第1話 最低な再会は保管庫で
雨季の入口は、いつも町の輪郭を曖昧にする。
沢地萃の夕暮れは、晴れている日でさえ少し湿っていた。けれど今日は、その湿り気がいよいよ本気を出したようで、旧郵便塔の窓硝子を細かな雨粒が絶え間なく叩いていた。硝子の向こうでは、運河に並ぶ高床の家々が薄い灰色の霧に溶け、渡し板の上を急ぐ人影も、細い筆でなぞったようにぼやけて見える。
創太は、地下保管庫へ続く石段を下りながら、胸の前で帳面を抱え直した。
今日の仕事は、宛先不明箱の再分類。雨季前に湿気を含みやすい棚を整理しておかないと、封蝋が緩み、水紋印の名残まで流れてしまう。たかが保管庫係、と笑う者もいるが、ここで眠る一通一通が誰かの途中で止まった言葉なのだと思えば、雑に扱えるはずがなかった。
地下へ降りるほど、空気はひやりとした。石壁の隙間にしみた水が小さな筋をつくり、ところどころに青い苔が浮いている。創太は油灯を棚の端に置き、まず一番奥の箱へ手を伸ばした。
箱の蓋には、古い書体で「宛先不明・北運河筋・五年前以前」と書かれている。束ね紐の色が褪せているものほど、差出人も受取人も、もうこの町にいないことが多い。
創太は封筒を一通ずつ指先でそろえた。
薄水色の便箋。封蝋は水鳥。差出は「葦舟亭女将」。宛先は「青柳橋たもとの織屋」。これは織屋が三年前に南市場へ移転したはずだ。なら移転先不明ではなく旧住所扱いにできる。
濃い茶の封筒。封蝋は欠けているが、水紋印の残り方からして怒っている手紙ではない。震えが長く尾を引かないから、怒鳴る前に踏みとどまった人の文面だ。差出は読みにくい。けれど紙質は議会用ではなく、魚市場でまとめ買いされる安紙。なら商家ではなく個人だろう。
そうやって考えている時間が、創太は嫌いではなかった。
地図も、家紋も、路地の古い呼び名も、運河の流れ癖も、覚えているものは多い。覚えているだけなら、たぶん誰にも負けない。だが誰かの前でそれを言葉にすると、急に自分の考えが頼りなくなる。外していたらどうする。余計な口出しだったらどうする。そう思うと、喉元まで来た一言を飲み込むほうが早かった。
だから創太は、走る仕事ではなく保管庫に残った。
父のように前へ出る人間ではない、と言い聞かせるのはもう癖になっていた。
遠くで雷が鳴った。塔の上のほうで、風に押された窓枠がびり、と鳴る。
今夜は早めに切り上げたほうがいいかもしれない。そう思って帳面に区分を書き足した、そのときだった。
がたん、と高いところで音がした。
創太は顔を上げた。
地下保管庫の、地上に近い中二階部分。採光用の細長い窓が一つだけあり、ふだんはそこから雨音と薄明かりが落ちてくる。その窓が今、内側へ半分ほど押し開かれ、濡れた黒い影が縁を越えようとしていた。
人だ。
しかもためらいがない。片脚を掛け、手を伸ばし、荷物を抱えたまま身を滑り込ませる動きに、迷いがひとかけらもなかった。
創太の頭より先に声が出た。
「え、ちょ、誰――っ」
影は着地と同時にしゃがみ込み、すぐさま最上段の保管棚へ目を走らせた。長い外套から雨粒が飛び、床に小さな水たまりができる。女だった。細いのに、無駄のない身のこなしで棚の側面にかかった脚立へ足を掛ける。
ただの迷子ではない。
手紙泥棒。
そう思った瞬間、創太は油灯を倒さないよう片手でかばいながら駆けた。
「待ってください!」
「静かにして!」
逆に叱られた。
女は上を向いたままそう言い、棚の最上段に腕を伸ばした。狙っているのは端の列だ。そこは通常の未配達便ではなく、保管期限延長の公用箱がまとめて置かれている一角だった。
創太の背筋に冷たいものが走る。
よりによって、そこを狙うのか。
脚立の足に手を掛けたところで、相手が振り返った。濡れた前髪が頬に貼りつき、油灯の火を受けた瞳が、はっとするほど強く光った。
見覚えがある、と思うより先に、女は脚立を蹴った。
「うわっ」
創太はとっさに体重をかけたが、踏板がぎしりと鳴って傾いた。棚の上段から布張りの書類箱が二つ落ちる。片方を受け止めようとして腕を伸ばしたところへ、女の身体まで降ってきた。
