その五
清次郎の話はこうであった。
年が明けてしばらくすると、弟の元服の儀があり、それを機に自分は家督を弟に譲りたいという。
そのためにはどうか自分の診察をして、適当に働けぬ病であると診断してはくれぬかと。
その後は、町に長屋を借りる算段もしているので、そこで細々仕事をするというのだ。
岸本はもちろん清次郎が養子であることも知っていたので、彼の申し出の理由も十分理解できた。
しかし、清次郎が根っからの武家の坊ちゃまであることはわかっていたから、そう簡単にはいかぬぞ、と何度も説いた。暮らしていけるはずが無いのだ。
けれども一向に清次郎の気持ちは折れず、それどころか今まで見せたことのないような眉間のしわを寄せ、益々意地になって意思を突き通す一方だった。
半刻ほどにも渡った問答の後、いよいよ根負けした岸本は渋々承知するしかなく、ようやく清次郎は元の穏やかな顔に戻った。
「そのかわり」
岸本は話の最後に付け加えた。承知してもらえるなら何か条件を付けられても飲む覚悟をしていた清次郎は、姿勢を正して岸本を見据える。
「長屋はどうか私のところに来て頂けないか」
二つの目が驚いたように目を見開くのを見て、岸本は笑った。
「何も一緒に住もうってんじゃない。私の持っている長屋だよ。む、ただの医者が長屋を、などと思ってらっしゃるか」
岸本がからかうように言うと、清次郎はぶんぶんと首を振って答えた。
「いえ、しかし、もう決めてしまいまして。」
遠慮がちに答える清次郎に岸本は続けて言う。
「いえね、実は私、元は旗本の次男でしてね。継ぐ職も無いので道楽のつもりで医学を学んで、餞別に長屋を買い与えてもらったんですよ。
それでね、何かのご縁だ。もし貴方がよろしければ、ぜひとも用心棒としていて頂きたい。
最近はどこも物騒でね。用心棒がいるとなれば、頭を抱えずとも長屋も借り手が直ぐにつくだろうからね」
本の言い分がただのこじつけの理由にすぎず、自分を思ってのことだというのが清次郎には十分にわかった。
用心棒、という肩書きを用いたのも、武士としての面目を立てるためだ。
清次郎はしばらく押し黙り、その後ゆっくりと口を開いた。
「岸本殿。貴方のお心遣いはありがたいが、それに甘えるほどのことを私はしておりません。」
丁重に断る清次郎を前に、岸本はひげをひねりつつ少し悩んだ。外ではさわさわと風に乗って枯葉が舞い上がる音がする。
「私はね、医者が治す物は怪我や病だけではないと思うのだ。清次郎殿、あなたはもう少し、ご自分を労わるべきだ。」
そうして自分の胸の中心を人差し指でとんとん、と指し示すと
「きちんと食えど、働けど、寝れども、それでも笑えなければね、必ず患う所があるんですよ」
言われて清次郎は気づいた。記憶を辿れど、声を出して笑ったのはいつの事だったろうか、思い当たらない。
わずかにちらつくのは、里にいた頃の友人達のいる風景だった。
来る日も来る日も、張り付けたように柔らかな微笑を湛えた。穏やかに、誠実に。
そんな日々に疑問を覚えることさえなかった。
正座したまま、握り締めた手をひざに置き黙る清次郎に、岸本は続けて言う。
「清次郎殿、この部屋に入った時、何か気づかれなかったろうか。」
不意の質問に、清次郎は眉間に緩く皺を刻んで考える。が、一向に答えは思い当たらない。
つい十日ほど前に来た時と、何ら変わりは無いのだ。
そんな清次郎の様子を見つめると、岸本は棚の横にある布袋を取り出し、中を広げてみせた。
そこにはからからに茶色く干からびた何かの葉が、ぎっしりと詰まっている。清次郎は岸本の意図がつかめず
「はあ、なんでしょう」
と聞いたが、岸本は何か納得したように、口をへの字に曲げて一つ頷いた。
「これはね、蕺〈〈どくだみ〉〉だよ。
