その七
喜市は日が暮れると、火鉢やらを残したまま自分の長屋へと戻っていった。其の頃になると、清次郎の具合もすっかり良くなっていたのは、不思議なものであった。
自分を気遣ってくれている家族よりも、何気なく傍にいてくれる見知らぬ男の方が気が休まるとは何とも不思議だと思うと、清次郎に力ない笑いが沸いた。
それからも喜市はことあるごとに清次郎の世話をしてくれた。
ここのそばは不味いとか、煮しめならあすこのほうが旨いとか、そんな取るに足らないことから、口入屋から聞き入れた用心棒の用立てをそれとなく流してくれたりもした。
寝てるんなら手伝え、と長屋の住人の花見にも駆り出されたが、お陰で清次郎は長屋の皆と親しくなったし、行きつけの蕎麦屋のばあ様に可愛がられたりするようにもなった。
そんなおちおち寝ていられない生活の中で、清次郎はいつの間にか頻繁に起きていた自分の眩暈のなくなっていることに気づいた。
しかし相変わらず匂いは分からない。
正直そんなものだから、味もよく分かりはしないのだが、喜市がいそいそ連れて行ってくれる飯屋で自分が食うのを満足そうに見て笑う喜市を前にすると、不思議と美味しいような気もした。
「しかし、武家ってのも窮屈なんだねえ。毎日一人で飯を食うて旨いものか。毎日一所懸命に働いてたのに、思いやりってもんがないのかい。」
喜市は、共に食べるもがいると旨く感じるな、と言う清次郎の身の上を知ってこう言ったが、武家では男子が一人で飯を食うなど特段珍しいことではなかったので、清次郎にはこの言葉のほうが意外であった。
それは今まで感じたことのない類の「思いやり」なのだ、と分かった。自分が喜市や長屋の住人と過ごす時に感じる心地よさはそれなのだ。
故郷の家族も、江戸の家族も、自分に気遣いはしてくれていた。配慮してくれてはいた。
しかし、今自分の周りにいる人間のそれは、明らかに違うように思う。
隣の老夫婦は、自分に古い火鉢を譲ってくれた。清次郎が喜んで礼を述べると
「そんなに喜んでもらえて嬉しいね。これからは少しあったかろうね。」
と笑顔で口にした。
この夫婦だけではなく、他の住人も色々と世話を焼いてくれ、清次郎が屈託なく喜ぶと、照れながらも嬉しそうな顔をしていた。
岸本のところへ行く途中、迷って世話になって以来親しくしている住職は、清次郎が歯ごたえが良い沢庵をもりもりと食べ、旨いと褒めるとそれを食いきれぬほどに喜んでもたせた。
清次郎自身、それを上手く表現することは難しかったが、彼らのする思いやりとは、向かい合って食う飯のようだと思った。
「清次郎、開けるぞ」
言うより早く、侘助が戸をぱしんと引いた。後ろでは喜市が拳骨にした手の甲を、侘助の頭に落とすと
「清次郎殿、だろう。」
と叱った。頭を両手で押さえる侘助が、恨めしいそうな目つきで見上げると、べえ、と舌を出した。
「おい、侘助しっぽ」
突然あがった喜市の声に、侘助は思わず頭にあった両手をそのまま尻に当てる。
すると喜市は
「しっぽくでも食いに行くかい」
と、意地の悪い笑みをたたえて侘助にたずねた。
侘助は立て続けの仕業に眉間の皺を深くすると、かかとを後ろに蹴り上げて喜市の脛を蹴った。突然の痛みに、喜市は顔を引きつらせ言葉を失っている。
其の様のおかしさに、清次郎はこらえきれず大いに噴き出した。侘助はげらげらと笑う清次郎の膝にひょこと乗っかる。
「隣のばあさまが花見に付き合えだと。清次郎も行くぞ。」
と、足を上下にぶらぶらと揺らして遊びながら言う侘助は、土間の隅に何かを見つけるとひょいと飛び降り、かまどの脇のいくつものかめの中から沢庵や糠漬を取り出し
「これを土産に持っていくぞ」
と二本ほどつかむと外に行ってしまった。おそらく喜市の隣に住むばあ様のところへ持っていったのだろう。
「あいつめ、あんなにしっかりつかんだら後で臭いじゃないか」
苦々しい顔をして呆れるものの、喜市はまるで弟にでも言うように
「侘助、糠は洗って落として来い。お前の手もしっかと洗えよ。」
と戸の外に顔を出して声をかけた。
辺りには既に侘助の持ち出した沢庵の匂いが一杯に漂っていて、こらえきれず清次郎は思わず後ろの小さな引き戸を開けた。
途端に抜ける風ににおいは直ぐに一層され、代わりに暖められた春の土の香りが部屋に入り込む。
「ああ」
喜市は何かを思いついたようにいつもより緩くなっている着物の懐を探ると、細長いものを取り出した。
「清次郎殿、最後の一枝、あんたにあげるよ。」
そう言って差し出した手には、三つばかりの花がついた梅の枝があった。
「まだ花が咲く前に、子供らが凧ぶつけて折っちまってね。うちで水をやってたらやっとで咲いたのさ。お初ちゃんなんか、匂い嗅ぎすぎて鼻の頭に黄色いのつけてたよ」
思い出し笑いをする喜市から、まだ初々しく張りのある枝を受け取ると、自然と鼻を近づけて大きく息を吸った。
其の瞬間、清次郎の頭には、郷里の凍てつくような月と、それに照らされた恐ろしく白い梅の花の景色が駆け抜けた。春と言うにはとても足りないあの冷たい風が、肌をなでたような気がした。
気づけば、頬の上をほろりと一つ、涙が尾を残して流れている。
目の当たりにした喜市は咄嗟に畳の上に膝で乗り上げ、少し狼狽して、どうした、と尋ねたが、清次郎は言葉なく首を振ると、少しうつむき言葉をなくす。
すると少ししてやっと一言
「誠に良い香りだ。」
と、涙も拭かずに口にした。
清次郎の穏やかで清清しい顔に、一瞬喜市は気を取られたが、直ぐに我に帰ると真剣な顔をして清次郎に問いかけた。不意に沸いた期待のせいで、問いかけたと言うよりは、問い詰めるような口調になった。
「清次郎殿、梅の香がわかるのか」
清次郎は梅の枝を持たぬもう一方の手で漸く涙をぬぐうと
「ああ。でも、最初に分かったのは漬物の匂いだが。」
と言って、笑った。
驚きで直ぐには言葉が告げなかった喜市であったが、鼻の奥それを打ち切って笑いが一度噴出すと、止められずにけらけらと笑い声を上げた。
「其の方が、長屋暮らしっぽくていいじゃあないか。漸く板についてきたんだな」
からかって口にするものの、その顔には安堵が満ち満ちて見えた。
「ようし、それでは花見に参ろうぞ。」
喜市はわざとらしい役者口調で言うと、井戸の方へと去っていった。
おそらく侘助の手伝いにでも行ったのだろう。
あと、半刻程もすれば、肴を囲んで皆でやかましく花見をしているはずだと思い浮かべると、清次郎は自然と頬がゆるんだ。
故郷では今頃、梅の花がその盛りを迎えているだろう。
手の中で咲いている咲き遅れた梅が、その風景を懐かしく思い起こさせたが、しかし清次郎の直ぐ傍で漂う花の香には程遠い其の長屋の香りが、今の自分には愛おしく思えた。
花見を終えたら、久方ぶりに手紙でも書こう。
忘れえぬ郷里の家族と、江戸の家族へ、梅の花を一つずつ添えて。