いつか祝いを受ける
その国の王太子の婚約者は、身分が低く視力も持たない子爵令嬢だった。身のほど知らずとの婚約を、ついに王太子が破棄するお話。
「オールディントン子爵令嬢クリスティア! お前との婚約を破棄する!」
舞台俳優のような通りの良い声が、惜しくも悪意を孕んでそう叫んだ。
名前を呼ばれたクリスティアは、金で装飾された白い杖を握りしめたまま声の方向へ視線を向ける。クリスティアは眼が見えないけれど、そちらに声の持ち主である王太子がいるはずだった。
眼の見えないクリスティアは、そのぶん魔力の流れや空気の動きで周囲の状況がよく判る。いまも、悪意を向けられたクリスティアに周囲がくすくすと嘲り笑っているのが理解できた。
近くに控えてくれている護衛をかねた侍女が、怒りに震えているのが判る。クリスティアが子爵令嬢だから、子爵家の両親もクリスティアの侍女や護衛たちも、クリスティアに向けられる悪意からクリスティアを守り切れないのだ。
婚約者である王太子がクリスティアを大切にしていれば、状況はまた違ったのだろう。
けれど婚約をしてから八年間、クリスティアを最も嫌がり軽んじ虐げたのは他でもない王太子だった。王太子がそんな調子だから、周りの貴族たちだって同調するのだ。
クリスティアは背筋を伸ばして、王太子の声と魔力を辿って真っ直ぐに顔を向けた。クリスティアの瞼は閉じたままだったけれど。
「婚約破棄ですか」
正直なところ、今すぐにでも飛びつきたい話だった。けれど後から難癖をつけられても困るから、しっかりと言葉にしておく必要がある。
「王太子殿下は、幼い頃に妖精の怒りを買っております。その怒りを和らげるために、妖精の祝福を授かっているわたくしとの婚約が定められたと記憶しておりますが」
「うるさい、デタラメを言うな!」
王太子の顔は幼い頃のものしか知らないけれど、そのときも随分と可愛らしい顔立ちをしていた。成長した今は、さぞ精悍な青年に成長しているだろう。
実際に、王宮の侍女やメイドたちが王太子が通るたびに浮かれているのを知っている。残念なことに、体の成長に心は追いついていないようだけれど。
「デタラメではありません。当時の筆頭占術師様のご判断によるものと聞いております」
「無知なお前に教えてやる、その筆頭占術師こそがデタラメを言っていたのだ! 先代の筆頭占術師が亡くなって新たにウォーディントン公爵が筆頭占術師についたが、ウォーディントン公爵が当時の占術結果は何もかもデタラメであったと証明してくれたぞ! お前が先代の筆頭占術師に鼻薬でも嗅がせていたのだろう、悪党め!」
そんな事実はないし、先代の筆頭占術師は王太子妃候補としては身分の頼りないクリスティアにも親切にしてくれる人格者だった。
「あなたさまの何が妖精を怒らせたのか、妖精の怒りによって何が起きるのか、単に祝福を授かっているだけの一介のただびとであるわたくしには予想がつきません。それでもよろしいのですね」
妖精というのは、精霊に次いで神に近しい種族と言われている。
その存在は人間にとってありがたいものであることもあれば理不尽であることもあり、ときには眼が合っただけで人びとが蛙に変えられてしまうという事件が起きることもある。人間にとってはそれくらい不条理なものなのだ。
念のため最後の確認をすれば、王太子が忌々しげに舌打ちする。
クリスティアが視力を持たないからか、王太子は昔から態度や言動でクリスティアを傷つけようとした。その姿が他国の王族や貴族の眼に入って評価を下げていることなど、きっとこの王太子は気づいていないのだろう。
何しろクリスティアは、眼が見えないぶん他の色々なものが判るので。
「くどい! そもそも身分も低い、眼も見えないお前がわたしの婚約者であったことが異常なのだ! これからはこのウォーディントン公爵令嬢と婚約する! まぁ、お前には見えないだろうがな」