取り寄せたんですがね、知り合いの医者も欲しいというので、後もう三袋ほどあるんだがね。
しかしこれがいかんせん凄い匂いでね。さっき弟子が耐え切れず逃げ帰ったほどだよ。」
言われて清次郎は驚いた。全く気づかなかったのである。
半ば信じられずに放心状態の清次郎を前に、岸本は袋を元の場所に丁寧に戻すと、言った。
「実は先日、貴方が御用ついでに寄って頂いた折に下さった魚がですね、腐っておってね。
匂いがね、こう、凄かったんでね。
几帳面な貴方様のことですから、よもやうっかりはあるまいと。それならばもしやと思ってね。しかしまあ、料理は貴方が作るわけでもなし、問題なかろうと、年明けのお父上の診察の際にでも申し上げようかと。」
そこまで話すと岸本は本当に申し訳なさそうに、すまない、と一言口にした。
清次郎はそれに、いや、とわずかに言葉を返すと、いつから匂いがわからなくなったのだろうと記憶を右往左往した。
岸本は、清次郎殿、とそれを引き止めるように穏やかに呼びかける。
「肝心なのは匂いがわからないことではない。匂いがしないことに気づかなかったことですよ。」
自分をなだめる穏やかな笑みを受け止めたものの、清次郎は急に自分の体が恐ろしくなった。ものに匂いがあるということですら、忘れていたように思えた。
そんな大事なことにすら気づかぬ程に、自分の周りを安穏に運ばせることに必死であったのか。そんなつもりは、慣れた今では毛頭なかった。
「まあ、そんなわけだから。知らない人の中に行くよりは、幾分かここの方が良いでしょう。
何かあれば、私も直ぐに診に行けすし、おそらくお父上も心配なかろう。」
頷きながら言う岸本に言うでもなく、清次郎は僅かな悲しさを以って呟いて見せた。
「父上は、かような心配なさりましょうか。」
養子に入り今まで他人行儀な気遣いはあれど、情のこもった心配などは片手で足りるほどにしかされたことが無いように思う。
岸本は曇る清次郎の顔を眺めながら、ふと顔を引き締めた。
「いや、ここに来るたびに、清次郎殿が新調してくれた服だとか、弟が清次郎殿に憧れて勉学に励んでいるだとか、まあ、何かにつけて清次郎殿が、と嬉しそうに言っていたよ。
私が褒めれば、ためらうことなく「そうだろうそうだろう」などと申されてね。」
正直に吐けば、嬉しかった。
想像もしていないことに、ぎゅっと詰めていた肩がゆっくりとほどけ落ちるのを感じた。
わざわざ岸本にまで言ってのけたそれが心からの言葉なのか、見栄なのかを見極めるのが容易なほど、三年という距離を置けど共に過ごした月日は充分義父を理解させるものであった。
加えて、義弟の心が少しでもこちらに向いていたことを思うと、心の底から安堵した。
うつむけば思わず涙すらこぼれそうで、清次郎ははっとして顔を上げる。
清次郎の心のうちは、今の言葉ですっかりと不動のものとなった。
「是非に、お世話になりとうございます」
しっかりと放たれた言葉に、今度は岸本の二つの目が見開かれた。
おそらく岸本は、最後の引止めのつもりで、義父の言葉を引用したのかもしれない。
しかし清次郎には、最後の一押しとなったのだ。そんな家族のためを思えばこそ、そうしたいと思ったのだ。
心配はかけるやもしらねど、この選択が間違っているとは思えど。変える気になど到底なれなかった。
このまま病を装ってはなれようと、狩野の家に戻ろうと、一家が自分に気を使って生きていくことは分かっていたし、何より自分の弟には与えられるはずであった将来への路を、歩んで欲しかったのだ。
自分と同じ思いはして欲しくなかった。
岸本はもう十分にこんがらがったひげを再びひねり倒し、むう、と唸るとやがて観念したように
「あい分かり申した。こちらこそ宜しく願います」
と一礼した。