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4 食堂の犬と豪華な馬車

習作です。

よろしくお願いします。

1日2回投稿の2回目です。

巨岩鳥との戦いから数日が経過した。

村を包む空気は、一見すればこれまで通りの平穏を取り戻したかのように見えた。リナの作るスープの香りは相変わらず食欲をそそり、村人たちの笑い声は秋の澄んだ空に溶けていく。しかし、食堂兼宿屋『銀の深鍋』の軒先で、日向ぼっこを装いながら微睡んでいたアーサーだけは、その「平穏」の裏側に生じた、髪の毛一本ほどの細い亀裂を感じ取っていた。

(……変だな。精霊たちの歌が、少しだけ外れている)

アーサーは琥珀色の瞳を薄く開き、山の方角を見た。

幻獣である彼には見えるアニマの粒子は、昨日よりもわずかに動きが鈍い。まるで、水底に溜まった泥が、静かに、けれど確実に舞い上がり始めているかのような、不快な停滞感。

それは、迷宮の奥底で澱みが飽和しつつある予兆だったが、それ以上にアーサーを不安にさせたのは、村の入り口から近づいてくる「異物」の気配だった。

カラン、カランと、蹄の音が静かな村に響き渡る。

やがて現れたのは、名前のないこの村にはおよそ似つかわしくない、豪奢な馬車だった。

金細工の縁取りが施され、王都の誇り高い大鷲の紋章を掲げたその馬車は、泥跳ね一つない磨き抜かれた姿で、村の唯一の目抜き通りを堂々と進んでくる。

(……嫌な風が吹いてきたな)

アーサーは喉の奥で小さく唸り、身を隠すようにリナの足元へ擦り寄った。

その馬車から放たれているのは、アニマを「世界の命」としてではなく、ただの「燃料」や「貨幣」としてしか見ていない、冷たく、計算高い魔力の波動だった。

馬車が『銀の深鍋』の前で止まると、中から降り立ったのは、贅沢な絹の服を幾重にも着込み、指にいくつもの宝石を光らせた小太りの男、領主カールだった。そしてその背後には、灰色の法衣を纏い、先端に魔石を嵌め込んだ銀の杖を携えた、神経質そうな男が控えている。王都の鑑定士、ギルである。

カールは刺繍入りのハンカチで鼻を覆い、辺りを見回すと、不快そうに顔を歪めた。

「ふん、ここが例の『知恵者』とやらが居を構える店か。ずいぶんと煤けた、獣の匂いのする場所だな」

彼は吐き捨てるように言うと、土足のまま食堂の扉を蹴るようにして開けた。

厨房から出てきたリナが、そのあまりの無作法さに驚き、手に持っていたトレイを抱きしめるようにして立ちすくむ。

「いらっしゃいませ……。あの、お客様、うちは宿屋でして……」

「黙れ、小娘。この村の相談役をしているバートという男を呼べ。王都からの伝令だ」

カールの声は、食堂の温かな湯気を切り裂くように響いた。

その時、奥のテーブルで静かに帳面をつけていたバートが、ゆっくりとペンを置き、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。

「……王都からのお客様とは。ご予約は頂いておりませんでしたが、何かお困りですか? 領主様」

バートの声は驚くほど平坦で、揺るぎがない。彼は立ち上がりもせず、ただ静かな視線でカールを射抜いた。その佇まいは、単なる村の老人ではなく、激動の時代を生き抜いてきた者だけが持つ、独特の重みを湛えていた。

カールはバートのその不遜とも取れる態度に眉を吊り上げ、懐から重厚な羊皮紙を叩きつけた。

「挨拶は抜きだ。本日より、この村の背後にある迷宮の管理権は、我がトンプソン家が接収する。これは王都の魔導研究所、および中央議会からの正式な通達だ」

バートの眉が、わずかに、しかし鋭く動いた。

「管理権、ですか。あの場所は古より、この地の住人が寄り添い、星の呼吸が滞らぬよう慎重に見守ってきた、いわば世界の臓器のようなもの。王都の理屈で無作法に扱えば、アニマの循環が狂いますぞ」

「ふん、循環だの臓器だの。迷宮は、澱みを濾過する過程で産み落とされる『魔石』という富を眠らせた、いわば国家の金庫だ。それを、貴様らのような無知な平民が独占しているのは、王国の損失なのだよ。なあ、ギル?」

鑑定士と呼ばれた男、ギルが、無機質な瞳でバートを見据え、一歩前に出た。

「その通りです。我々には、特別なルートから授かった、迷宮そのものを縛り上げる『法』がある。これを用いれば、地脈の淀みを強制的に圧縮し、通常の十倍の速度で魔石を抽出することが可能です」

(……法、だって? バカな。迷宮に無理やり息を吸わせれば、その心臓は止まってしまう。こいつら、自分たちが何を言っているのか分かっているのか?)

