5 食堂の犬と澱の暴走
習作です。
よろしくお願いします。
1日2回投稿の1回目です。
カール男爵たちが宿屋『銀の深鍋』を去ってから三日。村を包む空気は、もはや「不穏」という言葉では形容しきれないほどに重く、湿り気を帯びていた。
空は突き抜けるように晴れているはずなのに、降り注ぐ陽光にはどこか力がなく、色彩が剥がれ落ちたような灰色がかった光が地上を照らしている。村の至る所から、精霊たちの気配が消えていた。いつもなら厨房の柔らかな湯気の中で、光の粒となって楽しげに踊っていた小精霊たちさえ、今は食器棚の隅や暗い物置の奥で、互いに震えながら寄り添い合っている。彼らはアニマの変質を誰よりも敏感に察知していた。
(……空気が、苦いね。まるで、古い鉄の錆を飲み込んでいるみたいだ)
アーサーは宿の裏庭で、冷たい地面に鼻を押し付けたまま、思いにふけった。
地脈の奥深くから、巨大なガラスが軋むような、あるいは生き物の内臓が腐り落ちていくような、不快な振動が休みなく伝わってくる。それは、迷宮という「星の臓器」が、外側から無理やり抉り広げられ、悲鳴を上げている響きだった。
アーサーには見えるようだった。山の上に設置された魔導装置が、目に見えない黒い触手を地脈へと伸ばし、星の健康な息吹を強引に吸い上げている様が。
「アーサー、おいで。元気がないわね、スープでも飲む? 今朝のは特別に、お肉を多めに入れておいたのよ。しっかり食べなきゃダメよ」
リナが心配そうな面持ちで、温かな湯気の立つ木製のボウルを持って裏庭へやってきた。アーサーは、彼女の優しさに応えるように力なく一度だけ尻尾を振った。
リナの手の温もり、そしてスープから漂う、アニマを慈しむような豊かな香り。それが今のアーサーにとって唯一の救いだった。
(リナ、ありがとう。でも、今は喉を通らないんだ。ごめんね……。あいつらが、迷宮に『毒』を流し込もうとしている。このままじゃ、この村の美味しい水も、君が愛している優しい風も、全部壊れてしまうんだ)
アーサーはリナの掌に、祈るように頭を擦り付けた。だが、その琥珀色の瞳は、まっすぐに山の頂、かつては清浄なアニマを吹き出していた迷宮の入り口を見据えていた。
その日の午後、ついに世界の均衡が音を立てて崩れた。
迷宮の入り口に陣取ったカール男爵は、興奮で顔を紅潮させ、懐から「黒い封筒」を取り出した。封筒には差出人の名もなく、ただ不気味な魔力の残滓がまとわりついている。彼は震える手で中から一枚の、黒い羊皮紙を取り出した。そこには、王都の魔導士ギルドが定める正規の呪文体系には決して存在しない、歪で、見ているだけで眼球が痛むような古代の文字が並んでいた。
「……鑑定士ギル、準備はいいな。ついに、我々の時代が来るのだ」
「はい。カール様。……しかし、この呪文、本当に大丈夫なのですか? アニマの流れをここまで無視し、強制的に捻じ曲げる術は、古の禁忌に触れるのでは。これでは、迷宮そのものを焼き切ってしまいかねません」
ギルの懸念は至極まっとうなものだった。鑑定士としての本能が、目前の紙片に宿る「悪意」に警鐘を鳴らしている。だが、カールはそれを鼻で笑い飛ばした。
「何を恐れる。これは『王都の影の有力者』が授けてくださった、真理への最短距離なのだ。これを使えば、我々は一晩にして王都のどの貴族よりも、いや、王族よりも富を得ることができる。迷宮の寿命など、私の知ったことか。始めろ!」
カールの強欲に押し切られる形で、ギルは銀の杖を迷宮の闇へと向け、カールから手渡された黒い言葉を紡ぎ始めた。
「『命じられた形に従え。星の吐息よ、我が枷に従え。澱みは石に、光は肉に。理を書き換え、我らが望むままの富を捧げよ!』」
その声が山々に響き渡った瞬間、世界から一瞬だけ音が消えた。鳥のさえずりも、木の葉のざわめきも、風の音さえも、何者かに吸い込まれたかのように沈黙した。
次の瞬間、迷宮の入り口に設置された魔導装置「強制抽出の楔」が、ドス黒い紫色の光を放ち、地脈の奥底へ向けて、目に見えない呪縛の鎖を打ち込んだ。
「ドォォォォォォン……!」と大地が、これまでにないほど激しく波打った。村中の家々が軋み、窓ガラスが震える。
迷宮は本来、世界の汚れである「澱み」を吸い込み、数百、数千年という時間をかけてゆっくりと濾過し、清浄なアニマへと還す場所だ。だが、この禁忌の呪文は、その尊いプロセスを完全に踏みにじった。
装置は、浄化しきれていない「澱」そのものを、強引に吸い上げ、圧縮し、結晶化させようとした。それは、健康な人体の臓器に、無理やり劇薬を流し込み、無理やり特定の細胞だけを肥大させるような、創造主への冒涜にも等しい暴挙だった。
(……! やめろ! 壊れてしまう! 星が死んでしまう!)
