ソラウ ⑨
「・・・ネス、ケイネス。あなた、私の話を聞いているのかしら?」
記憶という過去へ向かう広大な空間を彷徨い歩いていたケイネスは、凛とした声に導かれて現在へと帰還したのだった。目の前にいるソラウは深紅のドレスに代わって白いシャツと黒オリーブ色の緩やかな7分丈のパンツというカジュアルな恰好をしており、胸元にある赤い大きなリボンが印象的であった。
「ああ、すまない。すこし考え事をしていた。」
ケイネスは素直に謝罪した。彼女の顔色をうかがったが特に不満や怒りを露わにする様子はなく、少しだけ呆れたような仕草を見せた後、いつものように澄ました無表情に戻っていた。
「なんの話をしていたか。」
改めて彼はソラウに問い直したが、彼女は前を向いたまま即座には返事しなかった。漠然とした気まずさをケイネスは感じたが、それを察知したかのように彼女はため息を小さく吐き出した。
「ヨハン君は元気にしていますか?」
小さな棘を含んだような丁寧な物言いでソラウは尋ねた。
「ああ、ヨハンのことか。私の弟は相変わらず精力的に活動しているようだ。来年には我々と同じ時計塔の一員になるだろう。」
すこし慌てたような口調でケイネスは答えた。どうもソラウを前にするとケイネスは彼女に主導権を握られてしまい、本来の彼がもつ沈着冷静な言動は鳴りを潜めてしまうようだ。これが惚れた側の弱みかと彼は心の中で独り呟いたのだった。
「そう、それは良かったわ。それと、お父様からの言付けがあるから伝えておくわ。研究室にいつでも遊びに来なさいとのことよ。」
「承知した。時間を見つけて研究室に訪問するとユリフィス卿に伝えてくれたまえ。」
ユリフィス卿とは昨年のパーティーで会ったのが最後であり、それなりの時間が経過していた。向こうはこの時計塔に君臨するロード達の一角であり、そんな重鎮においそれと気軽に訪ねるわけにはいかないと思っていた。しかし、向こう側からの招待があるならば話は別だ。遠慮なく研究室へ赴き、その魔術の教えを存分に請おうとケイネスは考えた。
「それじゃ、必要なことは伝えたから私は行くわね。」
ソラウは静かに長椅子から身を起こすと、ひとつも振り返ることなく小道を歩き出した。やがてその背は時計塔へと続く石畳の向こう側へと消えていった。一人とり残されたケイネスの横を冬の寒々とした乾いた風が吹き抜けた。先ほどまで心の中にあった喧騒が嘘のように静まり返って空虚な感覚となったが、その中にほんのわずかな満足感もあった。
今はまだ、彼女の本当の笑顔を自分に向けさせることはできない。しかし、いつか、それを成し遂げて見せる。ケイネスは決意を新たにし、長椅子から立ち上がって時計塔のほうへ歩き始めたのだった。




