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1 食堂の犬と黒い霧

習作です。

よろしくお願いします。

1日2回投稿の1回目です。

その村には、名前がない。ただ「山間にある村」と呼ばれ、険しい山々の隙間に、まるで誰かの忘れ物のようにひっそりと置かれていた。切り立った岩肌に抱かれたこの地は、地図の端で霞むほどに辺境だが、そこには世界を巡る「星の息吹」が濃密に漂っている。

村の外れ、山の斜面が巨大な獣の口のように大きく開いた場所には、古より続く不気味な「迷宮」が佇んでいた。そこから吹き下ろす風は、地下の冷気を含んで重く、けれど時折、身震いするほど清浄な香りを運んでくる。それは、この世界が健やかに呼吸している証でもあった。

宿屋兼食堂『銀の深鍋』の朝は、その冷たい山風を、かまどの火が優しく溶かすところから始まる。

「アーサー、そこをどいて。お掃除するから。そんなところで寝てたら、ほうきで掃いちゃうわよ」

看板娘のリナが、焼きたてのパンを籠に詰めながら、困ったような、それでいて愛おしげな苦笑いを浮かべた。

その足元で、銀鼠色の毛並みを持つ一匹の犬、アーサーは、わざとらしく大きなあくびを一つした。少し長めの耳をパタパタとさせ、前足をぐーっと伸ばして背中を反らせる。見た目は少し毛並みの良い、どこにでもいる賢そうな雑種犬だ。だが、彼が琥珀色の瞳を細めれば、そこには人間には決して見えない、色彩豊かな光景が広がっていた。

(……ふぁ〜あ。今日も、ここのアニマたちは楽しそうに踊ってるな)

アーサーの視界には、空気中に漂う星の息吹「アニマ」が、淡い光の粒子として映っている。

特に、厨房の竈に据えられた『銀の深鍋』の周りは特別だった。店主バートの手によって鏡のように磨き上げられたその巨大な銀色の鍋からは、黄金色のスープが豊かな湯気を立ち昇らせている。その湯気の中では、指先ほどの大きさの名もなき小精霊たちが寄り添い、楽しげに光の粉を振りまいていた。

彼らは純粋なアニマが一時的に形を成したものだ。リナが鼻歌を歌いながら木べらでスープをかき混ぜるたび、アニマたちは彼女の穏やかな慈愛を記憶し、より一層の輝きを放つ。この宿の料理が、ただ美味しいだけでなく、食べた者の疲れを芯から癒やすのは、この「記憶された愛」が身体に染み渡るからだった。

それは、王都の魔術師たちが呪文という冷たい「型」にアニマを押し込み、無理やり強制して引き起こす現象とは、根本から異なる、生命の共鳴そのものだった。

(この味、この匂い。何度嗅いでも最高だ。……一年前に故郷を捨てて、お腹を空かせてボロボロになって辿り着いた僕を救ったのは、リナが差し出してくれた、この一口だった)

アーサーの正体は、純粋なアニマの奔流から生まれた高潔な幻獣、雷狼ライロウの幼体である。

本来、雷狼とは星の意志に従い、世界の淀みを浄化することわりの守護者だ。気高く、孤独で、時には峻厳しゅんげんな調律師。だが今のアーサーにとって、そんな誇り高い肩書きは、リナが撫でてくれる手の温もりや、毎日のおいしいご飯に比べれば、石ころほどの価値もなかった。彼は過去を琥珀色の瞳の奥深くに封じ込め、尻尾を振って喜びを表現する「看板犬」としての今を全力で愛していた。

「はい、お待たせ。アーサー、今日のご褒美よ。熱いから気をつけてね」

リナが木製のボウルを床に置いた。中身は、昨夜の鹿肉の端材をミルクでじっくり煮込み、香草で香りを整えた、滋養たっぷりの粥だ。

アーサーは「クゥーン!」と、これ以上ないほど甘ったるい声を出し、期待に満ちた目でリナを見上げた。彼女が「よし」と頷くのを待って、一心不乱に粥にかじりつく。

(はふはふ……熱い、けど美味い! これだよ、これ。このスープさえあれば、僕は僕であることを忘れて、ただの幸せな食いしん坊ワンコでいられるんだ。ああ、美味しい、美味しいよう)

舌の上でとろけるミルクの甘みと肉の旨み。アーサーの尻尾は、勝手に左右へ大きく揺れていた。

しかし、その至福の時間を、足元の石畳から伝わってきた微かな「震え」が揺らした。

(……!)

アーサーの動きが止まる。

一見、ただの小さな振動に見えるが、彼の鋭敏な幻獣としての感覚は、それが迷宮の奥底でアニマたちが上げている悲鳴であることを瞬時に悟った。

迷宮は本来、世界の汚れである「よどみ」を濾過する場所だが、最近はその動きがひどく重苦しい。澱みが溜まり、不浄な変異を遂げれば、澱んだ魔力を帯びた「魔獣」が産み落とされる。その胎動が、確実に近づいていた。

「……リナ、バートさん。なんだか最近、山の鳴り方がおかしいと思わないか?」

客席の隅で、分厚い古い書物を開き、羽ペンで帳面をつけていたバートが、眼鏡の奥の鋭い目を窓の外へと向けた。

バートはこの村の「相談役」であり、村人の揉め事から冬の備えまで、あらゆる知恵を貸す「知恵者」として深く信頼されている男だ。

「迷宮の底から立ち上る風が、少し湿っている。澱みが溢れ出そうとしているのかもしれない。そうなれば不浄な魔獣が出る。この村の穏やかな循環が乱れるのは、あまり良くない予兆だね」

バートの言葉は、単なる不安を超えた、世界の構造を見通すような響きを持っていた。

リナは不安を打ち消すように、自分の両腕をさすり、それからアーサーの背中を優しく撫でた。

「大丈夫よ。この村には、この『銀の深鍋』があるもの。どんなに寒い日だって、ここの温かいスープがあれば、みんな元気になるわ。そうでしょ、アーサー?」

アーサーは彼女の掌に頭をぐりぐりと擦り付け、安心させるように甘えた声を漏らした。

(……そうだね、リナ。君の言う通りだよ。君が笑っていられるなら、世界はまだ大丈夫だ。けれど……もしその笑顔を奪うようなものが来るなら、僕はいつか、隠している『雷』を呼び戻さなきゃいけないかもしれないね)

その時、宿の厚い木の扉が、乱暴に押し開かれた。

流れ込んできた冷気とともに、顔を青ざめさせた数人の村の男たちが飛び込んでくる。

「大変だ! バートさん、いるか!? 迷宮の入り口に、見たこともない黒い霧が溜まり始めているんだ! 浄化を司る小精霊たちが、みんな怯えて逃げ出している!」

男たちの叫び声に、食堂の空気が一気に張り詰めた。

アーサーの琥珀色の瞳が、一瞬だけ、宿屋の看板犬にはあるまじき神々しい鋭さで光った。

平和な食卓の裏側で、物語の歯車が、後戻りできない重い音を立てて回り始めた。

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