はじまり
車椅子のホイールが回り続ける音だけが彼の耳に入り続けた。視力はとうに失われており、彼の目に入る光景は暗闇に包まれていた。背中や胸に感じていた先ほどまでの激痛はとうに薄れていてたが、呼吸がうまくできずに苦しそうな呻き声をあげるのであった。ケイネスは、なぜ自分がこのような絶命的な状況になったのか、暗黒のなかで思い返していた。誇り高いアーチボルト家の長子である自分が、なぜこのような悲惨な最期を迎えなければならないのか。意識は次第にぼやけていくなか、目の前の暗がりに懐かしい光景が広がるのを彼は感じ取った。それは、幼いころ、聖杯戦争への憧れを抱き始めたケイネス自身の姿であった。
ケイネスはアーチボルト家の長男としてこの世に生を受けた。魔術師の名門であるアーチボルト家の長子として生まれ、それは同時に彼の人生は初めから伝統ある家柄を受け継ぐ者としての栄光と義務を兼ね備えていることを意味していた。魔術師の能力は一代で完成することはなく、それを魔術刻印という形で次世代へ受け継がせ、それぞれの代で魔術の技能を高めて蓄積し、それをまた次へ伝えることを繰り返して魔術の完成度が高まっていく。そして、ケイネスの父はアーチボルト家7代目当主であり、彼が父から刻印を受け取るならば8代目ということになるが、それは魔術師の世界でも長い歴史を誇る家系となる。そのような伝統に裏付けられた魔術刻印を引き継ぐ筆頭候補として誕生したケイネスは、その地位にふさわしい人物になるべく厳格な教育を施されてきた。それは時に死と隣り合わせになるほど過酷なものも含まれていたが、ケイネスはそれらの試練を乗り越えてきたのであった。それは、彼自身が卓越した魔術の素養と知略を備えていただけでなく、幼少時からすでに名門魔術家の長男としての自覚に芽生えていたからであった。
そのように一流の魔術師へ向けた英才教育が施されていたころ、幼いケイネス少年の心を掴んで離さない楽しみがあった。それは、彼の祖父が語りかける聖杯戦争という名の魔術戦争の昔話であった。その祖父が物語る、魔術師達が技術と知略の粋をつくして命を賭して競い合いは、少年の冒険心を満たすには十分な役割を果たしていた。そして、この祖父こそが40年近く前の聖杯戦争へ参戦した数少ない生き残りの一人であり、聖杯を手にすることは叶わなかったものの、その経験に基づく現実味のある内容は、少年にとっては過去の歴史上に現れた英雄達の伝説を聞くのと同じぐらい興奮を伴うものであった。
ある日、ケイネス少年はいつものように祖父のいる部屋へ向かい、聖杯戦争の思い出話をせがんだ。可愛らしい孫のおねだりに老人は頬を緩めながら話を始めた。午後の温かい日差しがガラス越しに柔らかく降り注ぐ部屋の中で、老人と少年は穏やかな時間を過ごしていた。少年が一通り話を聞き終えて満足すると、頬をすこし上気させながら訪ねた。
「次の聖杯戦争はいつになるの?」
老人は顎に蓄えた立派な髭を右手で撫でながらしばらく考えこみ、
「次の聖杯戦争は、規定通りならば25年後になるかな」
と答えた。すると、
「おじい様、僕が次の聖杯戦争に勝って、聖杯を持って帰るよ」
と、ケイネス少年は無邪気そうに答えた。祖父はほんの一瞬だけなにか思いつめたような表情を見せた後、いつもの穏やかな笑顔に戻り、
「そうか、楽しみにまっているよ」
と手短に返事した。こうして、ケイネス少年の魔術師としての夢はこの時点で決定したのである。