箱、腕、外套、髪、脚立。
何がどこに当たったのか分からないまま、二人そろって床に転がる。
束ねてあった封筒が四方へ飛び散り、乾いた紙の擦れる音が地下に雪崩れた。創太の背中に硬い床の感触が走り、次いで胸元に柔らかく重いものが落ちてきて、息が詰まる。
「いっ……」
「っ、あなたが急に来るからでしょう!」
至近距離で声がした。
女は創太の胸の上に片膝をついたまま、素早く周囲を見回した。その拍子に外套の留め具が外れ、中の制服がちらりと見える。深い藍色に銀糸の縁取り。沢地萃の郵便ではない。王都のものだ。
創太は抗議しようとして、言葉を失った。
雨で濡れた睫毛。息を切らした唇。幼いころより少し高くなった鼻筋。目が合ったとき、相手の表情も一瞬だけ止まった。
「……え」
先に呆けた声を漏らしたのは、たぶん自分だった。
女の眉が寄る。訝しむように、確かめるように。次の瞬間、その瞳が見開かれた。
「創太?」
五年ぶりに聞く声は、雨上がりの石畳みたいに、昔より少し低く、少し硬かった。
それなのに、名前の呼び方だけは変わらない。
創太の心臓が、ひどく間抜けなタイミングで大きく鳴った。
「……ちひろ、さん」
口の中が、急に乾く。
五年前に沢地萃を出ていった人だった。
郵便塔の階段で、外の景色を見せてくれた人。まだ背の低かった創太が、高い窓の外に浮草の海を見るたび、いつか自分もあの道を走るのだと思い込んでいた、そのきっかけをくれた人。
そして、何も言えないうちに王都へ行ってしまった、初恋の相手だった。
最悪だった。
再会の場所は埃くさい地下保管庫で、創太は床に転がり、ちひろはその上に乗っていて、周囲には封筒が散らばり、脚立は横倒し、しかも彼女はどう見ても忍び込んできたところだった。
創太がようやく身を起こしかけると、ちひろは先に立ち上がり、乱れた髪を後ろへ払った。昔と同じく、謝る前に次の行動を決める癖があるらしい。
「会って早々こんな形なの、本当にどうかと思うけど」
「そう思うなら窓から入らないでください」
「正面から入ったら見張りに止められるもの」
「止められる理由があるからでしょう」
思ったよりすぐ言い返せた。たぶん床に投げ出された恥ずかしさの勢いだ。
ちひろは一瞬だけ目を丸くして、それから口の端を上げた。
「へえ。声、ちゃんと出るようになったんだ」
そう言われると、途端に次が詰まる。
創太は立ち上がりながら、散乱した封筒をかき集めた。心臓がまだ落ち着かない。会いたかったのか、会いたくなかったのか、自分でも分からない。ただ、五年という時間が一息で巻き戻されたみたいに、胸の奥の古い場所が勝手に熱を持っている。
「……何を探してるんですか」
なるべく平らな声で訊く。
ちひろは即答した。
「旧公印便の照会写し」
創太の手が止まった。
その語を、軽々しく口にする者はこの塔にはいない。公印便は、町役場や議会、領の出先機関が交わした文書群の総称だ。表に出ることは少なく、保管場所も限られている。とくに旧公印便は、整理不備と欠番の多さから、扱いを間違えると面倒な一群として知られていた。
「どこに移したの」
「移してません」
「嘘」
「嘘じゃありません」
「この塔の保管庫係でしょう。知らないはずない」
「保管庫係だからこそ、勝手に話せません」
言い切ったあとで、自分でも少し驚いた。こんなふうにまっすぐ断るのは珍しい。
ちひろはまじまじと創太を見た。昔ならそこで軽口の一つも返してきただろうに、今の彼女は、相手の言葉の裏まで測るような目をしていた。
「……本当に知らないの?」
「少なくとも、今夜ここへ忍び込んで持ち出していい類いのものじゃない、ということなら知ってます」
ちひろが息を吐く。その吐息には苛立ちだけでなく、疲れの色も混じっていた。
「持ち出すつもりじゃないよ」
「では」
「所在を確かめたいだけ。どこまで残ってるか、何が欠けてるか、その確認」
「確認してどうするんです」
問い返した瞬間、ちひろはわずかに視線を逸らした。
その仕草を見ただけで、創太は胸のどこかがざわつくのを感じた。昔のちひろは、嘘をつく前に一度だけ右へ目をやる。子どものころ、食堂のつまみ食いを隠すときも、飛脚見習いの試験で無茶をして擦り傷を増やしたときもそうだった。