アーサーはバートの影で身を低くし、毛を逆立てたい衝動を必死に抑えていた。

だが、それ以上にアーサーの感覚を逆なでしたのは、カールの懐から漂ってくる、澱んだ「黒い悪意」の残滓だった。

カールという男は、単に強欲なだけの小悪党だ。しかし、彼にその「法」とやらを授けた存在は違う。それはアーサーと同じ、あるいはそれ以上に世界の理を熟知し、それをあえて壊そうとしている、底知れない闇の気配だった。カールの懐にある「黒い封筒」が、周囲のアニマを怯えさせ、震えさせているのだ。

「おや、そこの犬……」

不意に、鑑定士ギルの視線が、バートの足元にいるアーサーに注がれた。

ギルの瞳には、対象の魔力組成を暴く「鑑定眼」の光が宿っている。

「妙ですね。ただの家犬にしては、アニマが異常にまとわりついている。もしや、珍しい変異種か?」

ギルは興味深げに銀の杖をかざし、アーサーに向けて「真理を暴く強制の言葉」を放とうとした。鑑定士が本気でその杖を振るえば、アーサーが幻獣としての気配をどれほど殺していても、その「格」の高さが露見してしまう。

(しまっ……! こいつ、鼻が利く!)

アーサーが緊張に身を硬くしたその瞬間、バートが音もなくカールたちの前に立ちふさがった。

「失礼。その犬はうちの大切な看板犬でしてね。魔力にひどく敏感でして、不用意に光を向けられると、怯えてお客様のお高い絹の服を噛みちぎってしまうかもしれません。……それは、私としても不本意でしてね」

バートは穏やかに笑いながら、同時にその手でカールの目の前に、別の古い帳面を広げて見せた。

「管理権のお話、承知いたしました。……ところで男爵。この村の迷宮から採れる魔石の流通に関しては、すでに私が王都の幾つかの商会、および近隣の領主たちと、今後三十年に渡る『共益協定』を結んでおります。もし、貴殿が今日この場で管理を奪われるとなりますと、私は彼らに対し、多額の違約金と、再調整の労力を請求せねばならなくなりますが……その準備は、当然よろしいですかな?」

「な、何だと……? 共益協定? 違約金だと?」

カールの顔が、一瞬にして青ざめた。バートが提示した帳面には、王都でも名だたる有力な商会の印が、これでもかと並んでいたのだ。

バートは単なる村の老人ではなかった。彼は王都の複雑な権利関係や法律の穴を熟知し、あらかじめ「カネと人脈」という名の見えない防壁を、迷宮の周囲に張り巡らせていたのだ。

(やるなあ、バート。……よし、僕も少しだけ、バートの背中を押してあげよう)

アーサーはバートの足元で、伏せの姿勢をとった。そして、自分の肉球をそっと床の石畳に押し当て、周囲に漂う風の精霊たちへ、ごく微かな、けれど確実な「合図」を送った。

彼が放ったのは破壊の雷ではない。この場の澱んだ空気をかき回すための、小さな悪戯だ。

カールが「そんな協定、私が認めん!」と喚こうとした、その時。

閉め切っていたはずの食堂の中に、不自然な旋風が巻き起こった。その風はピンポイントでカールの懐を突き上げ、そこから数枚の羊皮紙を、まるで生き物のように宙へ舞わせた。

「わっ!? なんだ、急に突風が……! ギル、押さえろ!」

ひらひらと舞った紙は、食堂に居合わせた村人たちの足元、そしてリナの持つトレイの上へと、吸い込まれるように落ちた。そこには、カールが王都の中央議会へ報告せずに、迷宮から得た利益を個人的な負債の返済に充てようとしていた「裏帳簿」の、決定的な証拠が記されていた。

「これ……カール子爵の署名が入ってるぞ?」

「私腹を肥やすために、俺たちの迷宮を奪おうっていうのか!」

村人たちの間に、怒りの囁きが広がる。カールの顔は、熟したリンゴを通り越して、紫がかった不気味な色に染まった。

「ええい、無礼な! これは捏造だ! ギル、引くぞ! 迷宮に『強制の楔』を打ち込む準備を急げ! 既成事実さえ作ってしまえば、田舎の理屈などいくらでも叩き潰せるわ!」

捨て台詞を残し、カールたちは逃げるように食堂を後にした。馬車が激しい音を立てて走り去っていく。

食堂に沈黙が戻った。

バートは静かに眼鏡を外し、布で丁寧に拭き直すと、足元で無実の犬の顔をしているアーサーを見下ろした。

「……アーサー?」

アーサーは「クゥーン?」と首を傾げ、世界で一番無害な雑種犬のふりをした。バートは溜息をつき、その大きな手でアーサーの頭を乱暴に撫でた。

「……嵐が来るぞ。リナ、今日は戸締まりを厳重にするんだ。彼らにあの『黒い封筒』を授けた者がいる。迷宮を無理やり動かせば、澱みが溢れるだけでは済まない。世界の呼吸そのものが、歪められてしまう」

バートの瞳には、かつてないほど深い憂いが宿っていた。

アーサーは彼の足元に寄り添いながら、山の向こう、呻きを上げる迷宮を見上げた。

カールを操る見えない手。そして、歪められた呪文。

平和な看板犬としての「ごっこ遊び」は、今、明確に終わりを告げようとしていた。

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