6 食堂の犬と白雷の報せ
習作です。
よろしくお願いします。
1日2回投稿の2回目です。
迷宮の入り口は、もはや以前の面影を微塵も残していなかった。
かつては精霊たちが戯れ、清涼な風が吹き抜けていた岩肌は、カイルが打ち込んだ魔導装置「強制抽出の楔」を中心に、脈動するドス黒い血管のような「澱み」に覆い尽くされている。地脈から噴き出した黒泥は、周囲の木々を瞬時に枯らし、土を腐らせ、生きとし生けるもの全ての生存を拒絶する死の領域を形成していた。
その中心、装置が放つ紫の光の渦の中に、それは君臨していた。
澱みが意思を持ったかのように形を成した、不浄の化身。
それは、数日前にアーサーが浄化したはずの巨岩鳥の姿を模していたが、その禍々しさは比較にならない。体躯は三倍以上に膨れ上がり、岩のような鱗の間からは、星の吐息を汚染する毒霧が絶え間なく溢れ出している。四つの翼はボロボロに崩れた影の膜となり、羽ばたくたびに周囲の現実そのものが腐食し、歪んでいく。
「ひ、ひぃ……! ギル、何とかしろ! あれを殺せ! 私は魔石が欲しいと言ったのだ、あんな化け物を呼び出せなどと言っていない!」
カール男爵は、自分が引き起こした災厄の巨大さに完全に腰を抜かし、泥にまみれた膝をガタガタと震わせながら地面を這いずり回っていた。宝石を散りばめた指輪は澱みに当てられ、どす黒く変色している。
「無茶を仰らないでください! あの『黒い封筒』の呪文が、地脈のアニマを餌にして育ち続けているんです……! 私の杖では、もう、抑えられない!」
鑑定士ギルの銀の杖は、魔獣が放つ負の波動に当てられ、ガラスが砕けるような不気味なひび割れが幾重にも走っていた。彼らが学んできた王都の魔術、すなわち「型」に嵌められ、計算され尽くした「静的な力」では、真理そのものを冒涜し、書き換えようとする根源的な悪意の前には、赤子の手も同然だった。
(……やれやれ。欲張りすぎた報いにしては、ちょっとばかし度が過ぎているね。あの『楔』に刻まれた呪い……あれは、人間の知恵が産み落としたものじゃない)
岩陰からその光景を冷徹に見下ろす一匹の銀鼠色の犬、アーサーは、静かに、そして肺の奥深くまで息を吸い込んだ。
彼の肺に流れ込むのは、淀み、腐り、悲鳴を上げる不快なアニマだ。だが、アーサーはその毒を拒絶しない。むしろ、その苦しみさえも自らの一部として受け入れるように、強大な幻獣としての魂の中で、ゆっくりと、けれど峻烈に調律していく。
(おいで、苦しんでいる子たち。無理やり縛られて、汚れを押し付けられた精霊たち。……本当の光を、僕が今、見せてあげるからね)
アーサーが地面を蹴った瞬間、世界は静止したかのようにスローモーションへと切り替わった。
カールやギルの目には、ただの一匹の小さな家犬が、無謀にも巨大な魔獣へ向かって突っ込んでいったようにしか見えなかっただろう。だが、事実は全く異なっていた。
アーサーが通る軌跡に沿って、大地に伏していた精霊たちが、一斉に呼び覚まされていく。
魔導装置という監獄に吸い込まれ、形を歪められかけていたアニマたちが、アーサーが発する「真の理」という旋律を聴いて、歓喜の震えを上げ始めたのだ。
「グルル、アァァァァ……ッ!」と影の化身が、鎌のように鋭い翼を振り下ろす。
その一撃は、単なる物理的な破壊ではない。触れた場所の「存在の定義」を消し去り、無へと還す腐食の一撃だ。だが、アーサーはその攻撃を避けなかった。
翼が彼の小さな体に触れる、わずか一瞬前。
彼は自らの意志を、周囲に漂う無数のアニマの粒子に直接伝播させた。
『解き放たれよ。星の静寂へ、還りなさい』。
その短い、けれど宇宙の誕生から続く真理に等しい「ささやき」が、霊的な次元で響き渡った。
次の瞬間。
アーサーの全身から、白銀の雷光が、世界のすべてを塗り替えるほどの勢いで溢れ出した。
それは、カールたちが使うような、何かを焼き尽くすための暴力的な光ではない。
淀んで、固まって、ドロドロの塊になってしまったアニマの結び目を、一つ一つ丁寧に解き、本来あるべき清らかな水の流れに戻すための、究極の「浄化の響き」だった。
「ドォォォォォォォォォォン……!」という衝撃波とともに、真昼の太陽さえも霞むほどの白銀の閃光が、影の化身の心臓部を貫いた。
だが、そこには爆音も、熱もなかった。