まだ、その癖は残っているらしい。
「町のため」
「雑です」
「じゃあ、沢地萃の郵便を取り戻すため」
「もっと雑です」
思わず言うと、ちひろが少しだけ吹き出した。
笑い声は短かったが、それだけで保管庫の空気が五年前に引き寄せられた気がした。創太はその錯覚に腹を立てる。置いていかれた記憶は、そう簡単に湿気みたいに飛んではくれない。
だが次の瞬間、その空気を断ち切るように、上階で鈴が鳴った。
見回りの合図だった。
夜番が巡回を始めたのだ。
ちひろの顔から笑みが消える。創太も反射的に入口を見た。石段の上、扉の隙間から淡い灯りが落ちてくる。鍵は閉めたはずだが、見回りは定刻になると必ず戸口まで来る。
「窓」
「今さら戻れません」
「じゃあ隠れて」
「どこに」
「こっちです」
創太はちひろの腕をつかみ、最奥列の大型書架の陰へ引いた。そこは長年動かされていない台帳棚の裏で、横から入れば大人二人が立てるだけの隙間がある。湿気と紙の匂いが濃い場所だった。
二人が身を滑り込ませたのとほぼ同時に、保管庫の扉が開く。
油灯の火が揺れた。
「……おい?」
夜番の男の声だ。
「誰かいるのか。今、音がしたぞ」
創太は息を止めた。ちひろの外套から落ちる雫が、床に小さく落ちる。ぽつ、という音がやけに大きい。夜番の足音が近づいた。
創太はとっさに、散らばった封筒の一束を足先で棚の下へ寄せた。見つかれば、ただでは済まない。忍び込んだちひろが問題なのはもちろんだが、保管庫係である自分も無傷ではいられない。
隣でちひろが身を縮める。その肩が、創太の腕に触れた。
近い。
近すぎる。
濡れた髪から、雨と石鹸の混ざった匂いがする。昔、塔の上階で風に吹かれていたときにも似た匂いを感じた覚えがあって、創太は自分の記憶力の無駄な正確さを恨みたくなった。
夜番の灯りが、書架の隙間を横切る。
「脚立が倒れてるじゃねえか……」
男がぶつぶつ言いながら近づいてくる気配がした。創太の喉が鳴りそうになる。するとちひろが、ほとんど見えない暗がりの中で、そっと指先を伸ばした。
創太の口元に、人差し指が当たる。
静かに。
声にしないその仕草が、余計に胸を騒がせた。
灯りが止まる。
書架一枚隔てた向こう側だ。
「……風、か?」
夜番がしゃがむ気配。創太は反射的にちひろの肩を抱き寄せた。彼女がよろけて棚にぶつかりそうになったからだが、抱き寄せたあとの距離は言い訳が追いつかないほど近かった。
ちひろの瞳が、すぐ目の前で大きくなる。
油灯のわずかな反射で、瞳の奥に金色の点が揺れた。
創太は何か言おうとして、結局何も言えなかった。言えば吐息まで触れてしまいそうで、喉が閉じる。
夜番はしばらく床を見回し、倒れた脚立を起こし、散った封筒を拾いきれないまま首をひねった。
「ったく、湿気で木が緩んだか……」
独り言を残し、やがて足音が遠ざかる。扉が閉まり、鍵が鳴り、完全に静かになるまで、創太も、ちひろも、しばらく動けなかった。
先に身を離したのはちひろだった。
「……助かった」
ささやく声が、さっきまでより少しだけ柔らかい。
「見回りの時間くらい把握してから入ってください」
「把握してたよ。雨で交代がずれるのを読み違えただけ」
「それ、把握してないのと同じです」
また言えた。今日は変だ、と創太は思う。ちひろ相手だからか、怒っているからか、胸の奥が昔に引っ張られているからか、自分でもよく分からない。
書架の陰から出ると、床にはまだ封筒が散っていた。ちひろが膝をついて拾い始める。彼女の指先は速いが、雑ではない。封蝋を欠けさせないよう端をそろえ、濡れたものと乾いたものを分けている。その手つきを見ていると、王都へ行ってからの五年が、彼女から何かを奪っただけではなく、きちんと積み上げたものでもあったのだと分かる。
「……王都の郵政局にいるって、噂では聞いてました」
拾った封筒を受け取りながら創太が言うと、ちひろは顔を上げた。
「噂、ね。沢地萃って本当に狭い」
