その六
そうした一件の末、岸本のお陰で全てが首尾よく運び今日の日を迎え、清次郎は岸本の用意した部屋でこれからを過ごすこととなった。
翌朝いつものように早々に起きると、故郷からずっと傍らに置いている筆を取り出し、町奉行に向け今回の事の顛末と弟に仕事の跡目を任せたい旨を書き、近所の探索がてらに診療所まで自ら赴き岸本に託した。
よく晴れた日だった。
少し離れた長屋へ帰るのに、清次郎は気分転換に遠回りをしようと思いついた。
働きづめの毎日では、時分を気にせずぶらつくなど出来ぬことである。
ゆっくりと歩みを進めてわき目を振れば、まだ寒風吹く季節ではあるがちらほらと枯れ草の合間にわずかに青い葉が覗いている。
大川の手前に出ると、まだ蕾もつかぬ桜木の脇でここそこに花をつける梅木に出会った。
その下では、子供らがその鼻を天に向けながら一生懸命匂いを嗅ぎ、何が楽しいのかじゃれあいながらけらけらと笑っている。
頬の緩むような光景に誘われるように清次郎もその木に近づき、そっと幹に触れて見上げてみたが、当然、清次郎に其の柔らかであるはずの芳香は届かない。
微かに記憶に残っていた郷里の梅の香は直ぐそこにあるようで、しかしはっきりと思い出すきっかけを得ることは出来ず、余計にぼやけていくように感じた。
途端に清次郎の胸の奥は、ぎゅっと握りつぶされたようにきしむ。
記憶の中の郷里にすら辿り着けず、知る者を頼ってはいけぬ今の状況は、すっぽりと暗い穴に一人取り残されたように不安であった。清次郎の持て余す気持ちとは裏腹に楽しそうに周りを駆けて帰っていく子供たちの声が、どこかとても遠くに聞こえる。
次第に目の前がぐるぐると回る。締め付けられた胸が呼吸を遮るのを喉元で押さえ込み、肩を上げて呼吸を整えた。
耐え切れず幹に寄りかかってしゃがみ、ぐらぐらとする頭で必死に体の軸を保とうと務めた。気づけば先ほどの子供が去ってしまった梅の木の下には、清次郎の他にもう誰もいなかった。
「ああ、運が悪いな。」
呟くとほぼ同時に清次郎の体はぐらりと右に傾いた。
浮き出た根に頭を打ち付ける刹那、地面とは違う少し柔らかな感触が清次郎を受け止める。
「どうしたい、お侍さん」
置いていかれた洞穴の底に飲まれていくように意識が遠のく彼方で、春霞のように柔らかく、暖かな声がした。
随分と久し振りに郷里の夢を見た。梅の花はまだ一つも花をつけていなかったが、木の上に積もった雪が月光に照らされて光るさまは満開の梅を思わせた。穏やかな心持の中、吹き込む風に起こされて目を開ければ、まだ見慣れぬ木目の天井が見えた。少しずきりと痛む頭に顔をしかめる。
額に手を当て重い頭を支えるように上半身を起こせば、いつの間にか自分の部屋の布団の上に寝転んでいた。どう思い返しても記憶がないし、これ以上考えると余計に頭が痛みそうなのとで清次郎は首をぐるりと回して鳴らすと、再び掻い巻きの中へともぐりこんだ。
すると突然、ぱしりと戸が開いた。
清次郎は首だけでそちらを見やると目に入ったのは、年のころは二十かそこら、自分と同じ年頃であろう立ち姿のしなやかな、所謂優男が立っていた。
「ああ、具合はどうだい」
そう言いながら見慣れぬ男が近づく。手には鉄瓶と湯のみ、そして握り飯があった。
「貴方がここまで運んでくれましたか。」
清次郎がゆっくり体を起こそうとすると、そのままで、と男が止めたので言葉に甘えて体の向きを変えるだけに留めた。
男は部屋に上がりこんで清次郎の脇に座ると湯飲みやらを傍らに置いた。
「しかし何もない部屋だねえ。こんなお飾りみてえな火鉢じゃ寒かろうよ。」
そういう男の脇には見慣れぬ大きな火鉢が置いてあり、男は鉄瓶をそこにかけた。
「貴方が持ってきてくれたのか。」
と聞くと男は、へへ、と軽く笑った。
「しかし何故、私の家が分かったのですか。」
「俺は喜市だ。同じ長屋のあんたの向かいに住んでるよ。隣のばあ様から岸本のじいさんのところに薬貰いに行くのを頼まれてね。天気が良いからって回り道して帰ったら、あんたが倒れてたんだよ。」
話しながら男は引っ掛けていた羽織を脱ぐと、清次郎の上にかける。男の着ている着流しは、よく見ると羽黒山の小紋で、どう見積もっても小判一つは下らなさそうな見事なものだった。
「何だとよってみれば、昨日何だかうちの向かいでがやがや入ってきていた人じゃないか。取り合えず岸本のとこに背負っていったら、大丈夫だから長屋へ連れて帰れって言われてね。」
というと、男はにやりと笑いながら、とんとんと拳で自分の右肩を叩いた。
「いや、これは申し訳ない」
礼を、とすぐさま体を起こそうと頭を上げれば、またも頭痛が遮った。
喜市は片手でそれをいなして今度は柔らかく笑うと、壁ぎわに腰を下ろして壁に寄りかかった。
そして懐から細長い朱塗りの煙管を取り出すと、ひょいと清次郎に振って示し
「大丈夫かい。」
と聞いた。
痛む頭で清次郎が緩くうなづけば、返して喜市も軽く二三度うなづき煙管に葉を詰める。
清次郎は別段煙草の煙が苦手なわけではなかったが、自分を気遣って微かに隙間風の流れる風下に行った喜市の心遣いに感謝した。
以降、喜市は特段何をするわけでもなく、ただ部屋の中にいた。鉄瓶の湯が沸くと、茶を勧められた以外は、話もしなかった。
が、清次郎はそんな初めて会う男との気まずさは微塵も感じす、返って穏やかな時間が心地よくもあった。