光に触れた影の化身の身体は、まるで春の柔らかな陽光を浴びた残雪のように、音もなく、静かに、そして驚くべき速度で霧散していった。
魔獣を形成していた汚泥は、アーサーの雷によってその「悪意の型」を根底から焼き切られ、元の無垢なアニマへと還り、空高くへと昇っていく。
「まだだ。大本を叩かなきゃ、星の喉を詰まらせているこの『棘』を抜かなきゃ、意味がないんだよ」
アーサーは光の尾を引く彗星のように空を翔け、未だに不気味な脈動を続けている魔導装置「楔」へと躍りかかった。
装置の心臓部には、黒い炎を上げるあの「黒い封筒」の残骸が埋め込まれている。そこから放たれる呪いは、今も地脈の奥深くへと汚染の根を伸ばし続け、星の呼吸を止めようと足掻いていた。
アーサーは空中で身を翻し、右の前足を突き出した。
彼の肉球の先には、世界を構成する全アニマを強制的に調和させ、元の静寂へと引き戻すための「原初の術式」が、凝縮された雷火となって集っていた。
(壊すんじゃない。……君を、本来あるべき『無』へ、静かな場所へ、還してあげる)
「パキィィィィィィィィン……!」極寒の湖の氷が、一気に割れるような、あまりにも澄み切った、高潔な音が山々に響き渡った。
アーサーの爪先が触れた瞬間、黒い魔導装置はその表面からひび割れ、内側から溢れ出す圧倒的な浄化の炎によって、原子レベルで分解されていった。
歪な呪文、強欲な意志、そして名もなき黒幕が込めた悪意。そのすべてが、白銀の雷光の中で塵となって消えていく。
迷宮の奥底から、深い、深い、魂の底を揺さぶるような溜息が吹き抜けた。
それは、ようやく締め付けられていた喉元を解放され、呼吸を取り戻した星の、安堵と感謝の声だった。
山々を覆っていた重苦しい黒霧が、嘘のように晴れていく。
雲の隙間から差し込む陽光が、再び鮮やかな色彩を森に取り戻させていく。
「……あ、消えた……? 悪夢が、去ったのか……?」
カールが、腰を抜かしたまま空を見上げて呆然と呟く。
鑑定士ギルもまた、もはやただのひび割れた銀の棒と化した自分の杖を見つめ、声も出せずに震えていた。
アーサーは、光が完全に収まるよりも早く、素早く周囲の岩陰へと身を隠した。
そして数拍置いて、わざと足を引きずり、枯れ葉を毛並みにたっぷりとくっつけた状態で、「あまりの恐怖にパニックになって逃げ回っていた、泥だらけの情けない小犬」の姿を完璧に作り上げてから、彼らの前に姿を現した。
「キャン、キャン! クゥゥゥーン……!」
情けない声を上げ、まるで自分の尻尾を追いかけるように不格好に回転しながら、カイルたちの前を横切って村の方へと駆け下りていく。
「い、今の犬……いや、まさかな。あんな雑種が、この天変地異の中を無傷で……。だが、あの光は何だったんだ?」
ギルが疑念に満ちた瞳で、アーサーが走り去った方向を見つめる。
だが、その疑念を追及する余裕は彼らにはなかった。迷宮の崩壊は免れたものの、自分たちが王都に無断で禁忌の術を使い、あわや大災害を引き起こしかけたという事実は消えない。彼らはこれから、自分たちの破滅という別の影と向き合うことになるのだ。
村へと戻るなだらかな山道を下りながら、アーサーはふと足を止め、一度だけ振り返って北の空を見上げた。
迷宮を浄化し、理を書き換えたあの瞬間。
アーサーは、あまりにも巨大な、そしてあまりにも純粋な魔力を解き放ってしまった。
いくら周囲の精霊たちが隠蔽してくれたとはいえ、この辺境の村にあるまじき巨大な魔力は強烈すぎた。
(……やっちゃったな。今の、絶対に隠しきれなかった)
北の果て、万年雪に閉ざされた聖域。
そこには、アーサーと同じ琥珀色の瞳を持ち、より厳格に、より冷徹に、慈悲など一切介さずに世界の理を守り抜く「一族」の本隊がいる。
そしてその中心には、アーサーがかつてその期待を裏切り、逃げ出した先にある、最も合わせる顔のない人物、「銀髪の断罪者」がいる。
(パーシヴァル兄さん……。どうか、どうか気づかないでくれよ。僕はただ、この村で、リナのスープを飲んでいたいだけなんだ……)
アーサーの切実な願いも虚しく。
遥か北の空、絶対零度の静寂に包まれた雲の切れ間から、アーサーの放った温かな雷に応えるような、冷たく、そして鋭利な「銀色の閃光」が一筋、南へと向けて音もなく走り出すのが見えた。
それは、平穏の終わりを告げる、あまりにも美しい死神の矢のように見えた。
まずはいったん6話まで。ゆるりと書いていきます。