「帰ってきたなら、正面から帰ってくればよかったでしょう」
「正面から帰ったら、正面から捕まる」
「何をしたんですか」
「何もしてない。まだ」
まだ、という言い方に創太は眉を寄せる。
ちひろは封筒の山を積み直しながら、少し考えるように黙った。やがて、いつもの勢いで押し切るのではなく、一語ずつ選ぶように話し始めた。
「創太。沢地萃の郵便飛脚隊、今どうなってるか知ってる?」
「……隊舎は半分閉まってます。私設便に仕事を取られて、残ってる人も少ない」
「うん。解散寸前」
雨音が、一段強くなる。
創太は封筒を棚へ戻しながら黙った。飛脚隊の話は、町で聞かない日がない。運河商会が始めた私設便は速くて安いと触れ込まれ、儲かる路線だけを奪っていった。残された公的郵便は、採算の合わない地域や雨季便を抱えたまま弱っている。沢地萃のような湿地の町では、本来その不便な道こそ誰かが担わなければならないのに。
父は、その古い仕組みの中で走って死んだ。
創太は無意識に、指先へ力を込めた。封筒の角が少し潰れ、慌てて戻す。
「だから、取り戻したいの」
ちひろは言った。
「町の郵便を。ちゃんと届ける仕組みを。沈められた記録ごと」
沈められた、という言い方が妙に引っかかった。
「記録って……旧公印便のことですか」
「そう」
「そんなものを追って、あなた一人で何ができるんです」
「一人だからできることもある」
「一人だから窓から入るしかないんでしょう」
ちひろが押し黙る。
言いすぎた、と少し思う。けれど引っ込める言葉も見つからない。
五年前、彼女は町を出た。創太は見送りにも行けなかった。行こうとして、結局行けなかった。何を言えばいいか分からなかったからだ。
そのくせ今さら帰ってきて、窓から忍び込んで、町のためだとだけ言って、肝心なことは話さない。
腹が立つのは当然だ、と自分に言い聞かせる。
だが同時に、目の前に本当にちひろがいるのだという事実が、腹立ちとは別の熱を胸に灯していた。
ちひろは立ち上がると、創太の正面に向き直った。
「全部はまだ言えない」
「そうでしょうね」
「でも、嘘はつかない。私は旧公印便の所在を知りたい。照会写しと欠番の記録が残っているか確かめたい。その先に、沢地萃の水路と郵便を守る手がかりがある」
水路。
その言葉に、創太は小さく息を呑んだ。郵便だけではない。沢地萃では、水路が止まれば暮らしそのものが止まる。運河商会が水路権まで握ろうとしているという噂は聞いたことがあったが、役所も議会も曖昧な返事しかしなかった。
「……どうして、そこまで」
訊いた声は、自分でも驚くほど低かった。
ちひろの瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「帰ってきたかったから」
「それ、答えになってません」
「なってるよ。私には」
その言い方は、昔のちひろに似ていた。強引で、先へ進むために足りない説明を置いていくところが。
創太は口を開き、閉じた。
まただ。言いたいことは山ほどあるのに、喉まで来ると形にならない。会いたかった。どうして何も言わずに出ていったのか。五年のあいだ、沢地萃をどう思っていたのか。なぜ今日、こんな雨の夜に帰ってきたのか。
どれも言えず、代わりに出たのは別の言葉だった。
「今夜はもう、帰ったほうがいいです」
「追い出すんだ」
「見回りがもう一回来ます。次はごまかせません」
「じゃあ、また来る」
「来ないでください」
「無理」
即答だった。
ちひろは窓の下へ歩きながら、外套の留め具を留め直す。その横顔を見ていると、王都の空気をまとっていても、この人はやっぱり沢地萃の雨の中を走るほうが似合う、と勝手に思ってしまう自分が悔しい。
「創太」
窓枠に手を掛けたまま、ちひろが振り返る。
「あなた、まだこの町の道を全部覚えてる?」
「……だいたいは」
「じゃあ、その頭、貸してもらうかもしれない」
「断るかもしれません」
「断ってから言って」
そう言って、彼女は笑った。
昔、塔の最上階から外を指していたときと同じ笑い方だった。置いていかれた側の都合なんて少しも考えず、でも人の足を前へ出させるのがうまい笑い方。