眼には見えていないけれど、王太子の隣に年若い女性が立っていることには気づいていた。
魔力を探れば、いつも学園で執拗にクリスティアに嫌がらせをしていた令嬢だった。クリスティアの眼が見えないから、直接攻撃してもどうせ判らないと思っていたのだろう。
「承知致しました。では、婚約破棄を受けたく存じます。書類はございますでしょうか」
もういちいち仕切り直すのも面倒臭くて、クリスティアは問うた。最初から問答無用で婚約を破棄するつもりだったのだろう、書類が差し出される。
クリスティアが受け取るよりも早く、後ろに控えていた侍女が進み出て受け取った。ざっと内容を確認して、次いで一瞬だけ後ろに視線を向けて、耳打ちしてくる。
「婚約破棄の責任を負って、オールディントン子爵家が廃爵になる内容が記されています。ただいま旦那様に確認しましたが、そのまま進めるようにと」
この会場にいる子爵家の当主に確認したのだろう。父が構わないのであれば、クリスティアにも否やはなかった。
書類を受け取って、自分の名前を署名する。その瞬間、クリスティアの視界を光の奔流が襲った。
もう王太子を守る義理はなくなったから、妖精に差し出していた視力が返されたのだ。情報量に耐えきれずによろめけば、慌てて侍女が支えてくる。
「お嬢様!」
「大丈夫よ、ベサニー」
そろそろと瞼を開ける。およそ八年ぶりの光に、いまだに視界がちかちかする。
クリスティアの瞳を見た王太子が狼狽えた。
「お前、なんだ、その瞳は」
「わたくしは妖精の祝福を受けていると申しましたでしょう。この瞳を気に入られたのです」
クリスティアの瞳は、磨かれた宝石のような遊色をしている。これは随分と昔に滅びたとされているとある王家の特徴を示していて、非常に優れた知力と魔力と容色を持っていたことが今日にも伝わっていた。
クリスティアは突発的に生まれた先祖返りなのだ。視力を失う十歳までは色変えの魔法で誤魔化していたけれど、瞼を閉ざしてからはすっかり忘れていた。
クリスティアの瞳を見た王太子が顔色を変える。この国は近親婚を繰り返しすぎた弊害で時代が下るごとに王家や高位貴族の魔力が減退しているから、古代の王家の血筋には非常に価値がある。
「やっぱり破棄は止めだ! お前と結婚してやる」
「いいえ、すでに婚約破棄の書類には署名させて頂きました。それに、一介の子爵令嬢と王太子殿下では身分が釣り合いませんわ。王太子殿下も仰っていたではありませんか。あぁ、もうわたくしは子爵令嬢ですらありませんでしたわね」
「身分などどうにでもなるだろう! おい、あの女を捕らえろ!」
大騒ぎする王太子を尻目に、侍女がクリスティアを抱え上げる。
「逃げますよ、お嬢様」
「ごめんなさい、色変え魔法をかけていなかったのを忘れていたわ。瞳を見られちゃった」
視界の端では、元子爵家の家族たちもさり気なく逃げだそうとしている。あまり良くない状況のはずなのに、クリスティアはおかしくてくすくすと笑った。
「あぁ、あのろくでなしからやっと解放されたわ! お偉い公爵令嬢様とどうぞお幸せにー!」
子爵家の屋敷に待たせていた使い魔の翼竜を召喚する。家族たちを順に拾い上げながら、クリスティアは空を見上げた。
八年ぶりに見えたまん丸の月は、クリスティアを祝福しているみたいだった。
***
「――はっ!」
クリスティアははっとして視界を上げた。
子爵家の居間でのことだった。暖炉を囲んでいた家族たちが、突然飛び上がったクリスティアをちょっとびっくりした顔で見ている。
ややあって、父子爵がくすくすと笑った。
「どうしたんだい、クリスティア。寝ぼけたかな」
クリスティアの手元には編みかけのレースがあって、斜め向かいの母の手元にも同じように編みかけのレースがある。
