ソラウ ⑧
「さあ、お父様。向こうでアーチボルト様が首を長くしてお待ちですわ。」
そう言うとソラウは父の背中に手を当て、この場を離れるように促した。
「それではごきげんよう、ケイネス様。」
眉間に寄っていた皺はすっかり消え去り、いつも通りの澄ました顔に戻った彼女は父親とともにケイネスの前を立ち去ったのだった。
なんとも甘い見積もりをしたものだとケイネスは今更ながら反省した。普段はあまり口にしないシャンパンを飲みすぎたせいで酔いが回り、すこし楽天的な思考へ傾いていたのかもしれない。今ではすっかり酔いは醒めてしまったようだが。
「それにしても、何を考えているのか全く分からない女だった。」
それが、ケイネスがソラウから感じ取った印象だった。学者肌のケイネスにとって、理屈に合わないことや説明がつかないことを扱うのは苦手であった。魔術は彼にとって論理的な解釈や実践の場であり、また他者との交流においても理路整然とした関係性を好んでいた。そんな彼にとって、思考を全く読めないソラウのような人物は不得意であり、はっきり言えば悪い印象をもったのだった。
パーティーの会場から抜け出し、ケイネスは外の空気を吸うために中庭を漠然と歩いていた。屋敷の中では相変わらずの喧騒が続いていて、旧交を温める者、上位の貴族に取り入ろうとする者、他の者の陰口を言う者、悪だくみの計画を話し合っている者など、千差万別の様相が同じ空間のなかで混然一体となっていた。そんな空気に少し悪酔いし、気分を変えるために外へ出たのだった。ケイネスは人付き合いに活発ではないが社交性が決して低いわけでなく、持ち前の頭脳を駆使した権謀術数においては高い水準を見せていた。しかし、彼の根は社交家ではなく研究家であり、多くの人々の前に姿を現すよりは、自分の部屋に籠って魔術の研究をしているほうが性に合っているのだ。
「あなたはいいわね、自由に生きられて・・・。」
手入れの行き届いた初夏の緑が映える中庭を歩いているとき、ふいにそのような声が彼の耳に届いた。それは、鈴のように可愛らしい声だった。導かれるようにその声の主のもとへケイネスがゆっくりと歩み寄ると、そこには一人の女性が小さな猫を抱きかかえながら椅子に座っていた。ルビーを溶かしたような赤い髪と白いドレスとの対比が印象的な、彼がよく知る人物であった。
いや、たしかに目の前にいる女性のことをケイネスは知っているはずだが、その様子は彼が予想だにしていないものだった。笑顔なのだ。小さな猫を両手で優しく包み込んで顔の前までもっていき、目線を合わせながら満面の笑みをふりまいていた。
「自由なあなたが羨ましいわ。ふふ、そんなこと言われても分からないよね」
ソラウはそんな言葉を漏らしながら抱えた猫を彼女は自分の顔へ近づけると、その猫は彼女の頬へ顔を優しく擦りつけるのだった。そんな猫の微笑ましい愛情表現を彼女は幸せそうに受け入れていた。
ケイネスは近くにそびえ立つ大きな樹木の陰に自らの姿を隠し、その光景をじっと眺めていた。なにより彼を驚かせたのは、彼女がこんなにも無邪気で嬉しそうな笑みを見せることがあるという事実であった。先ほどまでの冷たく澄み切った態度とはまるで別人のような姿であり、ケイネスを大いに困惑させた。しかしそれは、彼女の人柄に対する評価について彼の判断に迷いが生じたからではなかった。ケイネスは彼女の屈託のない笑顔を目の当たりにして自分の胸が高鳴るのを感じ取り、それが彼の平静さを失わせたのだ。
「あの笑顔を私にも向けてくれないか。」
ケイネスの心は彼女のことで次第に埋め尽くされていくのだった。