創太が返事を考えるより早く、ちひろは窓枠に足を掛け、するりと外へ出た。雨はもう本降りで、彼女の背をすぐ灰色に溶かしていく。
「ちょっと、待っ――」
呼び止めかけた声は、結局最後まで届かなかった。
窓が揺れ、ばたんと閉まる。
残ったのは、散らかった保管庫と、湿った風と、さっきまで確かにここにいた人の気配だけだった。
創太はしばらくその場に立ち尽くした。
雨音がひっきりなしに石壁へ打ちつける。胸の内側では、もっと厄介な音が鳴っていた。怒っている。呆れている。振り回されている。なのに、心のどこかが息を吹き返してしまったことも認めざるを得ない。
最低だ、と創太は思う。
こんな形で再会して、こんなに腹が立っているのに、初恋というものは勝手すぎる。
片づけのため、倒れた脚立のそばへしゃがんだとき、床板の隙間で小さく光るものが目に入った。
銀色の徽章だった。
雫をぬぐって拾い上げる。表には水紋を囲む三重の輪。その中央に、王都中央郵政局の刻印。裏面には補佐見習いの階級を示す細い線と、個人番号。
ただの旅人でも、ただの帰郷でもない。
王都の郵政局に籍を置くちひろが、正式な窓口を通らず、雨の夜に旧郵便塔へ忍び込んだ。その理由は彼女の言葉より、手の中の徽章の冷たさのほうが雄弁だった。
創太は徽章を握りしめる。
水に濡れた金属は驚くほど冷たく、掌の熱をじわじわ奪っていく。その感触の奥で、別の記憶がふいに目を覚ました。
昔、まだ創太の背が低かったころ。ちひろは塔の階段を二段飛ばしで駆け上がり、振り返って言ったのだ。
「高いところから見ると、この町の道って、ぜんぶ誰かの家につながってるって分かるよ」
そのときのちひろは、風に髪をなびかせながら笑っていた。創太は息を切らしつつ追いかけ、窓の外に広がる運河の線を見た。無数の水路、橋、渡し板、細い道。そのどれもが、誰かの暮らしへ届いているのだと教えられた。
あのとき、自分もいつか届ける側へ行けるのだと思った。
でも父が死んでから、その思いは雨で滲んだ文字みたいに読めなくなった。
届ける途中で失うものがあるなら、自分は最初から保管する側でいい。そうやって棚と台帳の陰に身を置いてきた。
なのに今夜、ちひろはその静かな場所へ窓から飛び込んできた。勝手に、泥だらけで、説明も足りないまま。
そして、創太が触れないようにしていた町の奥のほうまで、一緒に揺らしていった。
地上で鐘が鳴った。閉塔を告げる最後の音だ。
創太ははっとして、散らばった封筒をあらためて拾い集めた。作業はまだ終わっていない。湿気を含んだ封筒は分け、角の潰れたものは乾燥棚へ移す。脚立のがたつきは明日修理依頼を出す。夜番に怪しまれないよう、書架の並びも元どおりに見せなければならない。
やることは多い。
なのに、頭の片隅では別のことばかりが鳴っている。
旧公印便。照会写し。欠番の記録。沢地萃の水路。解散寸前の郵便飛脚隊。
ちひろが言った「町の郵便を取り戻す」という言葉。
創太は最後の封筒を棚へ戻し、帳面を閉じた。そして迷った末、王都中央郵政局の徽章を胸元の内ポケットへしまう。
明日、届けて返すべきだ。
そう考えるのが筋のはずだった。
けれど創太は、その筋の良さだけでは片づかない予感を、もう手放せなくなっていた。
雨は夜のあいだじゅう、沢地萃を濡らし続けるだろう。
明日の朝には、運河の水かさが増し、渡し板のいくつかは沈む。市場ではまた私設便の呼び込みが声を張り上げ、旧郵便塔には湿った紙の匂いが満ちる。
何も変わらないように見える朝が来る。
けれど創太には分かっていた。
今夜、何かが動き出した。
それは保管庫の奥で眠っていた記録かもしれないし、解散しかけた郵便飛脚隊かもしれない。あるいはもっと厄介に、五年前に置き去りにしたはずの自分の初恋かもしれなかった。
創太は油灯を手に取り、石段の最初の一段へ足を掛ける前に、一度だけ振り返った。
窓は閉じている。雨粒が細い筋をつくり、その向こうの夜は何も見せない。
それでも、また来る。
理由もなく、そう思った。
そしてその予感はたぶん、当たる。




