湯けむりと白湯と魔法陣
白野ゆのは、デスクの上に散らばった資料を前に深くため息をついた。
深夜まで続いた会議の残滓が肩にずしりと重くのしかかる。
時計はすでに午前0時を回り、オフィスのネオンだけが冷たく光っていた。
「もう無理だ…」
ゆのはカバンからステンレスのポットを取り出し、そっと蓋を開けた。
中に残るのはほんのわずかの白湯──だが、その湯気を見るだけで、どこか心がほぐれる気がした。
「白湯…今日もありがとう」
急かされるように飲み干した一杯で、少しだけ肩の力が抜ける。
それでも胸の奥には、ずっとくすぶる焦燥感が残っていた。
「こんな毎日、いつまで続けるんだろう」
ぐるぐると同じ景色を回るような日常から、一度でいいから抜け出したい。
そう思った瞬間、ゆのは決めた。
――明日は、有給を取って温泉に行こう。
翌朝。
まだ眠気残る中、ゆのは草木の息づく山道を登っていた。
手には、朝淹れた白湯を詰めた保温ボトル。
「これさえあれば、どこでも私の癒しになる」
そう自分に言い聞かせながら、秘湯と呼ばれる山奥の温泉宿へと足を進める。
昼下がり、ようやく辿り着いた露天風呂。
蒸気の向こうに緑が揺れ、鳥の声が遠くに響く。
ゆのはためらわずに湯船に身を沈めた。
肩まで浸かり、ふうっと息を吐く。
手元には、忘れず持ってきた白湯の入ったポットがあった。
「はぁ…もう何も考えたくない」
一口飲むと、熱が身体の芯へゆっくり広がっていく。
そのとき──
底の岩にうっすらと浮かび上がる、淡い光。
湯気の隙間から、赤や青の紋様を描く魔法陣が現れた。
「な、なにこれ…?」
驚きの声を上げる間もなく、ゆのは眩い光に包まれた。
――そして、次の瞬間。
気づけば、見知らぬ森の小道に立っていた。
背後では、遠くから「グゥ…グゥ…」と低い鳴き声──まさか、豚が……?
白湯片手の癒し旅は、こうして異世界への扉を開いた。