兄弟 ⑥
水銀の動作を最終確認したのち、ケイネスはゆっくりと小瓶を握りしめて魔力を注ぎ始めた。すでに自律行動の機能に必要な装置の大半は出来上がっており、あとは実際に魔力を注ぎながら微調整すれば完成する算段であった。目を閉じて集中しながら、じっくりと水銀に刻まれた魔術装置の概観を眺める。自分の造り上げた装置が三次元の回路図としてまぶたの裏にハッキリと浮かび上がり、事前に設計した図面と寸分の狂いもないことを確認した。そして、まだ完成していない装置の末梢部に向けて意識を向けて魔力を注入し、新たな回路を装置に慎重に付け加えていった。
「もう少しで完成だ。」
そのように心の中でつぶやいたが、さすがのケイネスも細部の調整には細心の注意を払うために極度の集中力を要しており、額からは小さな汗粒が一筋だけ頬を伝っていた。
まさに完成を迎えるかというその瞬間であった。部屋のドアが突然バタリと開いたのだ。
「兄さん、言い忘れてたことがあった!」
そう言って、ヨハンが勢いよく部屋の中へ飛び込んできたのだった。
ケイネスの集中力は一気に分散し、水銀へ向けて糸のように一点に注ぎ込んでいた彼の魔力は大きく四方へ散逸して消えていった。大きくため息をついた後、ゆっくりと口を開いた。
「・・・どうした、ヨハン?」
大事な作業が思わず中断を余儀なくされ、彼の声には少しだけ不快感が滲んでいたかもしれない。それを弟は鋭敏に察知したのだった。
「ごめんなさい、兄さん。ひとつだけ伝えておこうと思ったんだ。」
ヨハンは大げさなほど申し訳ないという態度を見せ、ケイネスの毒気はすっかり抜かれてしまった。
「明日からのアカデミーでソラウさんに会ったら、よろしくって伝えてね。」
そう言うと、ヨハンはそそくさと部屋から退出したのだった。
ソラウ・・・。その名前を耳にしてケイネスは複雑な心境になった。ソラウ=ヌァザレ=ソフィアリ、彼女はロンドン魔術教会で降霊科の君主を代々歴任してきたユリフィス家の息女であった。アーチボルト家とユリフィス家は古くから少なからず親交があり、ケイネスもソラウとは幾度となく会う機会があった。
「あの類の女はどうも苦手だ。」
小さく呟いた後、以前にソラウと面会したときのことが自然と脳裏によぎった。彼の記憶の中にあるソラウの姿は、その洗練された品位と理知とは裏腹である高慢な印象が焼き付いていた。率直に言って、彼にとってはあまり好意的とはいえない女性であった。
「しかし・・・。」
ケイネスがその後に続く言葉を心の中で紡ごうとしたが、その直前に我に返り首を数回横に振った後、机の上に倒れた小瓶へと目を向けた。ヨハンの不意の訪室により小瓶は投げ出され、それは机の上に横たわったままであった。それを右手で拾い上げると再び両手で握りしめ、目を閉じて水銀に刻まれた魔術装置の状態を確認し始めた。最後の仕上げの段階で集中力が乱されたため心配していたが、どうやら装置の完成には概ね問題なさそうであった。
「どうやら問題なさそうだ。」
そのように胸をなでおろしたとき、自律行動に関わる部分の回路図にほんの僅かな乱れがあることに気が付いた。どうやらヨハンに驚かされた影響がこの部分に反映されているらしい。ケイネスは少しだけ首を傾げて修正するか勘案したが、制御にはまったく影響が出ないほどの些細な誤差だと判断して放置することに決めた。問題があるならば、後から修理を加えればよいだけの話だ。それよりも、集中力を使い果たした後の疲労感が訪れており、椅子の上で少しだけうたた寝を始めた。意識がゆっくりと曖昧になる中で、これから始まるアカデミーでの生活に思いをはせると同時に、ソラウの端正な美しい顔が浮かぶのであった。