母はずいぶんとレース編みが上手くて、幼い頃からクリスティアも母を真似てレースを編んでいた。だから、家族で集まったときに母とクリスティアがレースを編むのは珍しくないことだった。
いつもの光景だ。いつもの。
不思議そうにクリスティアを見つめてくる家族たちに、クリスティアは微笑んだ。
「ごめんなさい、おかしな夢を見たみたい」
「まぁ、疲れているのね。もうすぐ帝国に向かうのだもの、無理はないわよね」
学園を卒業したクリスティアは、八年来の婚約者である隣国の第三皇子に嫁ぐためにもうすぐ帝国に向かうことになる。帝国であらかじめ決められていたとある侯爵家の養子となり、そこから第三皇子に嫁ぐのだ。
クリスティアが第三皇子に見初められたのは、クリスティアがまだ十歳の時分だった。妖精騒ぎに巻き込まれた第三皇子を、妖精の祝福を持つクリスティアが助けたのだ。
もうすぐ公的にはこの家の娘ではなくなるクリスティアを、家族たちは何かと構いつけてくる。クリスティアも、そんな家族たちとの残りの時間を大切にしているところだった。
「そういえば、第一王子殿下ってどうされたのでしたっけ」
「第一王子殿下って、この国の?」
母が不思議そうに、きょとんとして首を傾げた。
「もう八年も前に、妖精の怒りを買って亡くなったじゃないの。小妖精を追いかけ回した挙げ句に木の棒で叩きのめしただなんてちょっと信じられない話で、当時は王家交代のお話まで出るほどの大騒ぎになったもの、よく覚えているわ。あのときは帝国の皇家もいらしていて第三皇子も巻き込まれかけたから、本当に大問題になったのよね」
「えぇ、そう……。そうよね、亡くなっているのよね」
こくこくと頷く。どうしてだかどきどきと落ち着かない心臓を、クリスティアはそっと押さえた。
父が心配げにクリスティアの顔を覗き込む。
「本当に大丈夫かい、クリスティア? 帝国にはわたしたちもついて行くし、寂しくないようにしばらくは滞在する予定だからね」
「えぇ、もちろん知っているわ。帝国に行くのが嫌になったわけじゃないわ、本当よ」
どうしてだか、何かがしこりのように胸に凝っている。けれどそれも、何回か深く呼吸をして、婚約者である第三皇子のことを考えていれば気にならなくなった。
そっと眼に触れる。いまも変わらず色変え魔法をかけている、クリスティアの最大の秘密だ。
第三皇子は魔法に長けているからクリスティアが眼に何かの魔法をかけていることには気づいているだろうけれど、何も訊かないままでいてくれる。
いつか、第三皇子に伝えられる日がくるといい。きっと今まで積み重ねてきた時間と、これから積み重ねていく時間が、いつかクリスティアの口を開かせるだろう。
どうしてだか夢に見た気がする、もう覚えてもいない誰かの残影を、クリスティアは振り払った。
「本当に、変な夢を見たわ」
祝うことと呪うことは同じことである、という考えがありますよね。なろうテンプレだとなんとなく観測範囲では『祝福=良いもの』という前提があることが多い気がするのですが、だったら『いや、ありがたくねー!』みたいな祝福を書いてみた、かった。過去形です。全然違うものになりました。やーんっ
でも妖精の不条理さはそこそこ書けた気がします。本当は『僕を見たね? じゃあ消すね!』くらいのが書きたかったのですけれど、これだと妖精を通り越して何かの怪異っぽさが出てしまうのでいったん軟着陸させました。また思いついたら形にします。よしなにー!
【追記20251205】
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/799770/blogkey/3544652/
【追記20251207】
一部表現に誤りがあったので修正しました。恥!!ご指摘ありがとうございますー!




