元気って書いといて、絶対また無理してるから」
「なら、今度は遅れないように届けます」
ちひろがそう言うと、女の顔に浮かんだ半信半疑が、少しだけほどけた。
「……飛脚隊、まだやってくれるんですね」
その問いに答えたのは、創太ではなく那水だった。
「やります。一通でも、ちゃんと」
短く、きっぱりした声だった。
久瀬いとは小さく頭を下げた。糸巻きの色が揺れる軒先で、その仕草は何だか大げさではない重みを持って見えた。
隊舎へ戻る道すがら、幸育はすでに次の算段を始めていた。
「今の見た人、絶対いますよ。縫い針長屋って噂の伝わり早いから、昼には『飛脚隊が手紙届けた』って回る」
「大げさにするのはやめて」
「大げさじゃなくて宣伝です。こっちは存在を思い出してもらわないと困るんだから」
那水が手元の小板へ何か書きつける。
「依頼一件、再配達完了。移転照合、成功。住所照合の所要時間、現地確認含め――」
「さすがだね、那水。今の感動を時間と数字にして保存するの」
「感動だけでは靴は買えないから」
ちひろが創太を見た。
「どうだった?」
どうだった、と訊かれても困る。
たった一通だった。しかも中身は塩昆布と靴下の話だ。
けれど創太は、久瀬いとが最後の一行を見たときの顔を思い出した。
元気。
ただそれだけの言葉が、五年ぶんの疑いを一瞬で解いたわけではない。それでも、怒りと諦めの中にひとつ細い橋を渡したのは確かだった。
「……届いた、と思いました」
創太がそう言うと、ちひろは少し驚いたように目を丸くし、それから笑った。
「うん。そうだね」
その笑い方があまりにも素直で、創太はすぐ視線を逸らした。
隊舎へ戻ると、奏丞が玄関まで走ってきた。
「どうだった。道は沈んでなかったか。橋の軋みは予想どおりか。依頼人の反応は。再配達の成功率は」
「質問が渋滞してる」
那水が紙片を渡すと、奏丞は目を輝かせた。
「すばらしい。ほら見ろ、やっぱり記憶の地図は必要だ。人がどこへ移ったかは水路図だけじゃ追えない。創太くんだったね? どうだろう、うちで地図係をやらないか」
「早いです」
「早くない。必要だ。今この瞬間にも」
「給金」
那水が冷静に差し挟む。
「だからそこをですね、依頼を増やし――」
「増えるまでの生活は空気?」
「空気は湿地に豊富だ」
「そういう話じゃない」
創太は少しだけ笑いそうになったが、すぐ口元を引き締めた。
勧誘されている。
信じられないくらい真正面から。
飛脚隊へ。自分が、だ。
「……無理です」
言葉は、思っていたより先に出た。
部屋が静かになる。
創太は自分の手元を見た。
「私は走る仕事をするつもりはありません。保管庫の仕事がありますし、父のことも……」
そこまで言って、止まる。
父のことを口にすると、その先はだいたい苦くなる。
ちひろだけが、すぐには何も言わなかった。
奏丞も、幸育も、那水も、萌乃香も。皆それぞれ反応を引っ込める。急かさない沈黙が、逆に息苦しい。
「じゃあ」
最初に口を開いたのは、ちひろだった。
「走らなくていい」
創太は顔を上げる。
「でも、ここにいて」
ちひろの言葉は、昨夜よりずっと静かだった。
「保管庫係のままでいい。地図係でもいい。旧住所を見抜ける人、保管規則を知ってる人、昔の道を覚えてる人。今の飛脚隊に必要なのは、走る足だけじゃない」
創太は返事ができなかった。
必要だと言われることに慣れていない。少なくとも、目を見て、そこにいてほしいと頼まれることには。
那水が帳簿を閉じた。
「正式入隊じゃなくていいなら、帳場上も処理は楽」
「つまり?」
「保管庫係兼地図係。臨時協力」
幸育がすかさず手を打つ。
「肩書きついた。かっこいい」
「勝手に決めないでください」
「勝手じゃないよ。今から本人に決めてもらう」
ちひろが一歩近づいた。
「創太」
その呼び方はずるい。
昨夜、保管庫の暗がりで耳にしたときと同じく、五年の距離を短くしてしまう。創太は胸の内側が落ち着かないまま、部屋の中を見回した。
屋根は抜けている。机は傾き、靴は足りず、依頼は少ない。けれど、さっきたった一通を届けるために、この人たちは迷いなく動いた。
町のどこかで止まっていた言葉を、一つでも前へ進めようとしている。
そのやり方は、不器用で、騒がしくて、ずいぶん無茶だ。
なのに、昨日まで保管庫の棚にきっちり並んでいた自分の時間より、少しだけ息がしやすい気がした。
「……臨時なら」
創太は言った。
「保管庫の勤務に支障が出ない範囲で、地図と旧住所の照合だけなら、手伝います」
言い切った瞬間、隊舎の空気がふっと動いた。
幸育が歓声を上げ、奏丞が壁の地図に新しい紙を貼り、萌乃香がなぜか追加の芋餅を皿に乗せ、那水はもう帳簿の欄を増やしている。
「だからちょっと待ってください」
「待たない」
ちひろはそう言って、ようやく徽章を創太の手から取り上げた。受け取った銀の表面を親指でなぞり、それから内ポケットへ戻す。
「返してくれてありがとう。あと、来てくれてありがとう」
礼を言われると、むずがゆい。
創太は視線をそらし、代わりに壁の地図を見た。
沢地萃の無数の水路が、細い線でそこにある。誰かの家へ、店へ、食堂へ、橋の先へ、全部つながっている。子どものころ、高い窓からちひろに見せられた景色に少し似ていた。
ただ一つ違うのは、今度はその線の先に、自分の役目も描き込まれようとしていることだった。
保管庫係兼地図係。
走るわけではない。前へ出るわけでもない。けれど、まったく無関係でもいられない位置だ。
その曖昧さが、今の創太にはちょうどよかった。
隊舎の外では、昼前の光が運河へ落ち始めていた。
昨夜の雨で増した水はまだ高い。市場ではまた私設便の声が響く。沢地萃の郵便事情が急に良くなるわけではないし、ちひろが追っている旧公印便のことも、何一つ片づいてはいない。
それでも、一通は届いた。
たったそれだけのことが、思っていたより大きい。
創太は胸の内側に生まれた小さな手応えを、まだ名前にできずにいた。けれど少なくとも、昨夜までの自分より、ほんの少しだけ先の景色を見ている。
ちひろが机越しに新しい依頼票をひらひら振った。
「じゃあ地図係、さっそく次。旧住所、南市場の裏手なんだけど」
「もうですか」
「もうだよ」
幸育が笑う。
「休ませる気、最初からないですね」
「あるよ。芋餅食べる時間くらいは」
「それ休憩の短さがおかしい」
騒がしい。
けれど、その騒がしさの中で、創太は少しだけ肩の力を抜いた。
静かな棚の陰から、まだ完全に外へ出たわけではない。だがもう、昨日と同じ場所には戻れないのだろう。
そう思う自分を、今はまだ責めなくていい気がした。