村の広場でその衝撃を感じたアーサーは、我慢できずに咆哮した。もちろん、リナたちの耳には「悲しげな犬の鳴き声」にしか聞こえなかっただろうが、アーサーの魂は絶叫していた。
迷宮の奥底で、かつてない圧力をかけられたアニマたちが、悲鳴を上げている。そして、行き場を失い、濃縮された不浄な魔力が、出口を求めて逆流し始めたのだ。
「な、なんだ!? 魔石はどうした! なぜ、こんな泥が出てくる!」
カールの歓喜の叫びは、一瞬にして絶望の悲鳴へと変わった。
魔導装置の継ぎ目、そして迷宮の岩肌の隙間から溢れ出したのは、黄金に輝くはずの魔石ではなかった。それは真っ黒な、そして意思を持っているかのように蠢く「澱の泥」だった。
それは本来、形を成してはならないもの。星の呼吸の中で静かに消えていくはずだった「世界の老廃物」が、禁忌の呪文によって無理やり「命」の真似事を与えられた存在だ。
黒い泥は、地面に広がりながら盛り上がり、うねり、やがて不気味な骨の軋むような音を立てながら、形を変えていく。
巨大な蜘蛛の脚、首の長い奇妙な獣、そして、かつてアーサーが浄化した巨岩鳥の残影を継ぎ接ぎしたような、歪な影の化け物たちが次々と産み落とされていく。
「ギル! 何とかしろ! 魔獣だ! 澱みから魔獣が生まれているぞ!」
「くっ……『焼き払え、聖なる炎よ! 型に従い、不浄を灰とせよ!』」
鑑定士ギルが必死に杖を振り、王都で学んだ火の浄化魔術を放つ。炎の矢が影の魔獣の眉間に吸い込まれる。だが、その炎は魔獣の身体に触れた瞬間、ジュッと嫌な音を立てて呑み込まれ、消え失せた。
「……バカな。私の魔術が、通用しない……?」
「型」に嵌められ、計算され尽くした魔術は、アニマの不純物そのものである彼らにとって、単なる追加の栄養でしかなかった。影の魔獣たちは、呪文の光を呑み込み、さらにその体躯を巨大化させ、赤い眼光を強めていく。
(……ダメだ。人間が作る、理屈で固めた偽物の光じゃ、あの根源的な闇は洗えない。むしろ餌を与えるだけだ)
アーサーは村を駆け抜け、リナたちが避難を開始している宿屋の窓から外を伺った。
村の広場には、山から流れ下ってきた重たい黒い霧が立ち込め、視界を奪い始めている。
その時、宿の食堂でバートが静かに立ち上がった。彼は帳面を閉じ、眼鏡を外して懐へしまうと、棚の奥の隠し扉から、一本の古い真鍮製の杖を取り出した。それは、普段の穏やかな相談役の顔からは想像もつかないほど、峻烈な気配を纏っていた。
「リナ。アーサーを連れて、二階の奥の、一番頑丈な部屋へ入れ。扉には私が鍵をかける。決して、中から開けるんじゃないぞ」
「父さん……! あの黒い霧、何なの? 山が、泣いているみたい……。父さんも一緒に来て!」
「私は村の衆を避難させねばならん。……心配するな。欲に目が眩んだ愚か者が、星の喉を詰まらせただけだ。掃除が必要なだけさ」
バートはリナの肩を優しく叩き、それから足元のアーサーを見下ろした。その琥珀色の瞳を、一瞬だけ射抜くように見つめ、すぐに出ていく。
バートが表へ出ると同時に、アーサーはリナが二階へ上がるのを見届け、音もなく裏窓から飛び出した。
(バート、あんたが地上を守るなら、僕は原因を叩きに行く。あの『楔』を破壊しない限り、星の吐息は止まったままだ。……見ていろよ、王都の欲深な奴らめ)
アーサーはもはや犬ではなく、白銀の雷光を四肢に纏わせ、重力さえも無視した速度で山の斜面を駆け上がる。彼の通った跡には、一瞬だけオゾンのような清涼な香りが残り、澱んだ霧がわずかに晴れた。
背後では、村を襲おうとする影の魔獣と、真鍮の杖を構えて一人立ち塞がるバートの、静かな、けれど苛烈な戦いの気配が遠ざかっていく。
山頂には、自分たちが呼び出した災厄に腰を抜かしたカールと、もはや魔法を紡げず膝をつくギルがいた。
そして彼らの前に、禁忌の呪文が産み落とした最大の失敗作、迷宮の怒りと澱みが凝縮された、巨大な「影の化身」がそびえ立っていた。
アーサーは、その影の前に立ち、琥珀色の瞳を黄金に燃え上がらせた。
(おいで、アニマたち。……本当の『浄化』ってやつを、今ここで、君たちの魂に刻み込んでやるよ)




